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となりのとなりの物語  作者: 福本銀太郎


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20/24

第20話 事件です。第4節

 大き過ぎるお世話が始まった。


 その夜、大久保と房江は、ほとんど押しかけるように涼子の家に上がり込んだ。

「先ずは晩御飯だ」といって房江が作った。

 結花と翔太は房江を手伝うことになって張り切っている。

 子供達は晩御飯が賑やかになって喜んでいるようだ。


 台所の奥の六畳間では、大久保と涼子が、ローテーブルを挟んで静かに話しこんでいた。

 井上と久兵衛が逮捕された内情を、大久保はかいつまんで説明した。

 二人に非はない。多分、不起訴処分ですぐに戻ってくる。との見方を話した。

 我々が勝手に動いた結果であって、涼子さんには責任はありません。と念を押した。


「結局、またご迷惑をお掛けしたんですね。すいません」

「大丈夫ですよ。心配いりません・・・」

 と言いつつ、大久保は、やはりそうきたか。と思った。


 房江が台所で料理を完成させた。

 今日はかつ丼だ。

「出来たよ。はい、これ持ってって。言った通りにするんだよ」

 と、子供達に声を掛けた。

 子供達は、は~い。と言って食事の支度にかかった。


 翔太がどんぶりを持ってやって来た。

 大久保の目の前にドンと置き、

「ほら、かつ丼だ食え。お前がやったんだろ」

 と言った。


 次に、結花が味噌汁を持ってきて、

「今日は特別。味噌汁付きだ。ネタは割れているぞ。そろそろ吐いたらどうだ」

 と言った。


 なんだ?


 と、一瞬戸惑った大久保だが、ふと見ると、房江が腕を組んでニコニコしながら見ている。

 ――はは~ん、なるほど。井上劇場の開幕だな。


 房江が、子供達に取り調べコントかなにかの、お芝居を仕込んだ。と解釈した。

 深刻な話をする前に、一旦場を盛り上げようってことか。

 自分は、犯人役ってことだな。

 よーし、そう言うことなら。と、大久保は房江に目で合図して了解した。


 すると、房江がチャイコフスキーの『白鳥の湖』を口ずさんでBGMを奏でた。

 ターン タンタンタンタンターン タンターン

 というお馴染みのメロディだ。効果音が抜群の悲愴感を醸し出す。


「刑事さん、私が一体なにをしたっていうんですか?」

 と、大久保も一応、芝居にのって答えた。


 翔太がテーブルに腰を掛けて、

「浮気のことだよ・・・お前がやったんだろ?」

 続けて、結花が連絡帳をひろげて言った。

「デカ長。相手はキャバクラ『ローズヒップ』の満里奈という女です」


 え?っと、大久保は虚をつかれてしまった。チラッと涼子を見た。


 すると結花が、

「おーいとぼけるな。とぼけてもダメだぞ。目撃者は大勢いるぞ!」

 ドンっとテーブルを叩いた。


 大久保は涼子のほうをチラチラ見ながら、

「あ、いえ、あの、その、あれは、ですから・・・」

 と、いきなり現実に戻され、芝居である事を忘れてしまった。


 翔太が、熱くなった結花を制した。

「まあまあまあ・・・」

 大久保に向き直って、

「お前、田舎は山形だったよな。お袋さん元気か? 山形は今頃雪だな。寒いだろうな。ダメじゃないか。お袋さんに心配かけちゃ」

 と、なだめにきた。


 結花がまたしても連絡帳を見ながら言った。

「デカ長、ローズヒップの満里奈は派手で男好きのする、いかにも軽薄な女らしいですが」

「あの娘はいい娘だよ。見た目と違って。悪い娘じゃない。根はいい娘だ」

「そうだろ」

 と、翔太が大久保に返事を促した。


 そう言われればしょうがない。確かに根はいい娘だ。

 大久保は仕方なく、

「ええ、悪い娘じゃありませんよ」と、答えた。



「じゃあ、悪いのはお前だな」

 翔太が聞いた。


「そんな・・・僕は、何も・・・」大久保は返答に困った。


「じゃあ、誰が悪いんだ。うちのおかあちゃんが悪いとでも言いたいのか!」

 結花がもう一度、ドン!っと、テーブルを叩いた。


「いえ、決してそんなことはありません」大久保はあわてて否定した。


「よく見ろ。美人だろ。うちのかあちゃんは」と、翔太。

「こんな美人を泣かせたいのか。お前は! えっ!」と、結花。

「どうなんだ!」

 二人揃ってテーブルを叩いた。ドドン。

 味噌汁がちゃぷちゃぷっと、こぼれた。


 大久保は思わず「すいません」と答えてしまった。


 翔太が優しい口調に戻って言った。

「やきがまわったな。もう楽になっちゃえ。・・・やったのはお前だな」


「はい、私がやりました・・・」

 大久保の首はうなだれていた。が、ハッと目覚めて、

「違う違う! なにこれ。もう終わり終わり」

 と言って、自ら幕を下ろした。


 はい。OKOKっと、房江が手を叩いた。

「うん。大体合格点だね。ユカちゃん、あそこね、下から見上げようか。一回潜って。『じゃあ、誰が悪いんだ』ってとこ。大久保君の下からね。潜ってだよ」


 結花がテーブルに手をつき、下から見上げた。

「こう? じゃあ、誰が悪いんだあ」

「うん、そうそう、そんな感じ」


 大久保が愚痴り始めた。

「そりゃ芝居が始まったというのはわかりましたよ。でも、ネタがひど過ぎますよ。ネタが。子供達にああいうことやらせないで下さいよ」


 涼子がくすくす笑ってた。

 さあ、飯だ飯だ。って事で、みんなで楽しく食事をした。


 食事が終わった。


 *   *   *


「涼子ちゃん、旦那さんっていい男だったのかい?」

 房江が唐突に聞いた。

「な、なんですか?いきなり」

「いや、涼子ちゃんが選んだ人だから、さぞかし、いい男だったんだろうなって。こんなむさ苦しいのと違ってさ」

 大久保をさして言った。


「そんな。ただ、いい夫でしたよ。私は幸せでしたから」

「そうかい。それじゃ、さぞ残念だったね」

 房江は大久保に目配せをした。


「涼子さんは旦那さんの無実を信じているんですよね?」

 今度は大久保が明るく問い掛けた。


「ええ・・・もちろん・・・信じてます・・・」


「裁判傍聴してて、どう思いました? ひどい裁判だったでしょ」と、大久保。

「正直言って・・・私、分からなくなっちゃって・・・」

「分からなくなったって事は、旦那さんが信じられなくなったって、ことですか?」

 翔太が大久保に吐露したことだ。

 あえて立ち入った質問を投げかけた。


「いえ、そういう事じゃなくて・・・何と言っていいのか・・・」


 大久保はさらに突っ込む。

「旦那さんが信じられなくなったって事は、翔太君も信じられなくなったんですか?旦那さんと翔太君は同じ事を言っていますよ。無実だ。って」

 だんだんと取り調べの様相が出てきた。


 今度は翔太が反応した。

「おじさん、なに言ってんだよ」

「翔太君、よく聞いてろ。大事なところだ」

 大久保は翔太にもなにかを伝えようとしている。


 涼子が思わず止めた。

「ちょっと待って下さい。子供の前で話す事ではありません。やめて下さい」


 以前、涼子の家におじゃました時は、この時点で引き下がってしまった。

 もう子供達を巻き込みたくない。という涼子の声に従ったからだ。

 だが、今回の大久保と房江は、問題の本質は、どうやらそこにあるのではないかと思っていた。そう話し合って今日は押しかけている。ここでやめるわけにはいかない。

 大久保はもう一歩踏み込んだ。


「うん、涼子さん。多分そこが問題なんだ」

「どういうことですか?」

「この先に進むべきなんです。翔太君も一緒に」


「ここには結花もいるんですよ!」

 涼子が声を荒げた。


 大久保は、一旦納得したかのように、

「うん、そうですね。とりあえずユカちゃんには・・・」

 と、房江に目配せをした。


「ユカちゃん。好きなぬいぐるみある? オバちゃんに紹介して」


 結花が部屋の隅に置いてあるブタのぬいぐるみを持ち上げた。

 結花はブタキャラが大好きだ。

 ぬいぐるみは二体ある。一つはオスのブタ。もう一つはメスのブタ。ブタのカップルだ。名前も付いている。

「こっちがブウ輔でこっちがブウ子。二人は付き合っているんだよ」

 と、結花が房江に持ってきた。


「じゃあ、おばちゃんとブタ二匹とであっちで遊ぼう。おいで」

 房江が、結花の手を引いて連れて行こうとした。


「いや、ここにいる。お話聞きたい」

「ダメ。言う事聞きなさい」

「いやだもん。ぶうううう」

 結花が強情に突っぱねた。

 房江は――、

「バカ言ってんじゃない。こっちへおいで」

 と、無理に連れて行こうとするが、結花が頑固に食い下がる。

 暫く押し問答の様に続いた。


 大久保はその様子を見ていて、何故か、涼子が翔太を叱るところを思い出した。

「翔太。今度は何やったの!」と昼間見た場面だ。

 妙に重なった。房江に言った。


「奥さん、ユカちゃんもここに居てもらいましょう」

「えっ」

「ユカちゃんにも話を聞いてもらいましょう」

「――その代り、ユカちゃんちょっといいか」

 と言って、結花の持っていたブタのぬいぐるみを取り上げ、

 何を閃いたのか、

「話は、このブウ輔とブウ子の話です」

 二匹のブタをテーブルの上に置いた。


「はあ?バカな事言ってんじゃないよ」

 房江は呆れ顔だ。

 それでは主旨が変わってしまう。涼子の話をしに来たのだ。


「バカな事だったら、バカな話だったら、ユカちゃんも聞けるでしょ」

「あんたね。真面目にやんなよ」


「いえ、大真面目です。俺、全部引き受けます。一切合切全部。引き受けます」


 大久保は、グッと目に力を込めた。大真面目だ。

 一切合切全部引き受けろ。と言ったのは房江である。

 一切合切とは、涼子と翔太と結花。この親子三人を全員含めないと意味がない。

 この場合の一切合切とはそういうことだ。と大久保は思った。


 房江は、大久保の覚悟を汲み取ったようだ。

 口元が緩んでこう言った。

「ほう、おもしろい。見せてもらおうか。大き過ぎるお世話って奴を。やりな」


 大久保が、ブタのぬいぐるみを手にして、お話を始めた。


 ブタ村のブウ子は、悲しく悲しくてずっと泣いておりました。

 そこにブウ輔が現れて二人は出会いました。

 明るいブウ輔はブウ子にとって太陽みたいな存在でした。

 ブウ子は太陽の日差しをいっぱい浴びました。

 いつしか自分もひまわりのように咲くことが出来ました。

 そして二人は結婚したのです。


「やったあ。ブウ輔とブウ子は結婚すると思ってたんだ」

 結花が喜んだ。


 それだけではありません。

 幸せな結婚生活を送っていた二人にはなんと子供が生まれました。

 しかも、二人も。

 お兄ちゃんはブウ太。

 妹はブウカ。

 二人ともとってもいい子です。


「じゃあ、これがブウ太でこれがブウカね」

 そう言って、結花がブタの貯金箱とブタのマグカップを持ってきた。


 テーブルの上には、

 ブタのぬいぐるみの、ブウ輔とブウ子。

 貯金箱のブウ太、

 マグカップのブウカ、が並んだ。


 家族四人は仲良く幸せに暮らしていました。

 が、ある日、ブタ村で殺人事件がおきました。

 村長さんが何者かに殺されてしまったのです。

 そして犯人として捕まったのが、なんと、ブウ輔でした。


「え、ひどい。ブウ輔はそんなことしないよ」

 結花が思わず言った。


 そうなんです。ブウ輔は犯人じゃありません。本当は無実なんです。

 でも、ブウ輔を犯人に仕立て上げないと困る大人がこの村には沢山いるんです。

 ブウ輔は訴えます。俺は無実だ。一生懸命訴えました。

 でも、誰も信じてくれませんでした。

 悲しみにくれたブウ輔は、ある日、崖から飛び降りて自殺してしまいました。


 大久保は、テーブルの上からブウ輔のぬいぐるみを、そっと落とした。


「イヤー。ブウ輔死んじゃいやあ」

 結花が落ちたブウ輔を拾い上げた。

 結花のリアクションが話を引き立て、皆はどんどん引き込まれていく。


 でも、ブウ輔の無実を信じている人がたった一人いました。

 それが、ブウ太です。


 大久保はブタの貯金箱を握りしめ、どんっと置き直した。

「なあ」と言って翔太を見た。

「うん」と言って翔太も答えた。

 いつしか翔太も話に聞き入っている。


 問題はブウ子なんです。

 村のみんなから、お前の夫は殺人犯だ。と責められます。

 そんなことはありません。私の夫は無実です。

 そう言う度に、石や空き缶を投げられイジメられます。

 それがあまりにも耐えられなくて、

 そのうちにブウ輔の無実が信じられなくなってきた。


「ダメよ。信じてあげなきゃ」

 今度は涼子が口走った。


 そうですよね。ブウ子はブウ輔の奥さんですからね。

 でも同時にブウ子はブウ太の事も信じられなくなってきたんです。

 だって、二人の言っていることは同じことなんですから。


「もっとダメです。ブウ太君は愛する息子よ」

 涼子がさらに言った。


 しかしこれはですね。愛する息子だからなんです。

 ブウ子は信じられなくなった。のではなく。信じなくなったんです。

 自ら、ブウ太のことを信じないようにしたんです。

 ――たぶん、無意識に。


 涼子はゾクッと悪寒が走った。

 そして、翔太を見た。

「まさかそんな」とつぶやいて、まじまじと翔太を見た。

 あ、目が充血している。

「翔太、目薬さした?」

「あ、そうだ」

 と言って、翔太は冷蔵庫から目薬を持ってきた。


「待って。自分の息子を信じなくするなんて、ブウ子ちゃんは、どうしてそんな事する必要があるんですか?」

 まじまじと涼子が聞いた。


 たぶんですね。

 ブウ子は、ブウ輔が自殺した事に対して必要以上に責任を感じていた。

 無実のブウ輔が自殺したのは、自分に原因があるのではないかと。

 本来なら私は、無実を訴える夫の、唯一の心の支えに成らなければいけない。

 なのに、成れなかった。成ることが出来なかった。

 悔やみに悔やんでも悔やみきれない。

 私が夫を信じ抜いて支えていれば、あの人は自殺なんかしなかったのではないか。

 本当はあの人を追い込んだのは、私なのではないだろうか。

 信じ切れていなかったから、なのではないか。と自らを責めた。

 裏を返せば、それほど夫を愛していたという事だ。


 ずっと悲しくて暗闇のどん底にいた自分に、

 太陽となって日差しを降り注いでくれたのはブウ輔だ。

 その夫が自ら死を選んだ。

 本当は自分も後を追って死にたいくらいだった。

 でも!

 そんなことは出来ない。出来るはずがない。

 何故なら、子供が二人いるからです。


 ブウ太とブウカです。


(大久保は、テーブルの上にあるブタの貯金箱とマグカップを、ガっと握った。)


 何があってもこの子達を守らなければいけない。

 私が死んでしまっては、村のみんなはこの子達を責める。

 この子達に、罵詈雑言をあびせかけ、物を投げる。


(いつしか、大久保の頭の中では、チャイコフスキーの『白鳥の湖』が流れ始めた。)

 ターン タンタンタンタンターン タンターン


 私はその盾にならなければならない。その為に私は死ねない。

 だから、生きる。それを選んだ。

 が!


(大久保は、ぬいぐるみのブウ子を手にとった。)


 夫に対する罪悪感が止めどもなく襲ってくる。

 心が折れそうになる。

 虚勢が砕け散っていく。


(ブウ子が舞う。)


 いつしか、夫の無実を信じようとしているからこそ苦しんでいる不様な自分に気付く。

 だからと言って、有罪とは思いたくない。

 せめてとばかりに、夫の訴えていた声を、

「俺は無実だ」という言葉を頭から消していた。


 と同時にそれらを連想させるようなものを自然と避ける様になった。

 そうしないと自分が持たないから。

 いつ、夫の後を追って自分も命を投げ捨てるかわからない。

 自己防衛本能みたいな、訳の分からないスイッチが勝手に入って自分を操り出した。


(ブウ子が舞い続ける。)


 だからブウ子は、息子のブウ太の言葉からも避けるようになった。

 逃げるようになった。

 ブウ太の事を信じなくなった。


 正確に言うと、ブウ太の言葉を部分的に受け付けない様にした。

 ブウ太の行動にも一部制限を掛ける様にした。

 ブウ太の行為の正当性は充分に理解できるが、それを認めると自分が壊れそうになる。

 いつ自ら命を絶ってしまうか分からない。

 そうすると子供達を守れなくなってしまう。


 そこでブウ子は、力技でブウ太の言葉と行動を間違ったものと思い込むようにした。

 その方が自分には都合がよかったからだ。

 うちの子が間違っているんだからと、口から出る言葉は、

「いつもご迷惑をお掛けしてすいません」

 がやたらと多くなった。


 そこで他人から「そんなことはありません」と言われた時、

 それを自ら、自己否定に結びつけてしまい、自分の立つ場所を見失った。

 そして、つい逃げる様に帰ってしまうこともあった。


 先程の自己防衛本能みたいなスイッチが勝手に作動して動き出した。

 人はそんなブウ子の行動に異様な感触をおぼえてしまう。


 だが間違えてはいけない。それは全部、無意識なのです。


 これは、子供達を愛して、愛して、愛するがゆえに、

 母性という、見えない魔物に取り憑かれ、気付かぬままに、

 今にもその身を引き裂かれようとしている、

 母親ブウ子の壮絶なる悲劇である。

 ああ、ジークフリートよ。


 ぬいぐるみブウ子が、白鳥の湖ならぬ『白豚の湖』を華麗に舞い終わった。


「おかあちゃん!」

 と言って、結花が涼子に抱き着いた。


 大久保のおとぎ話は、高木家の境遇と重なり、その場にいる者すべての胸に落ちた。


 誰も、すぐには言葉を発せなかった。


 子供達は、知ってしまった。

 ブウ子が、ブウ輔の後を追おうとしていたことを。

 そして――

 ブウ太とブウカの存在そのものが、母親を苦しめていたということを。


 自分達は、どうなのか。

 自分達もまた、母親を苦しめる存在になってはいないか。

 守られているはずの自分達が、その身を引き裂く刃になってはいないか。


 その思いに耐えきれず、結花は、母にしがみついた。


 涼子は、結花を抱きしめながら、自分自身の中へと引きずり込まれていった。


 ブウ子の気持ちは、わかる。痛いほど、わかる。

 夫を愛する気持ちも。

 子供を愛する気持ちも。

 どちらも、間違いではない。

 どちらも、かけがえのないものだ。


 だが――


 その二つが、互いを引き裂くものであったとしたら。

 愛は、支えではなく、人を縛るものにもなる。

 守るための想いが、守るべきものを傷つける。


 二つの愛が相克して自分を翻弄していたとは気付かなかった。

 倒錯した母性に抗うことが出来ずにいるとは思いもしなかったのである。


「大久保さん。私、どうすれば・・・」

 涼子は自身の事として素直に受け止めた。


 どうすればいい? その答えはまだ見つかって無かった。

 大久保は自分が感じたことを、噛み砕いて伝えるのが先決だと思っていた。

 見えない魔物に気付かず、唯々苦しんでいる涼子を、解きほぐすことに終始していた。


 大久保が絞り出すように言った。

「申し訳ない。即答出来ない。ちくしょう・・・でも、涼子さんが今、自分の事として受け止めてくれたことは一歩前進です」


 房江が言った。

「涼子ちゃん、あなた、子供を守ろうとしているからじゃないかな」

「どういうことですか?」

 大久保が聞いた。


「子供と一緒に戦うべきなんじゃない」


 これは房江ならではの発想だ。

 子供や孫に恵まれなかった事が幸いしたのか、

『子供は守るものである』

 という固定概念に固執しない。対等なる人格として扱え。との指摘である。

 それに、常日頃から攻めの姿勢で生きている房江だからこそ出てくる言葉だった。


「そうか。そういう事か」


 大久保も賛同した。

「そうです、涼子さん。戦うべきです。翔太君は無実を訴えています。先日も僕に訴えてきました。この子は戦う姿勢を失っていません。我が息子と同じ声を張り上げて、一緒に戦うべきなんです」


「そんな事言われても」

 涼子は固まって動かなくなってしまった。

 今、突きつけられた自分のこともまだ整理がつかない。

 ましてや、戦えと言われても、更なる混乱が押し寄せるだけだった。


「つらいでしょうけど、振り絞って下さい。勇気を!」

 大久保の声は虚しく響いた。


 涼子が混乱していることは手にとるようにわかった。

 これ以上たきつける事が果たして得策なのかは疑問に思えた。

 今日のところはここまでも充分意味があったと割り切った。


 房江もそう思ったのだろう。大久保と目を合わせた。


 ひと息つこう。と言うことだ。


 房江が、急須に手を伸ばしお茶を入れ始めた。

「しかし、戦えって言ったってどうやって戦えばいいんだい。私らは証拠が捏造だと思っているけど、弁護士のその訴えを、裁判所は却下したんだろ。もう一度言って相手にしてくれるのかしら・・・」


 確かに、新証拠でもなければ行き詰まった状況を打破出来るとは思えない。

 涼子に戦えと言っておきながら武器も与えないのでは酷な話だ。

 無責任に煽るだけの存在にはなりたくない。

 なにより自分自身の志気も上がらない。と大久保は思った。


「翔太君。あの時トラックは止まっていたのかい?」

「止まっていたよ」


 そう言えば、この子の話をちゃんと聞いた事がなかった。

 この子があれほど訴えてきていたのに、自分は受け止める事が出来ていなかった。

 もしかしたら、なにか引き出せるかもしれない。

 と思い、あえて挑発してみることにした。

 翔太君すまん。と思いながら、問いかけた。


「本当か?何故そんなことが言える」

「止まっていたからだよ」

「なんか怪しいぞ。君は平気で嘘をつくからな」

「本当だよ。何回も言っただろ」

「いや、動いていたかも知れんぞ」

「なんだよそれ」

「君はお父さんをかばいたくて、言っているのかもしれない」

「とうちゃんが嘘をつくはずがないんだ」

「君はどうなんだ? 俺は、君の嘘にまんまと騙されたことあるからな」

「あれは・・・」

 翔太が、いきなりトーンダウンした。

「おい。そこは頑張れよ。どうした?」

「実は、はっきり覚えてない」

「なにが?」

「トラックが止まっていたかどうか・・・」

「はあ?」

 大久保は面食らった。思いもよらないことを、翔太が言い出した。

「だから、止まっている。とか、動いている。とか、厳密にどうだったか。なんて、よくわからない。だって、あっという間の出来事だったし・・・」


 おいおいおい。ちょっと待ってくれ。


 大久保は根拠を失いそうになった。

 今まで築き上げてきたものは、すべて、翔太の証言があってのことだ。

 それを今更ひっくり返されても困る。

 が、それならそれで仕方がない。仕切り直しも考えないといかんか。


「じゃあ、トラックは動いていた可能性もアリなんだな」

「でも、動いていた気はしない・・・」

「どっちなんだ。はっきりしろよ」

「うん。なんでそう思うんだろうな・・・」

 翔太は首をひねった。

「なんだそれ。君らしくないぞ!」

 大久保は声を荒げた。

 その時、

 翔太は、手に持っていた目薬にふと気付いた。

「あ、そうだ。止まってないと目薬させないだろ」


 ――なに?


 大久保は固まった。

「目薬さしていたのか。目薬さしていたのか。・・・なぜ今まで黙っていた」

「忘れてた。今、思い出した」


 大久保は用心深く聞いた。

「そんな大事な事、忘れるか?」

「事故の時は口の中を切って痛かったから・・・忘れてた」


 大久保、はっとして、

「ちょっと、目薬さす真似してみろ」

 翔太は上を向いてさす真似をした。

 口が大きく開いた。


「あっ!」


 この瞬間、白バイが突っ込んだ。と思った。


 翔太が目薬をさそうとしたのはトラックが止まったからだ。

 動いて揺れている時に目薬はさせない。止まったから目薬をさした。

 その時、翔太の口は大きく開いた。それがこの子の癖だ。

 その瞬間に白バイが突っ込んで来たから口の中を切った。

 猛スピードで突っ込んできたなら、その衝撃はかなりのモノだった筈だ。


 事故後、翔太が病院からもらった診断書には『口腔内擦過傷』と記されていた。


 とは言え、証拠としては不十分だ。

 目薬なんか差していなくても、口の中を切ることは考えられる。

 そもそも翔太の証人申請は却下されているから証言として扱ってもらえない。

 大久保もそんなことはわかっているが、志気を上げるには充分だった。

 むやみに嬉しくなった。


 大久保は、突然笑い出した。

「あははははは・・・どうせ裁判所は信じないけどな。いくらでも難癖つけるだろうよ。このぐらいの事は。大体、証人申請却下だからな。あいつら・・・でも、関係ねえ。そんなの!俺は信じられるわ。翔太。お前のこと信じられるわ俺。翔太よ!」

「なんで呼び捨てなんだよ」

「うるせえ。呼び捨てで悪いか」

「悪いに決まってるだろ。この浮気者。調子にのんなよ」

「お前な、生意気にも程があるぞ。どの口で言ってんだ。この口か!」

 大久保は嬉しそうに翔太を抱き寄せ、ほっぺたをつねった。

「やめろよ。いってえな」

 翔太も抵抗してバタバタ暴れ出した。


「ねえ、おかあちゃん。おとうちゃんがいるみたい」

「うん、そうだね」

 涼子と結花が見た光景は懐かしいものだった。

 風輔が生きている頃は翔太と部屋の中でよくじゃれ合っていたものだ。

 風輔がいなくなってからは翔太のこんな姿を目にすることはなかった。


 大久保と翔太のじゃれ合いはぶつかり稽古の様相と化していた。

 何故か子供というのは、でっかい大人にヤーとぶつかっていくのが好きな動物である。


 翔太も所詮小学生の男の子である。

 こういうことは一度火が付くと止まらない。

 大久保は何度も体当たりしてくる翔太を受け止めてはくすぐっている。

 その度に翔太はゲラゲラ笑って喜んだ。


 *   *   *


 二人の様子を見ていた涼子。

 突然、すくっと立ち上がりタンスの奥から封書を一通取り出した。

 そして皆に見せた。


 ――風輔の遺書だった。


 大久保、房江はもちろん。翔太と結花も見るのは初めてだった。

 涼子が封印していたからだ。

 それを皆に見せる事が今、涼子に出来る精一杯の勇気の証だった。

 涼子も一度しか読んでいないその内容は、

 風輔の無念と家族への愛がいっぱい詰まっていた。


 内容を抜粋する。


涼子へ

すまない。何も相談せずにこのような行動を取った。相談すれば必ず止められるからな。俺はどうしても許せない。この世界が。こんな世の中に価値はない。子供達に説明が出来ない。現に翔太がどれだけ苦しんでいるか。俺はこの不条理が説明出来ない。元々説明できる頭はないが、体がある。体を張る事にした。

頼みがある。マスコミへ事件の抗議文を書いた。警察や裁判の不正。俺の思っていることを全部書いてある。体を張って書いた抗議文だと言って持って行ってくれ。

涼子に手をあげてしまったことを後悔しています。俺の人生最大の汚点だ。俺はお前のヒーローだった筈だ。正義の味方だ。それが俺の一番の誇りだった。一生それで行きたかったんだが、ダメだな俺。ヒーローどころか犯罪者だ。ありえないよ。家族に迷惑掛けるだけだ。

後半はぐずぐずだったけど、涼子に会えて幸せでした。ありがとう。ごめんな。


翔太へ

風の又三郎。覚えているか。とうちゃんとお前だけのヒーローだ。今度はとうちゃんがお前だけの風の又三郎になります。困ったときは呼んでくれ。風が吹いたらそれが俺だ。ガラスのマントで飛んできて翔太の後に立ってるからな。負けるなよ。翔太。


結花へ

おとうちゃんの事、太陽みたいだっておかあちゃんが言っていたな。太陽は沈む時があります。でも、また昇るから心配するな。沈んでもお月様が光っているだろ、おかあちゃんだぞ。おとうちゃんの光をいっぱい浴びておかあちゃんが結花を照らしてくれるからな。



 風輔の遺書を読んで、涼子、翔太、結花は泣きじゃくった。

 房江も大久保も泣くしかなかった。

 みんなで散々泣いた。

 暫く泣いた。


 泣きながら涼子が、

「・・・元々、前の彼から暴力を振るわれていた私を救い出してくれたのが、風輔さんでした。その人と風輔さんは親友だったのですが、見かねて私を救い出してくれました。風ちゃんは本当にいい旦那さんでした。明るくって、真面目で、優しくて・・・それがたった一度私に手をあげたばっかりに、自分を責めて苦しんで、家庭をダメにしたって悩んでいました。唯でさえ裁判が悪い方向に進んでいるのに、家族を守り切れないって悩んでいました。・・・私こそ支える事が出来なかったのに・・・」


 数枚の便箋があり、

 自殺でも生命保険が支払われる場合の話など、風輔が集めた生々しい情報が羅列してあった。(結局は保険会社が認めず、支払いを拒否したが)

 さすがに、そのあたりは子供達には伏せた。


 そして最後の一枚。風輔の魂の叫び。マスコミへ事件の抗議文。


 その紙を房江が取り上げ叫んだ。

「さあ、泣くだけ泣いたよ。いつまでもメソメソしてるんじゃないよ!」


 このおばちゃんの凄いところはこういうところだ。すぐ立ち上がる。


 正直みんな、

(・・・え、もう?・・・もう少し泣きたいなあ・・・)

 と、思ったが、房江に言われると自然と涙が引いて来た。なんだか不思議だ。


 さらに、房江が風輔の抗議文をかざして、

「で、涼子ちゃん。どうする、これ?・・・唯の紙っぺらにして飾っておくのかい」


 涼子は戦う事に決めた。

 マスコミに持って行き、白日の下に晒し、風輔の無念を晴らす。

 それも、翔太と共に。

 翔太には風の又三郎もついている。これほど強い味方はいない。


 そう盛り上がっていると、大久保が自分を指し、

「坂本竜馬もいるぜよ」

 と言った。


 大久保のちょっとした知り合いに、テレビ局で働いている人がいるとのことで、ダメ元かもしれないが、後日相談してみよう。ということになった。


 もう一つ、戦う方向として再審請求(裁判のやり直し)や国賠訴訟がある。

 この場合の国賠訴訟とは、

 捏造した証拠により風輔が無実の罪を科せられ損害を被った。という訴えだ。

 本人が亡くなっていても家族が代わりに訴えを起こす事が出来る。


 再審請求も国賠訴訟も成功する見込みは低いらしいが、弁護士は涼子にそれらを勧めてはいた。が、涼子は自己防衛本能が働いたのか、その話から逃げていたのが現状だった。それらも改めて弁護士に相談することになった。

 まずは、事に向き合う姿勢からやり直していこう。と結束した。


 *   *   *


 よく晴れた日だった。風も気持ちよく吹いている。

 涼子と翔太と大久保の三人でテレビ局へ向かう通りを歩いている。

 例の抗議文を持参して風輔の無念を晴らす戦いの第一歩だ。

 翔太は張り切っていた。


「トラックは止まっていたんだぜ。だって俺は目薬をさそうとしていたんだから」


 と、新たな証言を引っ提げて威風堂々と二人を引き連れ先頭を闊歩していた。

 その勇ましい翔太の姿を見て、大久保が呼び止めた。


「翔太」

「なに?」


 翔太の前でしゃがみ込んだ。


「おれは、お前のお母さんを好きらしい。きっと、嫁にするつもりじゃ。先方はどうかわからんが、お前からもよく頼んでおいてくれ」


 と『竜馬がゆく』の一節をまるパクリした。


 すると、翔太が

「うちのかあちゃん泣かしたら、しょうちしねえからな」

 と言った。


 ――涼子が笑った。



 三人が歩き出す。

 どこからか大久保に声が聞こえた。

 振り返って見た。

 青い空が広がっている。

 どうしたの? と問われた。

 今、竜馬の声が聞こえた。

 なんて言っていたの?


 日本を今一度せんたくいたし申候 と


 どこから聞こえたのかしら。


 あれは、遠く、高知の空から。だ。



 第20話 終


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