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となりのとなりの物語  作者: 福本銀太郎


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18/24

第18話 事件です。第2節

「それにしても、末恐ろしいガキだね。あの子は・・・」

 房江が嘆いた。


 その夜、井上夫婦の自宅に大久保と久兵衛は立寄った。

 四人で昼間の花見の飲み直しとばかりに、お重の残り物をテーブルにひろげ、ビールの栓を抜いていた。


 大久保と吉田の大乱闘だが、誰かが警察に通報したのだろう。あの後、パトカーが何台か出動して来て騒ぎは大きくなった。でもそこは、超ベテランの井上が「勘違いが原因で小競り合いになってな」と有耶無耶にしておさめた。


 大乱闘で破壊された屋台。

 これは久兵衛が裏社会ネットワークを通じて怒りをしずめた。

 後日、大久保と吉田の二人で必ず弁償はします。と約束の上でだ。痛い出費になった。


 涼子は方々に頭を下げた。

 ――ご迷惑をお掛けして大変申し訳ありません。

 と、何度も何度も謝りに謝って、子供達を連れて帰った。


 吉田は担任という立場から責任を感じ、涼子に付き添って翔太を家に送り届けることにした。「お母さんと翔太君と僕と、三人でおうちでお話しましょう」と言っていた。


 翔太のしでかした事は、一応、子供の悪戯という体でその場はおさめた。が、大久保を変質者に見立てて、吉田先生をけしかける。という手口は、悪戯にしても度が過ぎていた。


「単なる悪戯ではないでしょうなあ」

 久兵衛が大久保を見る。

 同時に房江と井上も大久保を見た。


「やっぱりそうなんですかね」

 大久保は、肩を落としてうなだれた。


 涼子の愛する息子が、大久保の強力なライバルとして立ちはだかったのだ。そういう予見はしていたが、想像をはるかに超えていた。やつの手の込んだ策略には、ここにいる大人、全員が舌を巻いた。大久保にとっては手強過ぎる相手が出現したのだった。


「あんた、あの子の父親になるつもりある?」

 房江が大久保に聞いた。

「今の僕にそんな事聞かれても」

「じゃあ涼子ちゃんの事諦めるの?」

「・・・」

 大久保は返事に困った。


 井上は昼間のことを思い出していた。涼子の旦那の自殺の件である。

 話題を変えた。

「トラック運転手の自殺。アレ、気にならんか?」

「旦那それですよ。気になんなきゃおかしい」

 久兵衛が賛同した。


「なにが?」と、房江。

 今さら気にしてもしょうがないじゃない。涼子ちゃんには気の毒だけど、現に悲観して自殺しちゃったわけなんだから、それを受け止めて乗り越えていくしかないじゃない。なにが気になるの? と言う。


 大久保が答える。

 あの時、僕は井上さんに聞かれました。君ならどうする? 自殺するか? と。

 僕は涼子さんの旦那さんに成り代わって考えました。で、自分なら自殺しません。と答えましたよね。涼子さんと翔太君と結花ちゃんがいるから、しません。と言い切りました。


「あんたは自殺するタマじゃないからよ」


 そう言うことではなく。僕は旦那さんに成り代わって答えているんです。

 もっと言うと一般論ですね。そこはお間違いなく。


「わかったわよ。続けて」


 で、まず、

 事故は、百パーセント旦那さんの責任だった――そう仮定します。

 責任が自分にあるなら、普通人間は自責の念に駆られます。

 自分が悪かった。と思っていれば判決が受け入れられるでしょ。たかが一年四カ月だ。


 一応、無実を訴えてはいたが、それは旦那さんの本心ではなく、ここでは弁護士がそういう戦略を立てて裁判を戦った。として考えておきましょう。無視します。


 涼子さんと翔太君と結花ちゃんがいて、

「自分が悪かった。」

 と思っていたのならば、一年四カ月、服役して戻ってくればいいだけなんですよ。

 でも、死んだ。


 ――どう思います?


「べつに・・・可哀そうとは思うけど」


 逆ですよ。

 自殺したという事は、

「自分は悪くない」

 と思っていたのではないか・・・。


「悪くない。と思っていたって事は・・・自分に責任はないと思っていたの?」


 そうです。事故は旦那さんの責任ではなかった。

 詳しいことはわかりませんよ、

 何らかの事情で裁判には負けてしまったが、涼子さんの旦那さんは、無実だった。


「あら、ひっくり返った」


 ――気になりませんか?


「うん、気になる。気になる。自分は悪くない。無実だ。と本当に思っていたなら、裁判で無実を訴えていたのも、弁護士の戦略ではなく、自分が本心から訴えていたって事よね?」


 そうです。あくまでも仮説ですけどね。

 ただ、有罪は有罪ですよ。


 問題は・・・旦那さんが、

「悪かった。」と思っていたのか、それとも、「悪くない。」と思っていたのか。

 の、どちらかです。


 房江は首をひねった。今度は井上に聞いた。

「どっちなのよ?」

 井上は、わからん。わからん。と首を振り、何にしても情報が足らんな。と言った。


「旦那、どうしやす。この先クビ突っ込んでいいヤマですかね」

「難しいね。よその所轄の話だしな・・・ふぁ~あ」

 井上はアクビをした。そして、チラっと大久保を見た。

 ――案の定だった。


「僕はやりますよ。こんなきな臭い事件の陰で涼子さんが泣いているんですよ。冗談じゃない。私情バリバリでクビ突っ込んでやる」

 大久保はビールを一気飲みした。

 ちくしょう。っと、コップをテーブルに叩きつけた。酔いが回ってきたみたいだ。


「しょうがない。久兵衛、ちょこっとだけ探ってみてくれ。ちょこっとだけな」と井上。

「結局こうなるか・・・」

 久兵衛もビールを飲みほした。


「いいじゃない。やろう。やろう。こういうの大好き!」

 と、房江がビールを持ち上げて、みんなに注いだ。


 *   *   *


 新学期が始まり翔太は六年生になった。

 翔太の小学校は、担任が持ち上がりで、クラス替えもない。なので今年も吉田だ。

 花見の時の一件は、春休みの最中だったので幸い学校にはバレていない。

 吉田も学校には報告していなかった。


 が、吉田はこの度の翔太の行為をどう捉えていいのか分からず苦慮していた。

 やり過ぎだったからだ。

『下半身を触られた』と噓をつき先生をけしかけるなんて、翔太らしくなかったからだ。

 翔太らしくないとはどういう事か。


 吉田は翔太がたまに挑んでくる『勝負』が気に入っていた。


 勝負と言ってもジャンケンとか、吉田の得意なプロレスとかではない。

 言葉の掛け合いだったり、精神的な押し引きだったりと、子供相手とは思えないやり取りだった。

 そして、その勝負にはいつもどこか洒落やユーモアが含まれていた。今回は一本取られたなって時でも、笑えたし、許せた。


 だけど、花見事件はそうではなかった。

 吉田は、大久保と涼子のこみいった事情など知らない。

 もちろん、翔太が大久保に抱いている悪意にも想像は届かない。

 あくまで、翔太が先生に挑んできた勝負だと思っている。


「やり過ぎだぞ。今回のは・・・」

 昼休みに翔太を屋上に呼び出して聞いてみた。花見事件の真相が知りたかった。

 花見のあとにお母さんと三人で話したが、翔太は黙して語らず。お母さんが謝るばかりで終わった。


「風の又三郎がやって来たんだ」

 花見事件以来、翔太が初めて口を開いた。

「それだよ、それ。そうこなくっちゃ・・・黙っていたらお前らしくないぞ」

 久々に翔太が話をしてくれたことが嬉しかった。

 ――しかも、始まった。とも思った。


「そうか、風の又三郎だったのか。なるほどな」

 と言いつつ、吉田は戸惑った。

 風の又三郎とはどういうことだ?

 宮沢賢治の有名な童話で、授業でも取り上げる題材だ。

 ――だが、分からん。


 風の又三郎は少年達に危険をもたらす存在だ。ぐらいなことは吉田も知っている。

 この場合、誰が又三郎で誰が少年なのか、理解に苦しんだ。

(くそ・・・読めない)と思っていると、


「先生、学校に報告しなくていいの?」

 と、翔太が、ふいに聞いてきた。


「花見の件か?」

「うん、悪かったなあ。とは思っているよ」

「そうか・・・じゃあ・・・貸しかしいちな」


 あっ。お返しされた。という顔を翔太はした。

 ふふ~ん。と吉田はしてやったりの、ドヤ顔で返した。

「先生。一本とられたよ」


 よし。っと吉田は思ったが、結局、翔太の狙いを知ることは出来なかったのであった。


 *   *   *


 涼子が夜勤めている店は車塚にある『スナック流れ星』である。

 車塚とは、この町の繁華街だ。

 居酒屋、焼鳥屋、キャバクラ、スナック――ネオンが密集する夜の街だ。

 さほど広くない街並みは、東京・中野駅前の飲み屋街と似ている。


 スナック流れ星は小さいが、品のある店である。場末のソレとは違う。40歳になる久美子ママの装いはいつも着物だ。それにはある種のプライドを感じた。

 涼子は源氏名を『みなみ』とし、店に出ている。カウンターで水割りを作ったり、カラオケでデュエットの相手をしたりするのが主な仕事だ。のど自慢以来、キャンディーズをリクエストされることが増えた。


 ただ、みなみちゃんの好きな曲を。

 とリクエストされると、伊東咲子の『ひまわり娘』を歌った。

 こちらも、かなり昔のヒット曲だが、大好きな歌詞だった。


 誰のために咲いたの。それはあなたのためよ。


 そう歌う彼女の姿に客は見惚れた。

 時には手を握られる。肩を組まれることもある。酔った勢いでチューしてくるハゲ親父も中にはいる。もう、やだー、と笑いながらあしらう。しょうがない、それが仕事である。


 客に誘われても、簡単にはなびかない。いや、なびいたことはない。

 それでも美人で気立てのいい涼子はモテる。店のナンバー1だ。涼子、いや、みなみちゃんが働きだしてから店の売上は伸びている。今や、久美子ママの秘蔵っ子である。


 車塚から家まで普段はタクシーで帰る。

 が、節約するため歩いて帰る場合がある。徒歩三十分ほどの道のりだ。

 この日もそうしてしまった。


 街灯の明かりは薄暗く人影は全くない。

 バックを肩にかけ帰宅していた。

 ふと、涼子は誰かにつけられている気配を感じた。

 後ろから、コツ、コツ、と足音がする――重い。

 ぶるっと身震いし、急ぎ足になった。

 すると、その足音も速くなり追いかけて来た。

 間違いない、私を狙っている。

 バックのひもを握る手にギュッと力が入り、走って逃げた。

 ヒールの音が高く細かく響く。時々後ろを振り返る。

 黒い影が、離れない。

 自宅を知られたくないので道を変えた。近くの交番に駆け込んだ。


 ――お巡りさん。と叫ぶと、大久保がいた。夜勤の最中だった。


「どうしました、涼子さん」

 大久保は、涼子の額の汗と強張った表情から察して、交番の外に飛び出した。

 が、もう人影はなかった。――さっきまで、誰かいた。

 すぐさま交番に戻り、

「何かされましたか?」


「い、いえ、追いかけられただけで・・・」と、ガタガタ震えている涼子。


「どんな男でした?」

「分かりません、すいません」

「そんな事ありません。それより被害はなかったんですね」

「は、はい大丈夫です。私の勘違いかも。すいません。またご迷惑をお掛けして・・・」


 最近、涼子の口からこの言葉をよく聞く。

「迷惑だなんて、涼子さん、正解だったんですよ。ここに来て。良かった無事で良かった」


「大久保さ~ん」と、泣きながら胸に飛び込んできた。


 涼子を受け止めた。この頃、泣いてばっかりだ。と大久保は思った。


 弁当屋で見せる明るい笑顔とは裏腹に、涼子の日常は悲しい出来事に覆われている。

 自分に何かできる事はないのか?

 犯人でも近くにいればとっ捕まえるのだが、そんなはっきりした状況でもない。

 大久保は、何も出来ない自分に、歯がゆさだけが残った。


 *   *   *


 さて、例の白バイ事件の概要が判明してきた。

 井上夫婦のもとに久兵衛と大久保が集結し、四人がテーブルに座った。

 井上家のダイニングキッチンは、即席の『白バイ事件特別捜査本部』と化した。


 久兵衛の調べによるとこうだ。


 トラックと白バイの衝突事故は、片側二車線で中央分離帯もある大きな国道で起きた。

 涼子の夫・高木風輔、当時32歳は、4tトラックの運転手だった。

 その日は会社のトラックで、

 国道沿いの寿司店『スシボー』にて、

 テイクアウトのファミリーセットを購入し、

 駐車場から国道に出た。


「その時に、白バイと事故を起こしたってわけで・・・」

「なぜ、事故が起きた?」

「警察の見立てはシンプルです」

 久兵衛は、ふうっと、嘆息した。

「安全確認不足――それで片付けられていやす」


 高木風輔は駐車場から出る際に、右から白バイが来ているのにも関わらず、それに気付かず車道に飛び出てしまった。急ブレーキを掛けたが間に合わず、白バイはトラックの右前輪部分に激突。巻き込むように数メートル引きずった。

 白バイ隊員は胸部大動脈破裂で死亡。

 高木風輔は業務上過失致死罪で逮捕・起訴され禁固一年四カ月の実刑判決が下される。


「安全確認不足じゃ、しょうがないんじゃない?」

 房江が聞いた。

「本人は否定しています。安全確認はしたと」

「じゃあ、なぜ?」

「トラックは駐車場から、右折で国道に出ようとしていました」

 久兵衛は、テーブルの上を指でなぞった。

「その際、右からは来ていなかった――と」


「中央分離帯は?」

「あそこは中央分離帯が途切れているんです」

「・・・じゃあ、センターラインのところで止まってたってこと?」

「ええ。そこまで車を出し、左から来る車をやり過ごすために止まっていた。その状態で、白バイが右から衝突してきた、と」

「それって危なくない? 道路の上に出て止まるってことでしょ?」


 大久保も頷いた。

「あそこは、右折で出るなら、一度センターライン付近まで車体が出る。そこで止まって、左から来る車をやり過ごす形になりますね」

 久兵衛が引き取る。

「ええ。その状態で、白バイが右から衝突してきた――との主張です」

「要するに――道路上で止まっているトラックに突っ込んできた、って話ですね。それが本当ならですが」

 大久保がまとめた。


「裁判の争点は?」

 井上が聞いた。


「トラックが動いていたのか。止まっていたのか。に絞られました」

 久兵衛が言うには、

「目撃者は一名――死亡した白バイ隊員の後ろを追走していた、

 もう一人の白バイ隊員のみ。

 こいつが、トラックは動いていた。と証言しておりやす。

 で、証拠が実況見分調書のブレーキ痕の写真。

 急ブレーキを掛けてついたモンだ、と認定されていやす」


 それで――トラックは動いていた。と結論づけられた。


 *   *   *


「ブレーキ痕という証拠があるんじゃしょうがないわよね。素人目に見ても、黒ね」

 房江が言った。


「久兵衛どうだ? 実感として、お前はどう思った」

 と井上が聞いた。

「実感ですかい。ずばり白ですね」


 久兵衛はすんなり情報が集まると思っていた。

 この事故の所轄・○○警察署に出向き、事故の内情を聞けば済むことだろうと、高を括っていた。久兵衛の顔ならたやすいだろうと。

 ところが馴染みの警察官は皆、口が堅い。この話題をあからさまに避ける。事実認定された情報を集めるのがやっとだった。裏話は何一つ入って来ない。


「それって勘ってこと?」

 と、房江が聞いた。


「勘? 実勘とでも言いましょうかね。私に対して何も喋らねえんですから、そこが一番キナ臭い。夫の無実の証拠はありませんよ。むしろ有罪の証拠があり証言もある。一見黒に見える事件ですがね、私の眼は誤魔化せません。白ですよ」


 やったかあ~。と、大久保が額に手を当てのけぞった。

 誰だ。黒幕は・・・と、井上も頭を掻きながら呟いた。


 井上も大久保も想った以上に驚かない。

 警察の内部事情に最も詳しい二人には、さして珍しい話ではないのだろう。事件を揉み消す、でっち上げる。今まで何回も目の当たりにして来た。自分も当事者としてそういった場面に出くわし、どれ程葛藤してきたか分からない。


「ちょっと待って! 冤罪ってこと! 冤罪で涼子ちゃんがあんなに苦しんでいるわけ?」

「ちょとあんた、なんでそんなに落ち着いていられるのよ!」

 大久保に向かって房江が吠えた。


「分かってます。分かってます・・・でも、冤罪とは言い切れないんですよ。だってほら、有罪の証拠があるんですから・・・」

 大久保が淡々と答えた。随分あっさりしている。


 房江は立ち上がって大久保の頭を引っ叩きだした。

「この薄情者!あんたのその態度が気に入らないよ、私は。そんな子に育てた覚えはないよ。この唐変木! こん畜生、こん畜生」

 パシン、パシン、と泣きべそをかきながら叩き続ける。


 大久保は気にせず、「目撃者が少ないですね」と、久兵衛を見た。

「目撃者ではないんですがね。トラックに同乗者が一人。あのガキです。」


 翔太君?・・・房江の手が止まった。

「じゃあ、翔太君が証人じゃない。乗っていたのなら、動いていたか、止まっていたか、一番よく分かっているはずよ。トラックは止まっていたのよ。証人がいるじゃないの」


「何故あの子が乗っていた?」

 井上が聞いた。


 そもそも、会社の4tトラックでお寿司を買いに行っていること自体が不自然だと思っていた。どうやら仕事中に食事をするために立ち寄ったのでもなさそうだ。

 何故ならファミリーセットをテイクアウトしている。


 井上は何かあると思っていた。


 案の定だ。その日は父・風輔の誕生日。みんなの大好きなお寿司で祝おう。となり、風輔が仕事帰りに買って帰るつもりだった。通常なら仕事を終え、会社にトラックを返し、自分の軽自動車に乗り変えて帰る途中で、すし屋に寄るのだが、この日は翔太が我儘を言い出した。


 翔太はとうちゃんのトラックに乗るのが大好きだった。

 あの見下ろしのいい、高くて広い運転席。

 そして、その大きいトラックを自由自在に扱う、とうちゃんが大好きだった。


 じゃあ、仕事終わりで翔太を自宅近くで拾ってトラックに乗せる。その足でお寿司を買いに行き、会社にトラックを返してうちの軽自動車で帰ってくる。ほんの束の間だが翔太にはそれで充分であった。当時小学二年生だ。


 翔太の我儘がなければトラックですし屋には行ってない。事故も起こってないかも知れない。翔太は責任を感じたであろう。周りの大人に一生懸命訴えたらしい。

「トラックは止まっていた」と。

 裁判では傍聴席で声を荒げ、退廷を命じられて法廷警備員に連れ出される始末だった。


「傍聴席?・・・証人として出廷しないのか?」

 井上が疑問を呈した。


「証人申請は却下されたらしいです。自分の責任で事故は起きたと思っている子供が、父親をかばって噓をつく。そう思われたのか、相手にはされなかったみたいですね」

 久兵衛が答えた。


「僕だったら見事に引っ掛かったでしょうね~」

 大久保は洒落のつもりで言った。

「何言ってんのよ。翔太君が噓をつくって言うの?」

「ええ、この間やられたばっかりですから」

 大久保はバツが悪そうに苦笑いした。

 あっ――花見事件だ。房江の口は止まった。


 翔太がウソをついて大人を翻弄するのはお手の物だ。

 自分達はつい先日、嫌というほどそれを味わったばかりだった。

 皆、それを思いだした。

 あの子だったらやりかねない。と頭をよぎって言葉を失くした。


 暫しの沈黙。


 房江が立ち上がって声を荒げた。

「ちょっとあんた達! さっきからなによ。しみったれちゃって。諦めるっていうの、この事件」

「何言ってんすか。さっきキュウさんが白だって言ったじゃないですか。これからなんですよ。始まったばっかりなんですから・・・」

 大久保が制した。


「あ、そう・・・」

 何やら不満げな表情で房江は座り直した。


 どっから行きましょうか? 大久保が井上に問い掛ける。

「あの国道、制限速度は?」

「六十キロです」

「じゃあ普通、止まっている車にぶつかっても――簡単には死なねえよなあ・・・」

 井上は何やら考え深げに言った。


 まず、トラックが止まっていたと仮定して考える。

 そこは制限速度六十キロの国道だ。事故現場は緩いカーブだが見通しのいい道路だ。地元の道路のことだ。よくわかっている。仮に制限速度いっぱいで走っていても、事故の瞬間は急ブレーキをかけるので、そのままの速度でぶつかることはまずない。


 ましてや白バイ隊員は相当熟練されている。事故を回避するドライブテクニックにも長けている筈だ。あの現場で六十キロで走ってきた白バイが、まかり間違って止まっているトラックに衝突したとしても、死亡事故につながることは考えにくい。


 大久保もピンと来た。

「なるほど・・・被告は裁判で、白バイが猛スピードで突っ込んできた。と証言しています」

「いい迷惑よ。猛スピードを出していたから死んじゃったんでしょ。まったくもう!」

 房江が割って入った。


「ええ、そうだと思うんですけどね。ちょっと変なんですよ。スピード違反を追跡していたわけもないですから。それだったら白バイも、スピードを出さないと捕まえられないじゃないですか。しかし、今回はそんな事実はありません。ほかで言うと、白バイが猛スピードを出すなんて、緊急走行している時ぐらいしか考えられないんですよ。普段は安全運転の模範車両なんですから」


「していたんじゃないの」

 房江は何食わぬ顔で聞いた。


「緊急走行していたらサイレン鳴らしているんです」

「ああ、あのカン高くてうるさいやつ?」


「そうです。あのカン高くてうるさいサイレンです。ウウーと鳴って、耳につきますよね。誰にでも」

 大久保は念を押した。


「もし、白バイがサイレンを鳴らしていたら、涼子さんの旦那さんが気が付かない筈がないんです。例え、前方不注意であっても左右の確認を怠ったとしても、道路に出る前にドキッとして気付くんです。カン高くてうるさいから。で、すぐさまブレーキをかけて車を止める」


「じゃあ、どうして事故は起こったの?」

 房江は首をかしげて聞いた。


「白バイはサイレン無しで、猛スピードで突っ込んできた可能性があります。止まっているトラックに」


 誰も、すぐには口を開かなかった。


 大久保が井上に向き直った。

「こう考えると辻褄が合います。一発で死亡事故になるほどです。百キロ以上、いや百二十キロ以上は出していたかも知れませんね・・・問題は緊急走行でもないのに、一般道で何故そんな高速走行していたのか?」


「(調べるのは)その線からだろうな・・・」

 井上がボソッと答えた。


「――そういうことです」

 久兵衛が房江を見た。


「そうそう、それでいいのよ」

 と、房江がビールを持ち上げて、みんなに注いだ。


 *   *   *


 ある日のこと、

 大久保が交番の机で報告書の作成をしていると、

「落とし物」と言って目の前に手が伸びて来た。


 見ると、翔太だった。


 ランドセルを背負っているから学校帰りだろう。

 落とし物はどこかの家の鍵らしい。すぐ傍の歩道で拾ったと言う。

 言葉少なにそう説明して帰ろうとするところを呼び止めた。


「翔太君」


 大久保は交番を出て、翔太の前にしゃがみ込んで向かい合った。


 この子は事故の責任を感じ、あの時トラックは止まっていた。と、傍聴席で訴えた。

 ただ父親をかばいためについた嘘なのか。

 それとも本当にトラックは止まっていたのか。

 証人申請は却下されたものの、この子は現場にいた当事者だ。それは間違いない。生の声を聴いて損はない。

 事の真相を確かめるため、大久保はどうしても聞きたくなった。


 あの時トラックは止まっていたの?


 と言いかけたとき、

 ――いやいや待て待て。

 そんな辛い事を子供に思い出させる必要がどこにある。と思い直し、

 しゃがんだまま固まってしまった。大久保が言葉につまっていると、


「なんだよ」と、翔太は仏頂面して聞いてきた。


「なんであんなことしたんだよ。花見のとき・・・」

 思わず、そう聞いてしまった。


 別にそれは今更どうでも良かった。どこの馬の骨ともわからない男から、お母さんを守ろうとした息子の行動だ。ただ、この子は普通の子とちょっと違って、頭が切れるために手の込んだ策略を巡らせただけだ。


 すると、

「風の又三郎が来たんだ」

 と言って、翔太が上目遣いでギロっと睨んだ。


 大久保は、訳が分からずキョトンとしてしまった。


「そんな事より、うちのかあちゃんに近づくなよ。僕は認めないからな」

 と言って、翔太は振り返って行ってしまった。


 ――あ、直接引導渡された。


 ちょっとまて。「認めないからな」って、なんだ?

 交際を認めないってことか。それとも結婚を認めないってことか。どっちなんだ。

 大体あの子はどこまで知っているんだ?

 俺が勢い余って涼子さんにプロポーズしたことを、最早わかっているのか。

 だとしたら、どこからバレたんだ。


 ええいくそ。変な勘繰りをするんじゃない。

 涼子さんが言う筈がない。それは絶対あり得ない。

 それに言ってもらっては困る。言うなら自分で言う。

 子供達に対しては男らしく、

「お母さんと結婚してもいいかい?」

 と、自ら切り出すのがけじめってもんだ。それだけは譲れない。

 時機が来ればの話だが。


 時機がくれば。時機がくればね。

 ただ、今はまだその時機じゃないよな。

 たった今引導渡されちゃったばかりだしな。

 は~あ、ストレートに言われると、ショックでかいなあ。


 頭を抱えてうずくまる大久保だった。


 *   *   *


 翔太の言う『風の又三郎』とは宮沢賢治のソレではない。

 翔太ととうちゃんのオリジナルヒーローだ。

 ある時、翔太が大好きなとうちゃんのトラックに乗せてもらっている時だった。


 窓を開け、「風が気持ちいいね」と、翔太が言った。


「風の又三郎って知ってるか?」

「知らない」

「ガラスのマントをなびかせてピューと飛んでくる正義の味方だ。とうちゃんの名前、風輔だろ、だから子供の頃、風の又三郎が好きでな。みんな仮面ライダーとかウルトラマンになりたがるんだけど、とうちゃんは風の又三郎だった」

「ガラスのマントってどんなの?」

「キラキラしたマントなんだよ」


 風輔は、運転席の後ろの寝台にある、防寒用のアルミシートをとって翔太に渡した。

「丁度、こういう感じのマントだな」

「へえ」

 翔太は、アルミシートを羽織ってマントに見立てた。

 シャカシャカいってキラキラ光っている。


「だけどな。大人になって、本当の風の又三郎は正義の味方じゃないんだって教えてもらってな。ちょっとガッカリだった。・・・拙者、風の又三郎でござんす。って、子供の頃はやってたんだけどな。とうちゃん、あんまりモノ知らないからな。アハハハ・・・」

「とうちゃん、それかっこいいぞ。」

「えっ?」


 翔太はおもむろにマントをひるがえし、

「拙者、風の又三郎でござんす。ヤーヤーヤー!って、悪い奴をメッタギリだぜ」

 と、アクションつきで悪を懲らしめた。


 風輔はニヤッと笑って、

「お、分かるかね。相棒」

「へへへ・・・」

 翔太も得意気に笑った。


 *   *   *


 次の日。

 大久保は物損事故や自転車の盗難などの処理で忙しく昼食抜きであった。

 夕方近くになってようやく時間が空き、弁当を買いに行こうと交番を出た。


 すると結花が一人で歩いていた。

 ランドセルを背負っているからこれも学校帰りだろう。

 聞くと、

 もうすぐお母さんの仕事が終わるから、迎えに行ってその後一緒にお買い物をすると言う。


 おじさんもお弁当を買いに行くから、じゃあ一緒に行こう。となった。

 昨日、翔太との接触は引導を渡され惨敗した。

 せめて結花ちゃんとは仲良くなりたい。と思ったのだが、


「おじさん、おかあちゃんの事好きなの?」

 唐突に聞かれた。ドキッとした。


「あ、いえ、そのようなことは・・・なんと言いましょうか」

「いいよ。ユカ、おじさんの事嫌いじゃないし、恋愛は自由だもん」

(え、そうなんすか、そうなんすか)と思った。


「でも、おかあちゃんがなんて言うか分からないよ」

「はい」

 と、素早く敬礼した。


「これあげようか?」

 結花が四つ葉のクローバーを差し出した。


 ――こ、これは、幸運のしるし。ではありませぬか。


 結花ちゃんから、四葉のクローバーを頂けるなんて百人力ではないか。なんというお導きなのか、今宵天使が舞い降りたぞ。この子の為なら俺は死ねる。と思った。


「やっぱ止めた。お兄ちゃんに怒られるから」

 結花が引っ込めた。


(うそ~・・・それはないですよ。天使さま~)

 大久保は翻弄されたが、なんとか結花ちゃんから突破口を開きたくて、聞いてみた。


「お兄ちゃん、おじさんのこと嫌いなのかな?」


 すると結花は、

「分かんない」

 と言って、すっと手を繋いできた。繋いだ手を振って、うたを歌い出した。


(この子可愛いな。やっぱ天使かな。いや、もうここまで来ると小悪魔の素質あるぞ。将来心配だな~)


 結花が歌い出したのは、伊東咲子の『ひまわり娘』だった。


「ユカちゃん、よく知ってるね? そんな古い歌・・・」

「おかあちゃんが好きな歌なの」

「そうか、じゃあ、一緒に歌おう」

 大久保は、涼子の好きな歌が分かって嬉しかった。


 誰のために咲いたの それはあなたのためよ


 改めて歌うと、いい歌だ。

(太陽みたいな、あなたに見つめられ、ひまわりのように笑う。涼子さんか)

 大久保は、涼子の笑顔が目に浮かんだ。


 ――涙なんかいらない。


 そこまで口ずさんだとき、違うよ。と結花が止まった。

「涙なんか知らない・・・だよ」

「ん?」

「涙なんか、いらないじゃなくて、知らないだよ――」

「へえ・・・」

「おかあちゃんが一番好きなところだから、間違えちゃ駄目なんだよ――ユカも前は、いらない。って、歌ったら、おかあちゃんに直されたんだから――」


「ああ、そうなの・・・へえ、知らなかった。ずっと、涙なんかいらないって、おじさんは思っていたよ」

 大久保は驚いた。


 が、涼子さんの一番のお気に入りの歌詞だったらなおさら間違えてはいけないと思った。

 さらに、なんでその歌詞が好きなのか。俄然興味が湧いてきた。


「え?でも――涙なんか知らない。って、なんか変んな言い方だね? 泣いた事がない人なのかな? その人は」


 結花が、違う違う。と首を振った。

「知らないって事は、知ってるって事だよ」


 うん? どういうことだ? と大久保は眉をしかめた。


「ずっと、泣いてばかりいたんだよ。そこに太陽みたいな人が現れて、自分もひまわりの様に咲くことが出来たんだよ。涙なんか知らないって、吹き飛ばす事が出来たんだよ」


 ――はあ、なるほど。

 涼子さん、センスいいなあ。


「その太陽みたいな人が、おとうちゃんだよ」


 それを聞いた瞬間――大久保の中で、何かが止まった。


 涼子さんをひまわりみたいに笑わせていた人は、もういない。

 また、昔に戻ってしまったのかもしれない。

 ――太陽を失って。


 そう思うと、大久保は涙が溢れて止まらなくなった。

 警察官の制服で、立ったまま、ボロボロ泣いた。


「どうしたの? おじさん・・・大丈夫?」


 夕暮れの中、

 涙が止まるまで、

 ランドセルを背負った結花が、ずっと手を繋いでくれていた。


 *   *   *


『白バイ事件特別捜査本部』の合同会議がまたもや招集された。

 井上家のダイニングキッチンには、大久保と久兵衛が駆けつけた。

 四人揃ってテーブルに着いた。


 前回の会議で浮き彫りになった問題点を整理しておこう。


 事件は、

 涼子の夫・風輔の運転するトラックが前方不注意で国道に飛び出し白バイに衝突した。

 そして、白バイ隊員が死亡するという悲惨な結果になった。とされている。


 対して、これはあくまでも仮説だが、

 トラックが止まっていたところに白バイが自ら突っ込み、自損事故で亡くなったとした場合。白バイはサイレンを鳴らさず一般道を高速走行していたことになる。スピード違反を取り締まっていた記録はない。緊急走行時ならサイレンを鳴らしている筈だ。


 では、なぜ白バイがサイレンも鳴らさず、一般道を猛スピードで走っていたのか?


 これが問題点として浮き上がっていた。


「これを見て下さい!」っと、

 大久保が鼻息を荒くして、ペラ一枚の用紙をテーブルに叩きつけた。


『(通達)交通街頭活動中の殉職・受傷事故防止対策の推進強化について』


 と題されたその用紙は、警察庁から全国の都道府県警察本部長宛に出された、

 いわゆる通達文であった。

 白バイ事故が起こった日の二週間前の日付である。

 二週間前とは通達を受けた側から言わせると、所謂、ホヤホヤの通達である。


 その中身は、


 ―――――――――――――――――――――――――――


 交通街頭活動中の殉職・受傷事故防止の為に


 1、組織管理の徹底

 2、個々の警察官の意識付け等

 3、各種教養訓練に当たっては、「緊急走行、追跡追尾走行訓練」等の

   体験型・実践型のプログラムを積極的に取り入れ、その効果的実施を図る。

 4、また、緊急車両運転者等を対象とした訓練場所等の確保が困難な場合、

   安全運転中央研修所への派遣研修にも配慮する。


 ―――――――――――――――――――――――――――


 警察庁としてはここ五年間の交通事故の実態を重く受け止めていた。

 公務中に警察官十人が死亡、九十一人が怪我をしている。

 その窮状を是正する為の通達だった。


 簡単に言うとこうだ。


 警察官が仕事中に交通事故で死亡したり、怪我をしない様に、各自対策を徹底しなさい!

 さもないと許さないぞ! 大目玉食らわすぞ! 

 と、警察庁という大親分が、各県警本部に対して相当怒っているという内容だ。


「通達ってそういう事なの?」と、房江が聞いた。


「まあ、通達にもいろいろありますが、これに関しては警察官の人命が関わっていますので、真剣に受け止めないとかなりまずい。もし、今後交通事故で警察官が死亡することにでもなったら、完全に自身の出世の道は断たれる。と、お偉いさん達は受け止めたでしょうね」


 この手の通達を幹部連中がどう受け止めたか。

 大久保たちのような現場の人間は日頃から肌で感じている。決して深読みではない。


「なによ。結局、自己保身じゃないの」と、房江が呆れ顔をした。


「で、問題はこの3番です。具体的にはこういう事をやりなさい。とあります」


 3、各種教養訓練に当たっては、「緊急走行、追跡追尾走行訓練」等の体験型・実践型のプログラムを積極的に取り入れ、その効果的実施を図る。


「難しい言い方ね。どういう意味なの?」


「とにかく効果が出る様に、緊急走行、追跡追尾走行訓練を積極的にドンドンやれよ。いいか、訓練といってもな、生易しいモノでお茶に濁しているんじゃねーぞ。リアルな奴だ。ションベンちびりそうな本格的なヤツを考えろ! 訓練訓練訓練なんだよ! お前らサボってんじゃねえぞ! 怠けてんじゃねえぞ! 結果を出せ、結果を!」


 はあ、はあ、はあ、と、大久保が興奮して止まらなくなってきた。


「やだ、ヤクザみたい。ホントにそんなこと言ってんの。コレ」と房江。

「まあ、遠からず、近からず、言い得て妙。と、言えんことはないな」

 一応、井上がフォローした。


 大久保は興奮冷めやらず、

「この通達を受けて、お偉いさん達は、訓練に拍車を掛けたのは間違いないですね。新人の頃、交機(交通機動隊)に配属になった同期に聞いた事ありますが、白バイの高速走行訓練で百五十キロ出したって言ってました。さすがにビビったって!」


「なるほどな。うっすら見えてきたな・・・」と、井上が呟いた。


「ちょっと待って。じゃあ、あの白バイが、あそこの国道で訓練してて、猛スピード出していたってことなの? それって本末転倒じゃない。死亡事故を起こさない様に訓練していたら、その訓練で死んじゃった。って事でしょう」

 房江の突っ込みはするどかった。核心をついていた。


「その通りなんです。だから、訓練はなかった事になったんです。こんなことがバレたら大問題ですからね。お偉いさん達の首は弾け飛ぶでしょうよ。訓練で白バイ隊員が死亡したのではなく、トラックが飛び出してきたから、事故が起こった事にしたんです!」

 大久保の鼻息は相当荒い。


「ちょっとふざけないでよ。なかった事ってなによ! 涼子ちゃんの旦那を何だと思ってんのよ! もう!」

 房江も怒鳴った。


 今度は久兵衛が疑問を呈した。

「そもそも、通達が出たからって一般道で訓練していいんですかい?」


「いや、それはダメだ。違法だ」

 これには井上が答えた。


 通常、訓練施設を自前で持っている県警ならそこでやる。なければサーキットを借りるとか、自衛隊の訓練所を借りるとか、県警によって様々だが、それらは稀な話だ。


 よく見かけるのが河川敷の白バイ訓練所だ。赤いコーンを立てて、白バイがスラローム走行やバランス走行をやっているのを見る。とは言え、河川敷で百五十キロは出せない。


 高速走行訓練をするためには最低でも二百メートルの直線が必要だし、緊急走行訓練をやる場合にはサイレンや急ブレーキによる近隣への騒音問題が引き起る。

 大体何処も、現在所有または使用している訓練施設では充分な訓練が出来ないのが現状だ。


「そこで、これを見ろ」

 と、井上が通達文の4番を指した。


 4、また、緊急車両運転者等を対象とした訓練場所等の確保が困難な場合、安全運転中央研修所への派遣研修にも配慮する。


 とある。訓練所が見つからない場合は、安全運転中央研究所を考えてみろ。ってことだ。


 安全運転中央研修所とは、一般的に有料で利用できる警察庁所管の安全運転のための訓練施設である。茨城県ひたちなか市にあるドデカい敷地の専用施設だ。

 その広さは東京ドーム二十個分と言われている。その広さゆえ、公道では味わえない危険限界を体験しながら安全運転のための訓練が出来る施設である。


 井上はいぶかし気に言った。

「いい訓練所を案内されているのに、なんでここ行ってやらなかったんだ?」


 久兵衛が気が付いた。

「旦那、警察関係者でも、そこを利用する時は金が掛かるんですかい?」

「なるほどそうか。俺はよく知らんがな。あり得る話だな。思ったより金が掛かるようだったら、予算の問題が出てくる」


 大久保も指摘した。

「そこのスケジュールが開いてなかったとも考えられませんか?通達が出て、一気に全国の警察署から訓練申し込みが殺到して、こっちの入る余地がなかったとか」


「それも考えられるな。そもそも、通達が出たのが事故の二週間前だ。訓練を急がなければいけないプレッシャーが何かあったとしたら、業を煮やしていたのかもしれん。あり得るかもなあ・・・」

 井上がしみじみと納得した。


「とにかく、通達に煽られたお偉いさん達は、一般道を使用して高速走行訓練を強行しなければならなくなった。と考えられますね。しかし、もしも、こんなことがバレたら大変な事になりますね。結果、死亡事故まで出している」

 大久保が結論めいた言葉を発した。


「ねえねえ、これってさ、涼子ちゃんの旦那さん、無実って事でしょ」

 房江が聞いた。


 井上が切なそうに答えた。

「いや、これでは、はっきりしない。所謂、状況証拠ってヤツだ。こういう状況だから、訓練で、白バイは、猛スピードを出していました。で、止まっているトラックに突っ込みました。と推定できる。間接証拠とも言う。直接証拠である物的証拠には敵わない。今回は、トラックのブレーキ痕の写真。という物的証拠が認定された。で、有罪だ」


「その、物的証拠なんですがね・・・」

 久兵衛がポケットから写真を一枚出した。


「実はこれ。捏造疑惑、出てます」


 ――なに。


 テーブルに置かれた写真に、皆、釘付けになった。



 第18話 終


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