第17話 事件です。第1節
劇場型プロポーズ大作戦から、約半年が過ぎた。
だが、大久保と涼子の関係に進展はない。
理由は単純だ。
大久保が、あの日以来、弁当屋に行けなくなってしまったからである。
――結婚してください。と言ったはいいものの。
次の日には後悔し、涼子と顔を合わせる勇気が出なかった。
そのまま、春になった。
川の土手には桜が咲き、満開を迎えようとしている。
土手沿いには桜並木が続き、その足元には菜の花が鮮やかな黄色を広げている。
土手の下、河川敷にも、桜と菜の花が点在していた。
やわらかな日差しの中、桜色と黄色が重なり合う。
そこに、時折吹く風が花を揺らす。
――花見の季節である。
河川敷の一本の桜の下に、ブルーシートが敷かれていた。
その上には、お重に詰められた料理がずらりと並んでいる。
お重を挟んで、大久保と涼子が向き合って座っていた。
すでにプロポーズらしきものは済んでいるはずなのに、空気はまるでお見合いのように固い。二人とも緊張で体が強張っている。
大久保の隣りには、井上夫婦が座っている。
涼子の隣りには、翔太と結花、子供達が座っている。
「このお稲荷さんも、美味しい」
と、結花は先程から料理にパクついている。
色とりどりに着飾ったお重の中身は、まるでお節料理のように華やかだ。
お節と違うのは、和食よりも洋食がメインであることだ。ハンバーグに唐揚げ、ポテトサラダにスパゲッティと、子供が好きなモノが勢ぞろいしている。
次はどれにしようか。結花はモグモグしながら、目を凝らしている。
ところが、翔太は料理に一切手を出さない。
箸にも手を伸ばさず、ずうっと、ムスッとしている。
「さあさあ、遠慮することはないぞ」
井上が紙皿に料理を取り分けて差し出す。
「スパゲッチーもあるぞ。スパゲッチーも」
「スパゲッティだよ」
結花がサラッと突っ込む。モグモグモグしながらだ。
「ユカちゃん、そのお稲荷さんもオバちゃんがつくったんだよ。」
房江がニコニコしながら、どや顔を向ける。どや顔は三回目である。お重の料理は全部、房江の手作りなのだ。
結花が次の料理に手を伸ばすと、きまって房江が「オバちゃんがつくったんだよ」と同じ様にアピールしてくる。その度に結花もニコニコしながら、同じ言葉を返した。
「お料理上手だね。オバアちゃん」
この、オバアちゃん。を聞くと房江は、口角をキュッと上げ、ギョロっと目を見開いて、
「オバちゃんだよ~」
不気味な笑顔で首を振る。半ば威嚇しているのだが、結花には通用しないみたいだ。
ふふ~ん。っと、結花がクシャクシャの笑顔を見せる。モグモグしながらだ。
どうやら、このやり取りが気に入ったみたいだった。
冬は過ぎ、春が訪れた。
それでも二人の関係に変化はない。
あの日、井上夫婦が画策し、大久保を祭り上げた。結果、大久保は派手に舞い踊った。唯それだけであった。涼子にとっては、何をどうしていいのか分からない。だが、悪い気はしてない。大久保の好意も井上夫婦のお節介も嫌ではなかった。
房江は一旦店をやめたが、店長から懇願され復職していた。再び、房江と涼子は職場を共にする仲となっていたが、あえて房江は大久保の話題には触れずにいた。しばらくは二人にまかせるべきだと判断したからだ。
しかし、物事はそう上手くは進まない。ほっといても二人の関係は全く進展しないのである。それどころか、大久保にいたっては、弁当屋にすら来なくなっていた。あれから一度もだ。
さらには、スナック止まり木で、涼子が、キャンディーズの練習をしている。という噂を聞いた大久保は、飲みにさえ行かなくなった。
のど自慢の本番はこっそり見た。涼子の美しさに、いっそう見惚れた。が、観客から拍手喝采を浴びる涼子。もう、自分の手の届かない存在になってしまった。と一方的に感じた。
涼子との距離を、自分で無理やり遠ざけて仕舞った。とにかく、涼子を避けた。どんな顔して会ったらいいのか。わからなかった。
業を煮やした井上夫婦が動き出した。それがこの花見である。
涼子は、房江から強引に花見に誘われた。
で、来てみたら大久保がいたのだ。少し驚いた。少しというのは、大久保が来ることを予感していたからだ。涼子にしてみれば、あれ以来、大久保が弁当を買いに来なくなったので、妙に気になっていた。
大久保は、涼子がここに来ているとは知らなかった。
井上から誘われて来てみたら、涼子がいた。心臓が口から飛び出しそうだった。久しぶりに涼子を目の前にして、ガチガチに固まってしまった。
百万年でも待ってます。とは言ったものの、その後、どうしていいかわからず。弁当すら買いに行けなくなった自分が情けなくってしょうがなかった。
「じゃあ、弁当は以前の通り、買いに来てくれるんだね。涼子ちゃんも迷惑じゃないね?」
房江が大久保と涼子に訊ねた。
大久保は、はい。と頷き。涼子は「迷惑だなんて、とんでもない」と恐縮している。
目下、大人四人の話題は、この、弁当屋に来るか来ないか問題。であった。
「良かったよ~。私もクレナイ弁当の従業員として、客が一人減るのは忍び難かったからね。ところで、例の返事なんだけど?」
房江は駄目だった。我慢が出来なかった。つい聞きたいことが口から洩れてしまった。
すいません。子供の前では・・・と、涼子が小声で囁いた。
あっと思った房江は、パチンっと手を打った。すかさず井上に向かい、
「そりゃそうだよ。あんた、時と場合を考えな」
「お前の事だよ」
井上が呆れ顔して突っ込んだ。
そこに反町久兵衛がやって来た。
「へへへ、皆さんお揃いで・・・」
「おお、久兵衛じゃないか」
「あ、キュウさん」
「あら、キュウちゃん」
井上夫婦と大久保がそれぞれに声を掛けた。
反町久兵衛。58歳。情報屋。いわゆるタレコミ屋である。
元々は空き巣の常習犯だった。その昔、井上に逮捕されたことも一度や二度ではない。
それをきっかけに足を洗い、情報屋へ転身した。
この転身が当たった。
そういう意味で、井上は、久兵衛にとって恩人中の恩人だ。
裏社会に通じた独自のネットワークと、人当たりの良さ。
欲しい情報を、欲しいタイミングで正確に持ってくる。
いまでは所轄を越えて、複数の警察署から声がかかるほどの腕利きだ。
県外の刑事にも顔が利く。
業界では、ちょっとした有名人である。
「お前も花見か?」
井上が聞く。
「いえいえ、仕事でさ。こういう人の集まるところにネタは転がってるもんで、酒も入るから脇も甘くなるんですよ。大抵の人間は・・・」
久兵衛は肩をすくめて笑う。
情報は足で稼ぐ。それが彼のやり方だった。
「ご苦労様です」
大久保が軽く敬礼する。
「キュウちゃんも一杯どう?」
房江が紙コップを差し出し、缶ビールを注ぐ。
「へへへ、それじゃあ、ご相伴にあずかりまして」
久兵衛は受け取り、立ったまま、ぐいと一口飲んだ。
その瞬間だった。
「一杯飲んだらさあ、この子たちをちょっと遊ばせてくれない?」
房江が、間髪入れずに切り出す。
「子守りですか? 妙な依頼だな」
久兵衛は眉をひそめた。
だが、返事を待たずに房江は話を進める。
「お母さんがこの人ね。私の同僚の高木さん。で、子どもたちは翔太くんとユカちゃん」
さらに涼子へ向き直る。
「こちらは、久兵衛さん・・・えーっと・・・」
言葉が止まった。
どう紹介すべきか、迷ったのだ。
元、空き巣。というわけにもいかない。
うちの旦那に何回も逮捕されたという経歴をお持ちの・・・。
子供を預けるのに、そんな紹介の仕方もないか。と思い、さすがに戸惑った。
井上に向かって聞いた。
「なんて紹介すればいいの?」
「下請け業者みたいなもんだな」
一言で済んだ。
「ユカちゃん、良かったね~。この怪しいおじさんが遊んでくれるって、どうせ面白くないと思うけど」
房江がニコニコしながら、結花の頭を撫でて言った。
「久兵衛、ちょっと頼めるか?ほんの少しでいいんだよ」
井上も頭を下げる。
どうしても、子供達をこの場から離したかったのだ。
「ほんの少しですよ。こっちも仕事があるもんで・・・」
久兵衛、ビールを一気に飲んで、翔太と結花の手を持って引き上げた。
よっこいしょっと。
「じゃあ、ワタアメでも買いに行くか。手を放しちゃ駄目だぞ。迷子になっちまうからな」
そう言って、子守りを引き受けた。
「わ~い、ワタアメだ」
と言って、結花はピョンっと飛び跳ねた。
翔太はムスっとしながら、ゆっくり立った。
「翔太、目薬持ってる?」
「あるよ」
「おいで、一回さしとこ」
涼子が翔太を呼んで、目薬をさすため上を向かせた。
「はい、口閉じる」涼子が諭すように言った。
翔太は目薬をさす時に上を向かせると、いつも『あ~ん』と大きく口が開いてしまう。この癖を直してあげたい。と涼子は思っているのだが、なかなか直らない。
ぽたり、と一滴。
「この子、ドライアイなんです。子どもなのに」
涼子は久兵衛に向かって言う。
「目薬は持たせてますけど、何かあったら教えてください」
「ええ、わかりやした。気ぃつけときます」
久兵衛は翔太と結花の手を繋いで、土手の上にある縁日の方へ歩いて行った。屋台がずらっと並んでいてお祭りの様な賑やかさだ。
久兵衛は、歩きながら、だんだんと涼子の顔に見覚えがある気がしてきた。
――はて、誰だったかな?
* * *
河川敷の桜の樹の下では大人四人だけになった。
そろそろ本題に入ってもいいだろうってことで、房江が聞いた。
「で、どうなの?涼子ちゃん」
「見ての通り私には子供がいますので、あの子達を育てるので精いっぱいで、今は何も考えられないです。すいません」
「う~ん、今はね。そうよね」
と、房江は相槌を打ちながら、大久保の顔をジッと見た。
大久保は黙っている。
「こいつ気持ち悪るかったよね。血だらけになってやって来て、何万年でも待ってます。とか言っちゃってさ。ストーカー規制法違反で逮捕して死刑にするか。このデバガメが!」
と言って、房江が、ドンっと大久保の腹をいきなり殴った。
ううっ!・・・そんな。
大久保は腹を抱えて丸くなった。日頃から、相撲の稽古と武道訓練で鍛えている体には房江のパンチなど大して効かない。痛くないのに痛がった。リアクションに困っていたから勿怪の幸いだ。
井上が続いて、
「問題は子供達だよ。あの子らに好かれないと元も子もないぞ。分っているのか?お前は!」
グッと、大久保の髪を掴んで顔を引き上げる。
これも大して痛くはないが、一応、苦悶に満ちた表情をつくって、苦しがった。ううう。
井上が髪の毛を掴んだまま後ろに回り、大久保の顔を、房江に向かって突き出した。
房江はすくっと立ち上がり、何やら叫びながら、往復ビンタをあびせ掛ける。
バシン!
「情けない男だね。この期に及んでだんまりかい」
バシン!
「そんなことじゃ。いつまでたっても。嫁さんなんか。見つかんないんだよ」
バキッ!っと、最後の一回は裏拳が入った。
――あっ。
房江が一瞬だけ目を逸らした。
つい、熱が入ってやり過ぎてしまった。
――おっと、こいつはちょっと痛いぞー と、大久保。
ビンタぐらいはヘッチャラだ。相撲の張り手で慣れている。ところが、裏拳をくらったのは初めてだった。一瞬クラっときた。
「やめて下さい!なんてことするんですか!」
涼子が思わず、井上夫婦を振り払って、大久保の顔を胸に抱きかかえた。
涼子に抱きしめられた大久保は、裏拳なんかより、よっぽど衝撃的な体験をしていた。
――うわ~、オッパイが、目の前に――。
カーッと、一気に血が上った。
「大丈夫ですか? 大久保さん。大久保さん」
涼子は、大久保の顔をそっと撫でたり、ハンカチを取り出し唾で湿らし、傷にあてたりして、心配そうに声を掛けた。
大久保は目を白黒させて、やっと一言。
「鼻血ブーです」
房江と井上は顔を見合わせてほくそ笑んだ。
井上劇場と呼ばれる一幕だった。
* * *
久兵衛と翔太と結花。
手を繋いで河川敷から土手を登っていく。土手の上には、焼きそばやたこやき、金魚すくいやお面などズラリと屋台が並んでいる。人の波が激しく往来していた。
――手離せよオジサン。
翔太が久兵衛の手を振りほどこうとした。
お、可愛くないガキだな。と思った久兵衛は翔太の手をガッチリ握って離さない。
「ヤダね。仕事はキッチリこなすほうでね俺は。・・・お前訳ありだな。いいんじゃねえか。俺もガキの頃は可愛かなかったしな・・・納得いくまでツッパッてみろ」
「余計なお世話だよ」
すねた口調で翔太が横を向いた。
「坊主よ。一回や二回、道なんて外しても構わないぞ。だがな、最後はここに戻ってこい。お前の周りにはいい大人がいる」
久兵衛の言葉は自信の経験からくるものであった。
「いい大人なんかいねえよ!」翔太が激怒した。
久兵衛は言葉を失った。
子供の怒りじゃない。どこか切羽詰まった響きがあった。
「お前、だいぶこじれてるなあ・・・」
* * *
井上劇場が一段落した大人四人。井上が真剣な眼差しで問い掛けた。
「涼子ちゃん、少し旦那さんの事を聞いてもいいかな?」
「すいません。それはちょっと・・・」
涼子は、亡くなった旦那の話だけは、頑なに避けていた。
房江も、仕事中に何度か問い掛けたが、依然として話してもらえなかった。相当触れられたくない事情があるのだろう。と、聞くのを諦めていた。
「あんた、よしなよ」
「そうだな・・・そのうち、話したくなったらでいいな」
井上も諦めた。
とは言え、房江は、涼子のこの態度が気になってしょうがなかった。
「だけどね、涼子ちゃん。もしなにか悩んでいる事があったら相談してね。こんな私達でも、力になれる事があるかも知れないからね」
有難う御座います。と、涼子は深々と頭を下げるだけだった。
普段明るい涼子だったが、死んだ旦那の話になると、これだけふさぎ込む。誰の目に見ても、相当深い悩みを抱えている事は明白だった。井上夫婦は、話題に触れまいとしながらも心配を募らせた。
房江は思った。
この得体のしれない涼子の悩みに向き合うのは私達ではない。大久保こそが、そうするべきだ。二人の関係が今後どう進展するかわからないが、本質はそこにある。そこを避けて通ったら、例えうまくいっても、それは一時的なモノであって、いずれは壊れる。それでは意味がない。そう思って、房江は大久保に振った。
「あんたも何か聞きたい事はないのかい」
大久保も、涼子の様子を察知して、なにかを感じ取っていたのだろう。
しばらく考え、じゃあ、一つだけいいですか? と重い口を開いた。
「何だい」と、房江。
「ハゲ親父にケツを振るってのは本当ですか?」
といい、聞くと同時に、大久保は目をつぶっていた。
意を決して放った質問だった。
――あ、バカ。
と叫んで、井上は思わず大久保の口を塞いだ。
このガキャ、何を口走っとるんじゃ。と、焦った井上。
口を塞いだまま大久保を引きずって、その場を離れた。ちょっとこっち来い。このアホたれが。と、5・6メートルは引きずって距離をとった。
確かに、
「ガキ食わせる為にはな、ハゲ親父にだってケツ振るぞ!」
と言ったのは自分でも覚えている。
井上は目を皿のようにひん剥いて、
「なに言ってんだ、お前。モノの例えだろうが。アレは!」
「聞くなよ、ああいうこと!」
と、激怒した。
「え、そうなんですか?例え話だったんなんですか。アレは」
「あたり前だろうが!」
ああ、よかった~。と、大久保は安堵の表情を浮かべた。
「いい加減にしろ。涼子ちゃんがそんな娘に見えるか。例え見えたとしても、聞くんじゃないよ。バレちゃうだろうだ。こっちがなに言ってるか」
「だって、そう言ったから心配で・・・」
涼子と房江が冷たい視線を送っていた。房江がしみじみと呟いた。
「ああいうこと話してんのよ、普段」
「サイテー」
涼子も呟いた。
* * *
久兵衛と翔太と結花がワタアメを買って近くまで帰って来た。
みんなの目の前まで来た時に、結花が足下に四つ葉のクローバーを見つけた。
それを摘んで、
「あ、四葉のクローバーだ。お兄ちゃん、見てほら・・・これって、なんでラッキーなの?」
「ああ確か、ナポレオンだったかな・・・」
「なにそれ?」
「ナポレオンが戦場にいる時に、四つ葉のクローバーを馬上から拾おうとして体をかがめた瞬間、銃弾をよけたからっていうのを聞いた事があるけど・・・」
と、翔太が答えた。
久兵衛は驚いた。
「お前アッタマいいな~。出来が違うぞ、その辺のと・・・」
あ、またあった。と、結花がもう一本、四つ葉のクローバーを見つけた。
ここにもあった。と、翔太も探し始めた。
二人は四つ葉のクローバー探しに夢中になった。
久兵衛、ふと、涼子の顔を細目で眺めて、
(思い出した。あの女だ)と、井上のもとに駆け寄った。
「旦那、旦那」
「おお、戻って来たか。子供たちは?」
「そこで、四葉のクローバー探してます」
「お~い、ユカちゃん。ワタアメ買ってもらったか?」
と、井上が結花に声を掛ける。
うん。と、結花はしゃがんでいながら、ワタアメを振った。
久兵衛が小声で、
「旦那、あの女。どっかで見た事あると思ったんですよ」
「涼子ちゃんか?」
「三年ぐらい前に、○○町で白バイとトラックの衝突事故があったじゃないですか。白バイがトラックに派手に巻き込まれて、白バイ隊員が死亡した・・・」
「ああ、あったな。そんなの・・・」
「あの加害者の、トラック運転手の女房ですよ。あの女」
「ふ~ん、トラック運転手の奥さん・・・あれは事故だったのか?」
「え~と・・・」と久兵衛はいい、その事故に関する、記憶を手繰った。
あれは・・・
「事件です。」
井上は暫く考えた。
しばらく考えて、ちょっと来い。っと、
久兵衛の腕を掴んで、座っている涼子の傍まで来た。そして、
「涼子ちゃん話がある」と声を掛けた。
井上は足もとのお重を片付け、久兵衛と共に涼子の目の前に座った。
涼子に面と向かって、
「気に障ったらごめんよ。決してあんたの事を調べたわけじゃないからね。だが・・・」
井上は久兵衛の肩に手を置いた。
「こいつが思い出しちまった。こいつは腕の立つ情報屋だ。警察からいろんな情報を求められて生業にしている。あんたの事もどっかで見た事あると思ったらしいんだ。それをさっき思い出した。三年前の白バイ事故の、トラック運転手の奥さんだね。あんた」
涼子は下を向き、はい。と、か細く答えた。
「いいかい、もう一度言うよ・・・決して調べたわけじゃないからね。こいつだって悪気があって思い出したわけじゃない。分かってくれるかい。でも、知られたくないと思ってることをこっちは知ってしまった。申し訳ない」
「そういう事でしたか。無神経に・・・すいません」
と、久兵衛が平謝った。
「話はそれだけだ」と、井上。
涼子は小刻みに頷いて、泣き出した。しくしくと泣き出した。
房江がその様子を見て、
「ほら、どいたどいた。いつまでもど真ん中に鎮座してんじゃないよ。飲み直すよ。大久保君、お重戻して・・・ほら」
と言って、井上と久兵衛を追い払おうとした。
大久保も、はい。と言って、いそいそとお重を持って動き始めた。
「どきなって言ってんだよ」
房江が井上を足蹴にする。
「痛ってえな。足でやんなよ・・・もう」
井上は蹴られた勢いで四つん這いのまま動き出した。
――ごめんなさい!っと、涼子がいきなり三つ指ついた格好で頭を下げた。
「黙っててごめんなさい。私の主人は事故を起こしました。そして白バイ隊員さんが亡くなりました。皆さんの大事なお仲間だったと思います。大変ご迷惑をお掛けしました。申し訳ありませんでした」
房江が涼子の背中を撫でながら声を掛けた。
「言いづらかったね。それは・・・もういいよ」
涼子は頭を下げたまま続けた。
「いいえ。まだ肝心なことをお話ししていません。うちの主人は事故の責任を問われ、裁判で一年四カ月の実刑が確定しました。終始、無実を訴えていましたが叶いませんでした。それを悲観して、飛び降り自殺をしました。さらにもっと、皆さんにご迷惑を掛けることになりました。申し訳ありませんでした」
自殺?・・・井上が反応した。
あの事件、そんな後日談があったのか・・・と、久兵衛も漏らした。
井上が大久保を睨んで聞いた。
「大久保君。君ならどうだ?」
「例えば、百零で君は事故を起こし相手が亡くなった。一応、無実を訴える。だが、裁判ではその主張は通らず、君は実刑を食らうことになる。自殺するか?」
「しません! 絶対に」
「何故だ」
「涼子さんと翔太君とユカちゃんがいるからです!」
大久保は即答した。
井上は大きく頷いて、久兵衛を見た。
「普通はそうだよな」
「普通じゃ、ないですね」
久兵衛が答えた。
* * *
「あれ?翔太君とユカちゃんは?」
と、大久保が聞いた。
そこにいるぞ、四つ葉のクローバー探してる。と井上が顎をしゃくった。
「どこですか?」と、大久保が聞き返す。
見たら、二人がいない。井上はあたりを見回した。久兵衛も見回した。
おかしい。たった今、すぐそこで二人は四つ葉のクローバーを夢中になって探していた。あたりを見回すが翔太と結花の姿がない。
しまった。と言って、久兵衛が立ち上がって辺りをぐるりと探したが、翔太と結花はいない。戻って来て、
「すまねえ旦那。俺としたことが」
「何分経った?」
久兵衛が腕時計を見た。
「かれこれ十五分ですかね」
翔太! 結花! しょうた! ユカ! 涼子が子供の名前を呼び続ける。
「まさか、誘拐されたんじゃ・・・」
「どうしたらいいんでしょうか。どうしたらいいんでしょうか」
心配症がすぎるのか、涼子があまりにも取り乱してきた。
それはない。と井上が否定した。
「これだけの人前で二人同時に狙うのはリスクが高い。その線は捨てていい」
井上は言い切ったが、可能性がないわけではない。
だが今は、涼子がパニックにならないことの方が先決だった。子供の捜索を第一とするなら、お母さんに取り乱されると邪魔になる。
「多分、四つ葉を探して遠くに行ったか、土手の上に屋台を見にいったか。子供の足で十五分だ。まだまだ近くにいる。よし、手分けして探すぞ。ここを起点に上流を久兵衛、下流を大久保、房江は迷子センター。俺は土手の上を探す」
井上が指示を出した。
涼子の気を静めるためにも早めに動いた方がいいと思った。
大久保が手を挙げて言った。
「あ、土手の上。自分が行きます。捜索範囲が広いですから。それと、この場所に目印があったほうがいいです。縁日のノボリを借りてきます」
「よし、任せた。俺は下流をいく。携帯忘れるなよ」
段取りは整った。
私は?っと、涼子が不安気に聞いてきた。
「お母さんは動かない。子供が戻って来るかも知れんからな。ここにいて動かない。一人で待っていると不安になって探しに行きたくなるかもしれんが、絶対に動かない様に・・・」
――頑張れ! と、井上が念を押した。
じゃあ、行くぞ。と、各々が分散し捜索が始まった。
大久保は土手を一気に駆け上がり、屋台の前のノボリを三本引き抜いた。人の背丈ぐらいのノボリで『たこやき』の文字だけが、たてに大きく書かれた代物だ。
「警察だ。ノボリ借りるぞ。ついでにこれも」
と、ガムテープも拾った。今日は私服なので、大久保の見た目に説得力はない。ホントに警察かどうかは疑わしい。
「おい、なにすんだよ!」
と、屋台の兄ちゃんが突っかかってきた。
――つべこべ言うとしょっ引くぞ。公務執行妨害だ!
この迫力には、説得力があった。
大久保は脱兎のごとく土手を駆け下り、一旦、涼子のもとに戻った。手にしたノボリを三本、縦に繋いでガムテープで固定して、背の高いモノを作った。
『たこやき・たこやき・たこやき』と書かれた長いノボリになった。
それを涼子に手渡し、
「これを持ってて下さい。倒さない様に。この場所の目印です。・・・大丈夫ですよ。我々はプロです。必ず見つけますから!」
大久保は出来るだけ力強くはっきりと言い切った。涼子の不安が少しでも和らぐようにと。そしてまた、全速力で走り出し、土手を一気に駆け上がっていった。
涼子は大久保の背中を目で追いながら思った。
そうだ、私はここから動いてはいけない。と。
ノボリを握る手にギュッと力が入った。
* * *
翔太と結花は迷子になったわけではなかった。
大人達の様子を、少し離れた桜の樹の陰で見ていた。隠れてじっと見ていたのである。かくれんぼのつもりではない。翔太の野心はそんな無邪気なモノではなかった。
さかのぼる事、十五分前。
大人達の傍で、四つ葉のクローバーを探している翔太と結花。
しゃがみ込んで、草むらに手を這わせながら、二人はこんなやり取りをしていた。
「ねえ、お兄ちゃん。おかあちゃん、あのおっきいオジサンの事好きなのかな?」
「そんな訳ないだろ」
翔太はムッとして答えた。
「うん、おかあちゃん困った顔をしてた」
結花も物憂げに言った。
結花も翔太もとっくに感じていた。
母親とあの大きな男の関係にただならぬモノがあることを。さすがにプロポーズした、された。という事までには考えは及ばなかったが、気色の悪い違和感だ。子供達は母親の態度から敏感に感じ取ってしまう。
ところが、困った顔はしているものの、涼子が本質的に、絶対的に、嫌がっている訳ではないことも見てとれた。それが尚更、翔太にとっては気持ち悪い。
大久保のことが気に入らない翔太は、あんな奴は悪い奴に決まっているんだ。と、はき捨てるように言って、しゃがんだまま、目の前の草を引きちぎった。
でも、優しかったよ。と、結花は群生しているクローバーの頭を撫でていた。結花は翔太ほど大久保に嫌悪感を抱いてはいない。
そんな結花の態度が翔太は気に入らない。
しゃがんだまま、結花に寄り添って囁く。
「騙されるな。あいつら警察だぞ」
「お巡りさんって悪い人なの?」
「そうだよ」
「学校じゃそんな事言ってないよ」
翔太は立ち上がって、結花を見下ろした。
「ユカはまだ子供だから分かんないんだよ」
翔太の、警察に対する嫌悪感は並大抵ではなかった。
結花に、とうとうと説明しても、わかるはずはないか。と諦めた。
ふと見ると、少し離れたところで担任の吉田先生がいるのを見つけた。
吉田先生は土手にあるコンクリートの階段に座っていた。
仲間二・三人と共に缶ビールを片手に笑いながら駄弁っている。
翔太の視線は、吉田と大久保を行き来していた。
なにかを閃いた翔太。
もう一度しゃがみこんで、四葉のクローバーを探している結花の手を握った。
「ユカ、お兄ちゃんがあの悪い奴やっつけるから、言う通りにしろよ」
「ええ~、なにすんの~」
翔太が結花の手を引っ張り、大人達にバレないようにゆっくりと移動してその場を離れた。結花を連れ、少し離れた桜の樹の陰にそっと隠れた。
顔だけ出して覗くと、丁度、涼子がしくしくと泣き三つ指ついて頭を下げていた。話は聞こえないが、やつらが自分の母親に酷い仕打ちをしいるのは間違いない。
翔太は怒り心頭に発した。
「くそー。やっぱりあいつら、かあちゃんを泣かせてるじゃねえか」
だったら、僕がやるしかないだろ。
* * *
しょうた~。ゆか~。目を凝らして涼子は名前を呼んでいる。
この場を動かないように。と言われたので、一人でノボリをギュッと掴んで立っている。
『たこやき・たこやき・たこやき』と三本縦に繋いだノボリは、ゆうに3メートルは超える長さである。戦国時代ののぼり旗でも持っているかのような井手断ちだ。相当目立っている。でも、目立つことが狙いである。子供達の目を引くことが大事だ。
と同時に、捜索している大久保たちからも、自分たちが今、どのあたりを探しているのか。ノボリを見て距離や位置を測れるから案外役に立つ。涼子がノボリを持って立っていることは重要な役割だった。
* * *
「ユカ、あそこに吉田先生がいるだろ。お兄ちゃんはこれから吉田先生と一緒にあのでっかくて悪い奴をやっつけに行く。ユカはかあちゃんのところに戻れ。でも、かあちゃんには言うなよ。何か聞かれても、分かんない。って答えろ。いいな。分かんない。分かんない。ってだけ言って誤魔化すんだぞ」
翔太は結花の両肩を掴んで、揺すりながら言った。
「うそ~」と、結花は泣きそうになっている。
また、お兄ちゃんがよからぬ事を企んで、自分が巻き込まれている。と確信した。
「うそじゃない。いいか、かあちゃんの為なんだ。かあちゃんがひどい目に合ってるのを助けるんだ。ユカも見ただろ、あいつら、かあちゃんをイジメてたんだぞ。分かったな!」
そう言われれば、結花もおかあちゃんを助けたい。
「分かった。ううん・・・分かんない」
「そうだ。分かんない。だけ言ってろ」
結花は、お兄ちゃんの言い付けに忠実になった。
翔太が桜の樹の陰から、結花を涼子のもとに送り出す。
結花は涼子に駆け寄った。
おかあちゃ~ん。と。
結花が涼子に抱きかかえられたのを確認して、翔太は、吉田先生の座っているコンクリートの階段に向かった。
涼子は携帯を取り出し、房江に結花の無事を知らせた。房江からみんなにも連絡が回った。
だが、翔太はまだ行方不明。捜索は続行だ。
結花は、分かんない。分かんない。と泣いている。
* * *
「吉田先生」
翔太がトコトコと階段の上から降りて来た。
「お、どうした?高木。お前も来ていたのか?」
吉田は振り返って微笑んだ。
だが、翔太の様子がおかしい。もじもじとしたその様子は普段のこの子の態度ではない。
吉田は、嫌な予感がした。
「高木、なにかあったのか?」
「変な人がいた。僕、変な男の人にオチンチン触られた」
「なんだって!」
「声を出したらあいつ逃げた」
「どっちに逃げた?」
「土手の上」
と、翔太が指をさす。
くそ~と。吉田は一気に頭に血が上り、階段を駆け上がった。が、すぐさま戻り、
「高木、大丈夫か?怪我はないか?」
と、翔太の手足をさすって痛いところがないか確かめた。
ふと見ると、半ズボンのチャックが全開になっているのに気付き、すぐさま閉めた。
当然、翔太の仕込みだ。この子の芸の細かさには驚かされる。
吉田はすっかり騙され、そのリアルな状況から犯人に対する怒りが増幅されてゆく。
翔太が土手の上を見上げると、丁度、大久保がワタアメ屋の屋台の方に向かっていた。
「そうだ。お母さんはどこだ?」
と、吉田が聞いた。
「お母さんは妹とワタアメ買いに行った」
「とりあえず、お母さんのところへ行こう」
「うん」
吉田は、翔太の手を取って階段を上がり土手の上に出た。
が、怒りがおさまらない。
「くそ~、犯人の顔覚えてるか?」
「忘れられないよ」
「見つけたら教えてくれ」
「いた。あいつだ」
翔太が大久保を指差した。
ずらっと並んだ屋台の列。5・6軒先のワタアメ屋の前に大久保はいる。
大久保はきょろきょろとあたりを見回しながら翔太を捜索中だ。
翔太は吉田の手を引っ張りワタアメ屋に駆け寄った。
そして、大久保の背中に向かって、
「おじさん!」と声を掛けた。
大久保が振り返ると、翔太が見知らぬ男と手を繋いで立っていた。
大久保はホッと胸を撫で下ろして力が抜けた。見つかった。とつぶやいた。
ところが、吉田の怒りはマックスに達していた。
コイツが犯人かあ。と、大久保を睨みつけると、日頃スクワットで鍛え上げている大腿四頭筋が硬直するやいなや、思いっ切りタックルで飛び掛かった。
――この野郎。
が、大久保も瞬時に反応し、腰を落としてガシッと吉田のタックルを胸で受けた。条件反射でそうした。相撲の立会いに例えると受けにまわったのだ。
うお~と、力一杯吉田は押し込む。
おい何だ。どうした。と思いながらも大久保も踏ん張る。こいつ相当力が強い。
大久保に吉田の敵意は皆目見当がつかない。が、話し合いができる状態ではないと判断し、吉田のTシャツを両手で掴んで一気に引き上げ、おりゃあっと地面に叩きつけた。
吉田はすぐさま起き上がり距離をとる。Tシャツの首元は裂けていた。
その時、翔太が叫んだ。
――僕、この人にオチンチン触られたんだ!
「なにっ!」と、大久保が反応した。
そうかこの野郎。翔太君を連れ回して悪戯しやがったな。見つかった。と思った瞬間タックルで俺を倒して、そのスキに逃げるつもりだったな。バカったれがあ。
大久保と吉田は同じように相手を勘違いした。一瞬見合って同時に叫んだ。
「この変態野郎が!」
今度は大久保が先に仕掛けてぶちかました。体当たりだ。破壊力が凄まじい。
吉田は弾き飛ばされて、りんご飴屋の屋台に飛び込んだ。陳列されたりんご飴ごと吹っ飛んだ。ガシャーン。バキーン。バキバキっと、りんご飴の屋台が大破した。
大きな岩でもふって来たのか。と思った吉田はフラフラっと立ち上がった。
ようし観念しろ。と、大久保は吉田を取り押さえようとしてヘッドロックをかけた。
が、その瞬間。吉田がグッと腰を落としてバックドロップを放った。
大久保の巨体が一瞬宙を舞った。
と思ったら、隣りのチョコバナナの屋台に背中から落ちた。吉田もあとからなだれ込んだ。チョコバナナが空中乱舞した。
ガガーン。ガンガンガン。ゴキゴキゴキ。と、けたたましい音を立て、チョコバナナ屋の屋台も大破した。これには大久保も相当ダメージを喰らった。
二人ともフラフラになって立ち上がり、こんちくしょう。と、お互いの胸倉を掴んで引き寄せた。グルグルと回って、今度は、隣りのベビーカステラの屋台に倒れ掛かるようにして、同時に転がり込んだ。
ドカーン。バコーン。グシャーン。と、ベビーカステラ屋も大破。
が、そこにはカステラを焼く鉄板があり、
「あっちいい」
と叫び、二人はベビーカステラを巻き散らしながら、飛び起きた。
そして、すぐさま手と手を組み力比べをするような恰好で、二人はフィンガーロックの態勢に入った。そのまま頭と頭を何度もぶつけあわせて、「うおお」と吠えまくる。
力比べと頭突きの応酬でバランスを崩し、そのまま土手を転がり落ちた。
ゴロゴロゴロゴロゴロ。
土手の下にはブルーシートが張ってあり、どこぞの大学生の一行が宴席を開いていた。
缶ビールやペットボトル、サンドイッチやオードブルを並べたその上に、大久保と吉田が土手の上から、絡み合って転がり落ちてきた。
ドーン。ドンドーン。
「きゃああああ!」
「なんだ、喧嘩か!」
「ああ、俺のゆで卵が!」
悲痛な叫びが飛んだ。
翔太も土手を駆け下りてきた。そしてまた叫んだ。
――痛いよ。オチンチンが腫れてきた!
もちろん翔太は、吉田先生を鼓舞するために芝居をしている。だが、大久保も勘違いをしているため、この叫びには両者が煽られた。
「うおおおおお!」
と叫んで、それぞれ正面から突っ込み、大久保と吉田はがっぷり四つに組んだ。
大久保の有利な態勢だ。そのまま、腰のベルトを持って右手出し投げで吉田を振り回し、左手で頭を押さえて投げ飛ばした。
投げられた瞬間に、吉田も大久保の左手をガシっと掴んで一緒に転がった。
吉田は投げられて背中を強く打ったが、同時に大久保の左手にしっかり関節技を決めていた。ピキッと痛みが走り、一瞬顔をしかめた大久保だが、力まかせに吉田を振り払った。
大久保、すぐさま立ち上がり言った。
「どうやら素人じゃねえようだな。この変態野郎!」
「なにをヌカすか。この、ど変態野郎が!」
吉田も返した。
宴席を荒らされた大学生達が、それを聞いて反応した。
「おい聞いたか、変態 対 ど変態。だってよ」
「もしかしてこれって、なんかの余興じゃねえのか?」
「いいぞ、やれやれ。変態 対 ど変態」
と、面白がって冷やかしはじめた。野次馬もどんどん集まってきた。
吉田が破れかけていたTシャツを引きちぎって、上半身裸になった。見事な大胸筋だ。
「元・足腰大学プロレス研究会・会長 吉田信夫」
Tシャツを投げ捨て、名乗りを挙げた。
大久保は下に落ちてた食卓塩を拾い上げ、蓋を取り、
「元・ぶつかり大学相撲部・主将 大久保隆」
と名乗って、塩をぶちまけた。
野次馬が拍手喝采。やんや、やんやの大騒ぎである。
「いいぞ~。くそったれ。こういう展開かよ」
「足腰とぶつかりって言ったら、名門同士じゃねえか」
「二度と見れねえぞ。こんな名勝負!」
大学生を中心に大盛り上がりをみせる野次馬達。何やら一体感が出てきた。
* * *
「ユカ、あんた、お兄ちゃんに何か言われたでしょ! 言いなさい!」
涼子が泣いている結花を問い詰めた。
「分かんない。分かんない」
「泣いたってダメよ。おかあちゃん、本当に許さないよ!」
結花を激詰めする。
お、お、お兄ちゃん吉田先生と、おっきいオジサンやっつけるって。おかあちゃんを助けるためだって。おかあちゃんがいじめられてるからだって・・・。と、結花が泣きじゃくりながら、やっと喋った。
「吉田先生って、学校の?」
「うん」
「どっち行ったの?」
「あっち」
と、結花が指をさしたのは少し遠くにある吉田先生が座っていた階段だ。その向こうでは、人だかりが出来て何やら大騒ぎになっている。
涼子は結花の手を引いて、ノボリを持って、全速力で走って向かった。
* * *
大久保と吉田の対決は取っ組み合いの様相になり、組んず解れつ転がり回っている。
野次馬連中は相変わらず咆哮しながら、世紀の名勝負を観戦している。
誰かが気付いた。
「おい見ろ、何故か、たこやき屋が走ってやって来たぞ」
『たこやき・たこやき・たこやき』と書かれたノボリが遠くからどんどん近づいてくる。涼子が左手で結花の手を引っ張り、ノボリは右手で握って肩に担いで走ってやって来た。
「バカ、あれはたこやき屋じゃないぞ」
「じゃあ、なんだ?」
「よく見ろ。美人だぞ」
「しかも子連れだ」
「子連れ美人。だ」
しとしとピッちゃん。しとピッちゃん ―― 誰かがつむいだ。
美人で、子連れで、たこやき屋のノボリを担いで走ってきた涼子の姿は、誰の目にも異様に映った。映画『十戒』のように、群衆が割れていく。
どいてくださ~い。と、涼子がやって来た。翔太を見つけ、しょうた!って叫んで、結花を翔太に預けた。そこで待ってなさい。と一言いって、寝っ転がって、取っ組み合っている大久保と吉田を、ノボリでバサバサバサバサと叩きはじめた。
――やめて下さい。やめて下さい。やめて下さい。
大久保と吉田は突然現れた涼子に止められてびっくりした。
「こっちは学校の先生で! こっちはお巡りさんですよ!」
「えっ?」
と、大久保と吉田、お互いの顔を見合わせた。
涼子はノボリを投げ捨て、翔太に近寄った。
「こっちへおいで」と言って、結花を翔太から引き剥がす。
結花は涼子の後ろに回ってしがみついた。
「翔太! 今度は何やったの?」
と、問い詰めた。
「何やったの!」
右手を思いっきり振り上げて、バシン!と、ビンタをぶち込んだ。
翔太の鼻から血が一筋。
涼子は膝から崩れて、翔太をぎゅっと抱きしめた。
「なんて事してくれるの・・・あんたは」
そう言って、号泣した。
第17話 終




