53 温かいおしぼりは罠だ気をつけろ!
「おそろいみたいですから、お料理お出ししてよろしいかしら?」
小桃に声をかけてきたのは、詰襟の学生服みたいな襟のシャツの袖を捲くり上げ、ベストを重ね、エプロンをした三十代後半くらいの女性だった。
「あ、はい! お願いします」
小桃の返事を待ち受けていたように、ウェイターさん(たぶん娚だ)と、制服の上着を脱いでエプロンを締めた陽が、きれいなガラスコップに入った氷水と細長く丸めたハンカチサイズのタオル(おしぼりっていったっけ?)を配り始める。
あらためて、俺は店内をぐるっと見回した。
紅黄陽の自宅であり、親が経営しているという『洋食マリーゴールド』。
そこは、某国営放送局の、クラシック音楽をバックにその曲にゆかりの地で撮影した映像を流す番組に登場するようなヨーロッパの街の風景の中にある、小さなレストランそのままだった。
客席もあまり多くない。六人席が二つと四人席が二つ。そして、カウンター席。
前に行ったことがあるファミレスを、一回り小さくしたような感じだ。
店長らしき年かさの女性と娚のウェイターさんがひとり。そして、陽。
すでに配膳されるばかりになっている料理が載ったカウンター越しに、チラリと見えた厨房のなかの人…おそらく二人くらいのようだ。も、娚っぽい。
俺が小桃に手招きされて座ったテーブルは四人がけで、俺の右隣に小桃。向かい側に楓、小桃の向かいに胡蜂さんが座っている。
そして、俺たちのテーブルの左隣、四人がけのテーブルに三組の香取さんと鹿島さん。一番奥の大きなテーブルに俺が知らない女子たちが。俺たちのテーブルに近いカウンターに美洲丸と三組の女子……たしか、子ノ日さんっていったっけ……が座っている。
ああ、あと、美洲丸が連れて来た仔猫だが、俺の足を甘噛みしている。
ふと、店長らしき唯一の(あくまでも現時点でだが)女性スタッフと目が合う。
やさしい微笑をたたえたその瞳の色は、温かで安心できる人のものだった。
(ああ、みさこお姉さんと同じ目だ)
俺はつい一昨日の朝まで世話になっていた施設のスタッフのお姉さんを思い出していた。
そんな俺の不躾な視線に、その女性は気を悪くしたようなそぶりもみぜず、小首をかしげウィンクを返してくれる。
俺は慌てて会釈をする。
この女性は『竜洞生徒』の知り合いか? ……って、ことは、この人が陽の母親か。
(なるほど……な)
元いた世界の陽とは真逆の陽。それを育てたのが、施設のスタッフのお姉さんと同じ眼の色をしたあの女性なら、こっちの世界の陽のあの天真爛漫さも納得だ。
「ははっ、母さん、あにきが来たもんだから、すっごい上機嫌だぁ」
陽が店長らしき女性の方を見て、母さんといった。
ああ、やはりあのひとが、こっちの陽を産み育てた人か。
「はい、おしぼりどうぞ。ちょっと熱めだから気をつけてね」
手馴れたしぐさで、陽がおしぼり(やっぱり、おしぼりでよかった)を拡げて、受け取ろうとした俺の手にふわっと掛けてくれる。
陽が言うように確かに熱い。
たしかに熱いが、それはちょっとクラクラするくらいの心地よさを伴った熱さだった。
熱い風呂に入ったときのような……。
行ったことないけど、温泉ってこんな感じなんだろう。きっと。
「あにき、そのようすだと、この店のことは忘れちゃってるね? あにき、ここに来るたびに、地中海沿岸地方の名店が、そっくりそのままここにあるみたいだって言ってたんだよ。ボクとしては、経営者の趣味丸出しで恥ずかしいんだけどね」
自虐的なセリフと真逆の笑顔で鼻息も荒く陽は「ふんす!」っと、胸を張った。
予想はしていたが、この店に『竜洞生徒』はよく来ていたようだ。
それに、陽の話から推測すると、どうやら、陽の母親とも良好な関係を築いていたようだった。
(……にしても、あったけぇ! おしぼりすげぇ。これで、顔拭いたら気持ちいいだろうな)
「そうか。俺はこういう雰囲気好きだぞ」
携帯できる温泉がそこにあるように温かいおしぼりに感動していた俺は、声が少しうわずる。
「へへへっ、ありがとうあにき」
見回すとみんなはこれで、手を拭いている。
そうだよな、普通はそうだよな。食事前だからおしぼりで拭くのは手だよな。
「あにき、顔、拭いたほうがいいよ。さっきの汚れがついてる」
え? いいのか? これで顔拭いていいのか?
「そ。そうか。なら……」
俺は、熱いオシボリを顔に当てる。
(むっはーっ! 気持ちいいいいいいいいいっ!)
その官能的ともいえる心地よさに、全身の毛穴が開くような錯覚に襲われる。
顔面をゴシゴシと拭いて、熱を失い冷めてゆくおしぼりに一抹の寂しさを感じながら耳の後ろ、首の後ろも拭く。
「んはあっ!」
熱いオシボリで顔やら首やらを拭きまくって、すっかり気分がよくなった俺だったが、周りから投げかけられる冷たい視線にゾクリとする。
「も、もう、たっちゃ……もとい、竜洞君ってば、中年の、おじさんみたいだよぅ!」
小桃が顔を真っ赤にして困惑顔をしている。
「いやぁ、その気持ちはわかる。わかるけどねー。ここでソレは、マジ引くわ」
楓がこめかみをおさえ首を振る。
「竜洞くん…………。そんな…です。おとーさんみたいなこと……」
香取さんは、ツチノコでも見たかのように眼鏡の奥で目を見開き。
「やっだぁ……まじぇ? オヤジじゃん」
鹿島さんが生ゴミを見るように眉をひそめる。
「………………」
そして、美洲丸は呆れたように口をへの字に引き結んでいた。
や、やっぱり、やっちゃだめなことだったんじゃねえか!
あのヤロー!
俺は、陽を探す。
厨房へ入ろうとしていた陽は肩越しに俺を振り返り、チロリと舌を出して笑っていた。
やりやがった。おしぼりで顔を拭くことが、顰蹙もんだってことを知ってて、顔を拭くように薦めやがったな。
「ふふふっ」
だが、俺の口から出たのは笑いだった。
「うふふふふ」
あの陽が……。無気力な暗い眼で全てを疎んでいた陽が……。
いや、別人だということは理解している。だけど……。
「あはははは」
声をひそめるつもりがうまくいかない。
「な、なんだよ、辰哉ってば。みんなのジト目に耐え切れなくなって、おかしくなったか?」
楓が心配そうに身を乗り出し、俺の額に手を当てる。
「か、楓のばか、マジ引くなんていうからだよぅ。ね、たっちゃん、ね、みんな、ね、悪気、ね、ないから、ね」
小桃も慌てて俺を気遣う。
「うくくく、すまん。だいじょうぶだ。あと、無作法なことをして申し訳なかった。どうやら、こういう場での振舞い方もすっかり忘れてしまっているみたいだ。本当に面目ない」
頭を下げる。
「そ、そんな、竜洞くんが謝ることじゃないのです。元はといえばわたしのせいなのです。わたしが駅のホームから落ちかけたのを助けたりしなければ……」
香取さんが今にも泣き出しそうな声でかばってくれる。
「辰哉ぁ、あたしは、そんなオヤジ臭い辰哉の方が、むしろ好きだからな!」
いつの間にか再び楓が俺の背後に遷移して、耳に息を吹きかけながらささやく。
例によって背中にゴム毬のような弾力でマシュマロのように柔らかなモノがふたつ押し付けられ、ぽよんぽよんと弾んでいる。
「くぁ~えぇ~でぇ~っ! キミってヤツは~っ!」
すくっと小桃が立ち上がり、楓をにらみつけ、腰を落とす。
「ふふふん、じょうとうだぁっ! 今日こそはっきりさせようじゃない!」
楓も腰を落とし、両の手を小桃に向かって差し出す。
「望むところっ! かなっ!」
小桃が応え、手四つを組もうとしたそのとき、涎が大量に口の中にあふれてくるようないい匂いと共に陽が厨房から姿を現した。
「あれあれぇ。あにきに忘れ去られてたひとたちがプロレスを始めてるぅ」
両手に料理が盛られた皿を持って、陽があからさまな嫌味を吐いた。
「ぬ!」
「うむうっ!」
今、まさに、手四つを組もうとしていた小桃と楓が、家臣に痛いところを突かれた殿様のような顔で陽をにらむ。
「陽! てめっ!」
「そ、それはないんじゃないかなぁっ! 陽くんッ!」
「ふっふ~ん! 小桃姉に楓姉は誰かと見間違われたんだっけ? あにき、一目でボクの名前を呼んでくれたけどな~。うぷぷぷっ」
大皿の盛り合わせ料理をテーブルに置きながら、陽は小桃と楓に優越感がこもった視線を照射する。
「ぐぬぬぬぬぬっ!」
「むむむむぅ!」
言い返せずに歯噛みする小桃と楓の怪光線でも発射しそうな視線をかわし、陽は実にプロフェッショナルな挙動でテ-ブル間を移動して料理の皿を据えてゆく。
「はぁい、まずは当店自慢の前菜の盛り合わせとシーザーサラダをどうそ! もっとも、ウチの料理はぜーんぶ自慢だけどねっ!」
そう言って、陽は茶目っ気たっぷりにウィンクを飛ばしたのだった。
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