38 ベレーの小粋な被り方
「はち!」
「はち!」
「きゅう!」
「きゅう!」
な……、何でこんなことになっている?
俺の目の前で夏期体操服姿の楓が、長門教官の号令の下、腕立て伏せをしている。
楓にとっては、これくらいの腕立て伏せなんか、なんと言うことはないのだろう。息ひとつ乱さず淡々とこなしている。
だが、これはおかしい。間違っている。
「はち!」
「はち!」
くそ、まただ。
「なな!」
「なな!」
さっきから、この調子で、「じゅう」を数えることなくカウントダウンを始め、「いち」まで戻って再びカウントアップする。
かれこれ、それを五往復くらいやっている。つまり九十回だ。
だが、この腕立て伏せを楓がやるのは筋違いもいいところだ。
今、楓がやらされている腕立て伏せを、本来していなくてはいけないのは、俺だからだ。
「いち!」
「いち!」
「にぃ!」
「にぃ!」
楓が腕立て伏せをしている間、俺が何をしているのかというと、キヲツケをして、まっすぐ前を見ていた。視線の先には校舎の窓がある。
腕立て伏せをする楓を見守ることすら許されず、キヲツケをして、校舎の窓をにらむことしか、俺には許されていなかったのだった。
※※※※※
時間はそこから一時間強戻る。
目が覚めると、ロボ梓は俺の部屋から居なくなっていた。
隣の部屋で自己診断及び自己修復、それと充電をしているのだろう。
時計を見ると五時少し過ぎ。
ベッドから降りると部屋のドアがノックされ、朝の挨拶と共に、メイドさんたちが歯磨き洗顔用道具を載せたワゴンを伴ってなだれ込んで来た。
頼み込んで歯磨き洗顔を自分で済ませると、待ってましたとばかりに伊香鎚さんたちが俺のパジャマを脱がしにかかる。
……以下略。どんどん大事な何かが失われていくような気がする。
用意してもらった朝飯をいただいて、6時11分の電車に乗るために5時40分位にはここを出ようと考えている。
駅まではここからだと徒歩で15分くらいだから、5時50分に出ればじゅうぶんに間に合う。が、余裕を持って行こう。
実は、学校の前までバスが通っていて、そっちの方が、指定された時間の十分前に学校前のバス停に到着するし、もっと寝ていられるのだが、せっかく定期券があるのだから、指定の時間よりもかなり早く到着することになってもそっちの方が、もったいなくない。
ちなみにだが、『竜洞生徒』ほどの金持ちが、自家用車による通学をしていなかったのは、校則で禁止されているからだそうだ。だもんで、さすがに過保護な『竜洞生徒』も電車通学だったようだ。
もっとも、ほとんどの良家の子女は、学校の最寄の駅に電車の到着時間に合わせて自家用車で来て、そこから、学校まで歩くか、バスに乗るかするんだと。
「お坊ちゃま、いつも申し上げておりますように、せめて、学校の最寄駅までの送迎はお許しいただけませんでしょうか?」
と、鳳翔さんが次元が違う旨さの朝飯の鮭の味に驚いていた俺に言ってきたので、丁重に断りつつ、そこいらの事情を聞いてみたら教えてくれたのだった。
「じゃあ、小桃や楓も普段は学校の駅まで家の車ですか」
と、聞いてみたら、
「楓お嬢様や小桃お嬢様も、お坊ちゃまと同じ電車通学でございます」
だ、そうだ。
小桃と楓の家はこの竜洞家の屋敷の両隣だそうだ。
ここのお屋敷の両隣ってことは、両家とも、けっこうな金持ちのはずだ。
昨日や一昨日の散歩で、わかったことだが、元の世界で俺と梓そして小桃が住んでいた三丁目は、こちらの世界では大半の土地が、竜洞、信濃、大和の三家で占められていた。
俺の世界では千数百人は居住者がいたはずだが、その人たちはこっちではどこにいるのだろう。
そんな風に、元いた世界と様相ががらりと違っていた町並みだったが、元いた世界で俺たち兄妹を可愛がってくれていたおばちゃんの商店が健在だったことは、嬉しかった。
っと、話が横道にそれてしまった。
まあ、そんな風な金持ちの楓と小桃がなんで、『竜洞生徒』と同じ電車通学なのか疑問だが、まあ、それは今度本人に聞けばいいだろう。
それにしても変わってるな『竜洞生徒』は。
俺なんかと違って、生まれた時からの大金持ちだ、しかもお貴族様だ。
自家用車での送り迎えなんて、呼吸するように当たり前のことなんじゃないのか?
俺は、あの黒塗りの車での送り迎えなんて、ケツがかゆくて仕方ないからよっぽどのことじゃなければこれからも遠慮しよう。
印南さんの仕事を、ひとつ奪ってしまうことになって申し訳ないが……。
「では、せめて、乗車駅までは……!」
と、土下座するような勢いで鳳翔さんが言ってきたのでしぶしぶ了解した。
制服に袖を通し……。あ、そうだ。リャクボウだった。一昨日は確か登校時も帰ってきたときも制服以外身に着けてなかったからな。
リャクボウって一体何だろう?
「あ、あの、リャクボウって……」
「はい、ご用意しております」
瑠弩美さんが恭しく差し出したそれは、ベレー帽だった。待雪の家で見せてもらった映画で詩人みたいな名前の主人公の元上官という鱒みたいな名前の軍人が被っていたやつに似ていた。
色は黒に近い濃紺で、校章(だと思う)のワッペンみたいなのが縫い付けられている。
受け取って、頭に載せる。
帽子なんて、小学校の体育の時間の紅白帽子しか被った事がないから、後ろ下がりの阿弥陀にだ。
皆さん、顔を真っ赤にして俯いたり頬を膨らませたりした。
ああ、やっぱりこの被り方は、ギャグ以外のなんでもないんだな。皆さんのこの反応だときっと、酔っ払いの頭ネクタイと同レベルなんだろう。
「坊ちゃまの冗談のセンスには、まさに脱帽でございます。ですが、さすがにそれでは、教官殿に怒られてしまいます。罰直ものです」
鳳翔さんがベレーを取り、俺の頭に載せ直す。すかさず伊香鎚さんが鏡を俺に向ける。
鏡に映った俺は、あの映画の大佐みたいだった。
「ああ、なるほど」
「そして、こう被るのと小粋な感じになるんですよ。ベテランの下士官はみんなこうして小粋に被るものなんです」
「あ、たいちょ……、鳳翔さん! そん……」
伊香鎚さんが慌てた様子で何かを言おうとしたが、鳳翔さんはそれを手で制して、俺にウィンクする。
「はい、とってもお似合いですよ坊ちゃま」
と、ほんの少しだけ、右に傾ける。
「うわ、本当だ」
少し傾けただけで、雰囲気がガラッと変わった。
まるで、海千山千のベテランの軍曹みたいな雰囲気だ(ベレー帽が醸してる雰囲気だけな。目から下は腑抜けた間抜け面であることには変わりはない)。
「兄様のベレー姿は、垂涎モノ。その素敵さは比肩するものがない」
ロボ梓がわけのわからないことを言いながら階段を下りて来た。
「おはよう梓。行ってきます」
「行ってらっしゃい。兄様。今日は土曜日、学校は午前中だけ。お帰りになったら、む、ふ、ふ、ふ」
ロボ梓は妖しげな微笑を浮かべる。背筋が少し冷える。
「では皆さん、行って来ます」
「「「「「「行ってらっしゃいませ」」」」」」
メイドさんたちの声に送り出されて、俺は乗車駅まで印南さん運転の自家用車に乗せてもらったのだった。
「あれぇ! 辰哉じゃん。めずらしいなあ。こんな早く来るなんて」
電車の中で声をかけてきたのは楓だった。
「ああ、おはよう楓。今日は7時に長門先生のところに行くことになってるんでな」
ん? よく見ると、こいつにも目の下にクマができてる。顔色にも精彩が足りない。一昨日、小桃を手伝うとか何とか言ってたな。昨日の小桃はもっとひどい有様だったが。
「おはよう。なんでまた?」
元いた世界の楓とは真逆のグラマラスな胸を揺らしながら、俺に駆け寄ってくる。
「ほ、補習だ。ええ……と、キホンキョウレンからボウエイキソガクをおさらいするんだと」
「基本教練? うへえぇ。長門の基本教練かぁ……」
うわ、その顔色でそんなこと言うな。嫌な予感しかしない。
「それより、お前、朝練大丈夫か? 顔色悪いぞ睡眠不足だろ?」
女子高生がこんなに早く登校するのは、部活以外ないだろう。一昨日、普段から早出してるみたいなこと言ってたしな。
「うわあぃ、うれしい! 辰哉が心配してくれたぁ!」
突然、どんよりと精彩を欠いていた顔が、ヒマワリの花が咲いたような笑顔に豹変した。
「ぅおっ!」
その豹変っぷり驚いて、数センチ後ずさる。一昨日、いきなり抱きついてきて、胴締めを食らわされたことを思い出したのだ。
さすがに人気がない始発電車とはいえ、公共の場では一昨日の学校のようにいきなり抱きついてくるなんてことはしなかった。一応、そこいらへんの常識はあるようだ。
その代わり、顔を真っ赤にして大きな仔猫を思わせる目を潤ませ、身を捩って悶え、喜びを表現している。
おい、『竜洞生徒』貴様、どんだけ楓をぞんざいに扱ってたんだ? 牛の大腿骨をもらった犬みたいに喜んでるぞ。いや、マタタビを服用した猫か。
「うふふふふぅ、あたしなら大丈夫ぅ。今日、家に帰ったらいっぱい寝るから」
「そ、そうか、今日は半ドンだったよな、授業中、居眠りすんなよ」
俺は、何気なく言ったつもりだったが、楓は目をかっと見開いて食いついてきた。
「うんっ! うんっ! あたしがんばるよ! 辰哉に励ましてもらったんだもん。死んでも居眠りなんかしないから!」
いや…な、そこまで意気込むほどのことじゃないだろ。
ってか、これって、アレだよな。『好きな男子にかまわれて嬉しい、恋する女の子』のテンプレのリアクションだよな。
俺の何気ない一言に対する楓のこの反応や、昨日の小桃の行動…わざわざ風呂に入って身だしなみを整えてまで、再び俺に会いに来たり……。
こんだけ魅力的な女子たちと『幼馴染みと恋人同士フラグ』立てまくって、『竜洞生徒』は何をしていたんだ?
無視してたり、虐めてたりとかしてなかったのはわかる。むしろ、普通に接していたに違いない。
そう、普通の女子として接してたんだろうな、きっと。挨拶以外に言葉を交わさないようなクラスメイトと同じような接し方をしていたんじゃないのか?
こんなにかわいくて魅力的な女子たちが、すぐ傍にいるくせに、他のどっかの誰かに恋をしていたとでもいうのか?
つくづく贅沢なヤツだな『竜洞生徒』は。
毎度ご愛読誠にありがとうございます。




