12 妹、梓の親友
「坊ちゃま、お加減がよろしくないところ恐縮でございますが、鈴縫響様が坊ちゃまの急を耳にされ、おいでになって居られます。ただ今、鈴蘭の間でお待ちいただいておりますが、お会いになられますか? お会いになるのが無理でございましたら、響様はお宅までお送りさせていただきますが……」
玄関ホールを正面の階段へと歩きながら鳳翔さんが『竜洞生徒』への来客があることを告げてきた。
「すずぬいひびき……さん?」
「はい」
聞き覚えのない名前だ。前の世界でも俺の知り合いにそんな名前のやつはいなかったと思う。
正直いって、今日はこれ以上人に会うのは面倒くさい。早く眠りたいことこの上ない。
(くそ、ゆっくりと憂鬱な気分に浸りたいんだがな……そんな暇くださらねえッてか?)
漫画だったかラノベだったかで、自衛隊の秘密特殊部隊で戦友の死に直面した隊員に次々と仕事を与える上官ってシーンがあったな。その兵隊、ボヤキながらも次第に戦友を亡くしたショックから立ち直っていったっけ。
確かに、ゆっくりと今日の出来事を振り返りつつ、頭の中を整理整頓したい気分ではある。
だが、楓と小桃が帰ってしまって、知らない場所にぼっちで取り残された寂しさがジワジワと背中にのしかかってきてヤバイ。
知っている人間が俺の前からいなくなってしまった心細さで、膝がポメラニアンのようにプルプルと震え始めてる。
「あのぅ、ほうしょ……絢さん。変なことを聞くと思ってください」
「はい?」
「楓と小桃の家って近いんですか? あ、その、さっきも言いましたけど、俺、頭ぶつけたショックでちょっと記憶が混乱してて……あいつら、さっき歩いて帰って行ったから……」
鳳翔さんはにっこりと微笑んで、コクリと頷いた。
「はい、それはもう、極々近傍でございますとも、坊ちゃま。当家の向かって右隣が信濃様。左隣が大和様でございます。ご両家とは、先々代様の代からのお付き合いでございますよ。両家と当家の境には林があるだけでございます。門を通らなくとも行き来できるようになっておりますよ。特に、坊ちゃまとご両家のお嬢様方は、生まれ年が同じということもあって、本当に幼い頃から仲良くされておいでです」
なんと、小桃と楓が両隣だったとはな。両手に幼馴染ってヤツか。すげえな『竜洞生徒』、いよいよもってうらやましさが特盛りだ。
「あと、その、すずぬいひびきさんて方なんですけど……」
「はい、鈴縫様は……」
鳳翔さんは眉を顰め少し言いよどんだが、意を決したように表情を一層柔らかくして言葉を続ける。
「梓お嬢様のご学友であらせられました。お嬢様と大変仲良くされておられまして、当家へも、何度も遊びにおいでになって、坊ちゃまも交えて大変仲良くされておいででした」
ふむ、どうやら、すずぬいひびきさんという女の子は、こちらの世界の梓の親友らしい。
梓の友達……。『俺』の記憶にないこちらの世界の梓の友達。もう、死んでしまっている『竜洞生徒』の妹の親友。
(こっちの世界の梓の話が聞けるんだろうな)
まさか、こっちの世界の梓が死んでいるとは思わなかったからな。
ひょっとしたら、中学に上がった妹、梓と一緒に生活ができるかもしれないって、ちょっと期待してしまってたからな。元の世界じゃ、妹は隣の県に養女に行ってしまったから……。
正直言って、生きる意欲が半端なく削がれてしまっている。
いや、正確にはこっちの世界の梓は『俺』の妹じゃない。『竜洞生徒』の妹だ。
だから、別に『俺』にとっては『竜洞生徒』がそうであるようにその妹も他人に等しいんだが……。
だが、この体は間違いなくこの世界の竜洞辰哉の体で、俺と同じ竜洞辰哉の名前で呼ばれている。
体つきは元の俺よりも逞しいけれど、元の俺と全く同じ顔だ。
だから、その妹……元の世界の俺の妹と同じ名前の梓が死んでたなんて、やっぱり、他人事には思えない。かなりの精神的ダメージをくらってしまっている。
梓が死んでるって聞いて気を失っちまったくらいだからな。
(生き返らせてくれないかな……こっちの梓……)
俺をこの体に転生させたのが、神様ならそれくらいのことしてくれたっていいと思うんだが……。
そしたら、こっちの世界で『竜洞生徒』として生きていくことの励みになるってもんじゃないか。
下衆なことは重々承知だが『竜洞生徒』のこの環境、前の俺の人生と比べたら……なあ……。
こんな恵まれた環境で梓と一緒に暮らせたらどんなにか幸せか……。
「すずぬいひびきさん……か」
こっちの梓が、どんな女の子だったかを聞いてみたい。
そういえば、元いた世界でも、梓の同級生で同じ靴下をお揃いで履いたり、同じデザインの文具をお揃いで使ったりしてた子がいたっけ。
好きな魔女っ子アニメや特撮の変身ポーズとか一緒にやってたりしてたな。
「お会いしましょう」
「はい、ではそのように」
と、その前にうがいと手洗いが優先だ。
「あのぅ、洗面所はどこでしょうか? うがいと手洗いをしたいので」
「うがい……ですか?」
鳳翔さんは明らかに訝しんでいる。
だ、が、身についた習慣だ、簡単にはやめられない。それが習慣というものだ。
施設のガキどもにインフルエンザやら麻疹やらの病気をデリバるわけにはいかなかったから、うがいと手洗いは徹底的に習慣付けられた。
抵抗力の弱い子供の集団生活だ。たったひとりの不注意が、大惨事に発展する可能性が常にあったからな。
「伊香鎚、印南、坊ちゃまを洗面所にお連れして。その後、鈴蘭の間に……」
鳳翔さんが、俺達の後ろで控えていたメイドさんに指示を与える。
と、同時に、耳に指を当て、どこかに通信して始めた。耳に超小型のヘッドセットをつけていたのか。
「厨房か? 鈴蘭の間にお茶のお代わりと、お茶うけをお持ちするように。何? 坊ちゃまのお茶が切れてるだと? そうか、そうだったな」
鳳翔さんが、俺に向き直り、深々と頭を下げる。
「申し訳ございません。坊ちゃまの茶葉が無くなっておりまして……、はい、実は、昨夜坊ちゃまがお召し上がりになられましたのが、最後の一ポット分でございました。坊ちゃまが学校からお帰りになるまでにご用意できればよいと、私が指示いたしておりまして……」
「ああ、大丈夫ですよ。紅茶なんて、俺、分からないですから、安いティーバッグのヤツで十分です。むしろ、紅茶よりコーヒーがいいくらいです。一番安いインスタントの……」
俺がそこまで言うと鳳翔さんはガバッと顔を上げ、その凛々しい瞳をウルウルと潤ませ、目の幅で滝のように涙を流して叫んだ。
「おぶぉっぢゃばあああああああッ、なんでいうぼっだいだいおごどばぁッ! ごのぼうじょうあや、ばんがんのおぼいでごだいばずうううううッ!」
後ろでメイドさんもエプロンドレスの端で目尻を拭っている。
「てか、さ、洗面所にお願いします」
「グスッ、は、はひ、そうでした。伊香鎚、印南、お坊ちゃまを洗面所へ……」
「はい、お坊ちゃまこちらへ……」
「ご案内申し上げます」
俺が洗面所で何をするのか、不思議そうな顔をしているメイドさんに案内されて、洗面所へ行き、うがい手洗いを済ませ、鈴蘭の間とやらに案内してもらう。
『竜洞生徒』には、手洗いはともかく、うがいの習慣はなかったようだ。
そして俺は、玄関の扉と比べても遜色のない立派なドアの前に立った。
確か、鈴蘭の間って言ってたよな。ってことは他にも花の名前を冠した応接室みたいなのがあるのか?いや、あるんだろうな。
「響様。辰哉様がおいでになりました」
メイドさんが中に声をかけ、ドアを開ける。
そこには……。ああ、この応接室もまた、俺の常識を軽ーく凌駕してくれていた。壁にかかっている風景画もテーブルもソファーも、全てがテレビの中、漫画の中の存在だった。
「こ、こんにちは、おかげん、いかがですか? せんぱい」
そこに、梓と同い年くらい……同級生だから当たり前か……の女の子がいた。
(ん? 先輩?)
妹と同じ年頃の少女から発せられた先輩という呼称に俺はいささか違和感を感じたのだった。
お読みいただき誠にありがとうございます。
2020/07/09メイドの名前伊波を印南に修正しました。




