話し合い
うまく説明できたかどうか、わからない。
ただ葵さんは、静かに、黙って聞いてくれていた。
話し終えると、沈黙が続く。お茶はすっかり冷めていたけど、あたしは思わずそれを飲んだ。
「――つまり、こういうこと、か? 寛さんを含むおまえたち3人が、私と日向さんをけしかけようとしている、と」
「まあ……」
間違ってはいない。そして、日向さんはそのことを知らない。それはしっかりと伝えた。
「しかも、私と日向さんがその……お互いに慕ってる。だから、寛さんはけじめをつけてほしいということで、明後日約束を取り付けた、と」
「……はい」
なんだか、とても悪いことをしてしまったような気持ちになる。あたしは身体を固くした。
葵さんは腕を組み、息をついた。
「――おまえの言うとおり、確かに私は……日向さんを慕っているんだと思う。彼の気持ちはわからないが、な」
ほんのり、頬が赤くなったような気がした。
なんか、可愛い。そんなふうに思ってしまう。
「仮にもし、彼が同じように私を慕ってくれていたとしても、私は彼とどうこうなる気はない」
伊集院さんが言っていたとおりだ。
「生きていく、というのは、気持ちだけでは動けない。気持ちだけでは、どうにもならない」
葵さんは、背を向ける。凛としているはずなのに、少し淋しそうに見えるのは、なぜだろう。
「けれど……」
ゆっくりと、ふり返った。
「寛さんとおまえたちの気持ちは、汲もうと思う。明後日は、予定通り行くことにするよ」
葵さんは静かに口にする。
とても、落ちついていた。
自分の気持ちに自信があるのだろう。本当の気持ちと、役割としての自分。どちらも動くことはない、乱されることはないと、わかっているのだ。
「……じゃあ、せめて、これを着ていってください」
あたしはやや迷って、ワンピースを手にする。
「葵さんが本当に揺るがないのであれば、どんな格好をしていても変わらないでしょう?」
試すような口振りで、ワンピースを差し出す。彼女にとてもよく似合う色。きれいな色だ。
「これ、を……?」
葵さんは受け取り、ワンピースを凝視する。さっきとはまるで違う、別人のようなまなざしだった。
「一度きりなのであれば、本当に着たいものを着て、出かけたっていいと思います」
あの時、この服を見たとき、本当はわかっていた。彼女がこれを、気に入っていたこと。そしてそれは、彼女に似合うものであること。
「ね、葵さん」
あたしは鏡の前で、ワンピースをあてがう。葵さんの瞳が、わずかに揺れた。
本当に、彼女の心が動くことはないだろうか。
頭で考えていることと、感じることは違う。実際に行動を起こしてみると、それがわかるような気がするからだ。
葵さんの瞳は、まだ揺れている。潤んでいるようにも見える。彼女はやや伏し目がちになり、俯いて、首をふった。
「……これを着て、彼とともに出かける。それはとても、しあわせなことだろう。想像しただけで、あたたかな気持ちに包まれる」
けれど、と、葵さんは付け加える。
「やはり、それはできない」
「……なぜ?」
あたしは、静かに訊いた。
なんとなく、わかっていた。
葵さんが何を考えて、そう口にしたのか。そしてなんとなく、わかっていた。彼女があたしに、何を告白するのか。
「……私には、その資格がない」
葵さんは、自分の帯に手をかけた。
するすると、外されていく。葵さんの着ているものが、一枚ずつ。そっと、音もなく。
あたしは身じろぎすることもなく、軽く手を握ったまま、胸のあたりに置いていた。
「……母の、話はしたな」
葵さんは脱ぎながら、言葉を挟んでいく。彼女の声はまるで鈴のようだった。切なく、淋しげで、耳に残る。そっと、そっと。
もう、聞くことができない声かもしれない。そう思うと、胸のあたりに、こみあげてくるものがあった。
「母は精神を患い、今の家に来た。そして、そのまま亡くなった」
葵さんから、直接聞いている。でも蓮君からも聞いていることがあった。
そう、亡くなり方だ。
「……表向きは焼死、ということになっているが、実はそうではない。母は……私のせいで死んだのだ」
火事で、亡くなった。
でも実際には違う。
火をつけたのは、葵さんのお母さんだった。
「母はあの家に来ても、一向に良くならなかった。それどころか、追いつめられていた。いや、追いつめたのは私だ。母は徐々に、私の顔を見ることもできなくなっていった」
衣擦れの音が、ゆっくりになっていく。あたしは目を逸らさずに、じっと、その様子を見ていた。
「私は、それでも諦めなかった。諦めることができなかった。母の傍にいること。母に、声をかけること」
葵さんが背を向ける。背中が、あらわになった。
見えたのは、傷だ。跡、といったほうがいいかもしれない。
「あの日も、同じだった。私は夜、母に声をかけに行った。するとその日に限って、母は私に頼みごとをした」
蝋燭の灯りがほしい、と。
ゆらめく灯りが見たい、と。
「……あまりいい予感は、しなかった。けれど母が私に頼みごとをしてくれたのがうれしくて、私はつい、それを部屋に持っていったのだ」
いざとなれば自分が消せばいい。そんなふうに思って。
「母はぼんやり、灯りを見ていた。どれくらいそうしていたのか、わからない。そして私を見て、にっこりと微笑んだのだ」
そして、言った。
さよなら、と。
「母は火を、自分の身体に落とした。火は、一気に燃え上がり、母の身体を包んだ。私は、動くことができなかった。気がついたら周りは火の海となっていた。私は母に手をのばした。それこそ、必死で。けれど、手はとどかなかった。そして残ったのが、これだ」
それは葵さんの肩から腰にかけて、広がるように伸びていた。ぼこぼこと皮膚がまだらになっていて、痛々しい。
目を、逸らしたくなった。
でも、したくなかった。
あたしな呼吸を調えると、葵さんの背中にそっと、手をのばす。
「葵さんは、これがあるから、この傷があるから、自分は、幸せになっちゃいけない。幸せになる資格がないと言いたいんですね」
傷が指先に触れても、葵さんは何の反応もない。揺るぎなく、そこに立っている。
「……そうだ。罪人である私がなぜ、幸せになれるだろう。いや、なってはいけない。私のような人間は、望んではいけないのだ」
「……だったら、あたしもそうです」
あたしは、そっとつぶやいた。
「え?」
葵さんの背中が、わずかに動く。
「……葵さん、葵さんはあたしも、幸せになる資格がないと思いますか?」
触れる面積を、そっとそっと広げていく。
「ーーどういう意味、だ?」
「そのままの意味です」
葵さんがゆっくり、ふり返った。そして、あたしを見る。
「……あたしの母は、あたしのせいで亡くなりました。あたしはずっと、そのことを気にして生きてきました」
ちゃんと口に出すのは、初めてのことかもしれない。今までずっと、考えているだけ、感じているだけだった。
「あなたがもし、自分に幸せになる資格がないというなら、あたしにもありません。ここにいる価値もないです」
「――何を、言っている」
葵さんの声が、かすれる。少し混乱しているようだった。
「だって、そうじゃないですか。葵さんもあたしも、自分のせいで母親が死んだ。その事実に変わりはないです」
ふしぎと、声は落ちついていた。
「――もう一度聞きます、葵さん。あなたは私も、幸せになる資格はないと思いますか?」
彼女が身体を引き、怯んでいるのがわかる。あたしは一歩、前に出た。
今度はあたしが、追いつめているんだろうか、と思う。
本来ならありえないはずの光景に、ほんの少し、笑みがこぼれる。
「――私、は……」
あたしはもう一度、ワンピースを差し出す。
葵さんの瞳が、潤んでいる。あたしはさらに、一歩前に出て、ワンピースをその手に引っかけた。ほとんど、無理矢理だった。
葵さんは、ワンピースに顔をうずめる。
「――私、は……」
顔をあげて、あたしを見る。
「おまえには、笑顔でいてほしい」
あたしは、笑った。そして一言、口にする。
「……あたしも、同じです」
瞳にはわずかに、涙がにじんでいた。
部屋に戻ると、真っ暗だった。
ぼんやり見えるのは、蓮君だ。窓のそばで、頬杖をついていた。
「……あ」
気がついたのか、こっちを見た。
今さらだけど、やっぱり似てると思う。クラスメイトの鶴田に。
「すみません、電気」
「あ、いいよ、そのままで」
あたしは、ベッドに腰かける。蓮君は再び、窓の外を見た。
「……その様子だと、うまくいったんですね」
蓮君は外、というよりも、空をながめてる。
「……うまくいった、っていうか……」
ほとんど無理矢理、だったような気がする。
「でもまあ……明後日はちゃんと行ってくれるって」
「日向さんと、時間を過ごしてくれるってことですか?」
「……たぶん」
「たぶん?」
蓮君がようやく、こっちを見る。
「日向さんがいいって言ってくれるかどうか、自信はないって……」
「それならきっと、心配ないですよ」
蓮君のまなざしは、優しかった。まるで、月明かりのようだ。
「どうして?」
明かりに問いかけるかのように、あたしは訊いた。
「……なんとなく、です」
蓮君の身体が揺れると、ポケットから何か落ちた。テレホンカードだ。その他にも、何か、ゲーム機のようなもの。前にあたしの携帯と一緒にあったものだ。
蓮君はあわててそれを拾う。
「ねえねえ、それって何のゲーム?」
あたしはふと、尋ねる。気になってはいたのだ。ただ訊く機会がなかった。
「……ゲーム……」
「違うの? すごく薄いし、あんまり見かけないなあって」
そもそもゲームにそんなに詳しいわけじゃないけど。
「これは……ええっと……」
ちょっと困ったような顔をする。テレホンカードよりも、少し大きめのそれは、明かりがもれていて、ずいぶん精巧な造りのような気がした。
「あの……まあ、そうですね」
めずらしく、歯切れが悪い。もしかしたら、訊かれたくないことなのかな。そんなふうに思って、あたしは首を傾げる。
「それよりも明後日、晴れるといいですね」
蓮君が急に、目を逸らす。やっぱり、見られたくないものなんだろう。察したあたしは、つきあうように、うん、と小さく頷いた。
空を見ると、星が輝いていた。
晴れるといい。
確かに、その通りだった。




