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婚約者

 病院までは、車で二時間ほどだった。

 着くと泰三さんはすぐに病室に運ばれる。点滴と、たくさんの機械が取り付けられた。かなり無理をしていたようだ。

 葵さんは入院の手続きを済ませると、泰三さんのそばについて、病室に入った。あたしも隣へ座る。泰三さんの顔は、家にいた時よりも青白かった。

「桐谷さん」

 しばらくすると、日向さんが入ってきた。制服を着た姿は、どこから見ても看護師だ。

「先生から、お話が」

 空気が重いような気がした。

「……そろそろ、潮時だな」

 つぶやくように、彼女は言った。あたしも立ちあがろうとすると、

「穂乃香は、ここで待っていてくれ」

 父のそばにいてほしい、と懇願された。あたしは言われたとおりにする。そもそも選択権など、あるようでない。あたしは赤の他人として、ここにいるからだ。

 葵さんが出て行くと、入れ替わるように扉が叩かれる。あたしはどうぞ、と、小さく返事をした。すると知らない男の人が入ってきた。

「――失礼。桐谷氏の部屋で間違いないかな?」

 その人は背が高く、目が大きかった。髪は短く、パーマがかかっている。下まつ毛が長くて、唇がうすい。

「あ……はい」

 答えていいのかわからなかったけど、結局頷いてしまった。革靴を鳴らして、近づいてくる。片手には花束を、片手にはフルーツを持っていた。

「……ふむ。具合はあまり良くなさそうだ。ところできみは?」

 話しかけられて、どう答えようか迷う。すると、

「えっと……葵さんの友人で……」

「なに、葵君の? それはそれはーー」

 急に両手を握られる。そばにあったイスにも、気がついたら腰かけられていた。

「私も葵君の友人で、伊集院寛という者だ。同じ友人同士、以後、どうかお見知りおきを」

 にっこりと微笑む。笑うとよけいに下まつ毛が目立った。

 ――伊集院

 その名前を聞いて、思い出す。確かそれは、葵さんの見合い相手の名字だ。と、いうことは……。

「あの……あなたは、その……」

 なんて聞けばいいだろう。見合い相手? それとも婚約者? 失礼なことを言って、葵さんの印象が悪くなるのもイヤだ。あたしは少し考える。すると、

「きみは、知っているのかい? 葵君が私の家に、嫁ごうとしていることを」

 手を離し、あたしは軽く頷いた。やっぱり、そうなのだ。もう一度、改めてその人を見る。けれど最初の印象と、あまり変化はない。なんていうんだろう。悪い人には見えないのだ。

「そうか。まあ、ここにいるのだから、それなりに親しい友人かとは思っていたが。そうか……なるほど……」

「あの……あなたは葵さんのことを……」

「もちろん、好きだよ」

 あっさりと言った。そう、あたりまえに、まるで空気のように。

「もともと葵君の家の道場に通っていてね。そうじゃなくても、彼女のことは幼い頃から見ている。ずっと大切に思ってきた」

 本物だ、と思った。まだあたしは十七年しか生きていなくて、わからないことのほうが大半で、けどそれでも少しくらい、感じとることはできる。

 この人の言葉や口調、そして醸し出される雰囲気は、とてもとても優しいものだ。愛があふれるものだ。

「葵君が私の妻になってくれる、というのはとても嬉しい。けれどそれは、彼女の気持ちが私に向いていれば、の話だ」

 そして、わかっている。知っているのだ。葵さんの気持ちが、だれを思っているか、ということ。

「そして、彼女の事情もよく理解しているつもりだ」

 あたしをじっと、見る。静かに頷いた。

「……援助を、申し入れた」

 彼の声もまた、静かだった。

「結婚という形ではなく、援助、もしくは債権という形にしてはどうだろう、と彼女に提案した」

 そうか、と思った。単純にお金が欲しければ、別に結婚じゃなくても、方法はあるんだ。借りるということができる。

「無利子無期限で、向こうとしては良い条件だったんだけど、断られてしまって、ね」

 伊集院さんは息をつく。その様子は、どこか寂しそうだ。

「……きみは、彼女の結婚についてどう思う? 賛成? それとも反対?」

 急に話をふられて、どきっとする。さっきはでは反対ーーそう思ってた。でも、わからなくなった。そう伝えると、

「彼女は、幸せになることを拒んでる。きっと、ね」

「……どうして、なんでしょう」

 周りには良い人ばかりだ。みんな彼女のことを思って、彼女のことを大事にしてくれている。

「理由があるんだろう。自分は、幸せになるべき人間ではない、といった、彼女なりの何か、が」

「あなたはそれを、知ってるんですか?」

 あたしの質問に、彼は笑うだけだった。

 お互いに、顔を見合わせる。その時だ。ドアが叩かれ、開く。

「寛さん。いらしてたんですね」

 葵さんだった。

「ああ、葵君。ちょうどきみの友人に、相手をしてもらっていたところだよ」

「……そうですか。では、ちょっとあちらへよろしいですか?」

 何やら、話があるようだ。

「はいはい。じゃあ、楽しい時間をありがとう。お嬢さん」

 彼はひらひらと手をふって出て行く。その後ろ姿は軽快で、けれどどこか寂しそうだった。

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