第7話 母さんへのプレゼント
朝、目を覚ますと、台所から包丁の音が聞こえてきた。
窓の外はすっかり明るくなっていて、通りを行き交う人たちの声も聞こえる。
ボクは寝台から起き上がり、顔を洗ってから台所へ向かった。
「おはよう、母さん」
「おはよう、レイン。今日はよく眠れた?」
「うん。ぐっすり眠れたよ」
「それならよかったわ。昨日は色々あったものね」
母さんはそう言って笑うと、鍋の中を木べらでかき混ぜた。
食卓には切り分けられたパンと、小さな器に入ったバターが置かれている。
ボクは棚から二人分の椀を取り出し、食卓へ並べた。
「今日はどうするの? また草原へ行く?」
「今日はお休みにしようと思ってるんだ」
「あら、珍しいわね」
「昨日は結構走ったからね。たまにはゆっくりしようかなって」
「ふふっ。それがいいわ。母さんも安心できるもの」
母さんは鍋から芋のスープをよそい、ボクの前へ置いてくれた。
椅子に腰掛け、温かいスープを一口飲む。
柔らかく煮込まれた芋が口の中で崩れ、ほんのりとした甘さが広がった。
向かいでは母さんがパンにバターを塗っている。
端まで丁寧に塗ってから、美味しそうに一口かじった。
その様子を見ていると、自然と頬が緩んでしまう。
「レイン?」
「ん?」
「どうしたの? 私の顔に何かついてる?」
「ううん。何でもないよ」
「そう? 変なレインね」
母さんは不思議そうに首を傾げてから、再びパンを食べ始めた。
ボクもパンにバターを塗り、一口かじる。
やっぱり、バターがあると美味しいな。
「そういえば、レイン。今日は家にいるなら、洗濯物を取り込んでおいてくれる?」
「うん。任せて」
「ありがとう。助かるわ」
「他にも何かある?」
「そうねえ……。それじゃあ、お部屋のお掃除もお願いしようかしら」
「分かった」
「ふふっ。頼もしいわね」
母さんが笑う。
ボクもスープを飲みながら、今日の予定を考えた。
洗濯物を取り込んで、掃除をして、それから夕食の準備も少し進めておこう。
母さんが帰ってくるまで、時間はたっぷりある。
*
「それじゃあ、行ってくるわね」
「いってらっしゃい、母さん」
「お昼ご飯はちゃんと食べるのよ」
「分かってるよ。母さんも気をつけて」
「ええ。ありがとう」
母さんが玄関を出ていき、扉が静かに閉まった。
ボクは食卓へ戻ると、椅子に腰掛けた。
そして、アイテムポーチへ手を入れる。
「さて……」
取り出したのは、一足の革靴だった。
落ち着いた茶色で、派手な飾りもない。
昨日の夜、母さんに内緒で購入しておいた『疲労軽減の靴』だ。
食卓の上へ並べ、少し離れて眺めてみる。
「うん。いい感じだね」
手に取ってみると、見た目よりずっと軽い。
靴底もしっかりしていて、指で押すと少しだけ弾力があった。
母さんが普段履いている靴より、ずいぶん歩きやすそうだ。
ボクは革の表面を指先でなぞり、もう一度眺めた。
これなら、きっと気に入ってくれると思う。
靴を揃えてからアイテムポーチへしまい、椅子から立ち上がった。
「よし。まずは洗濯物だね」
庭へ出ると、朝の風が頬を撫でた。
物干しに掛けられた洗濯物が、風に揺れている。
一枚ずつ取り込み、腕に重ねていく。
最後の一枚を取り終えると、家の中へ戻って畳み始めた。
母さんの服とボクの服を分け、棚へしまう。
それから箒を手に取り、床を掃いていった。
窓から差し込む日差しが暖かく、開け放した窓からは近所の人たちの話し声が聞こえてくる。
冒険者になってから、こうして家で過ごす時間が少し減っていた。
たまには、こんな日も悪くないな。
*
昼を過ぎる頃には、洗濯物も掃除も終わっていた。
昼食には残っていたパンを食べ、午後は部屋の整理をする。
棚にしまってあった父さんの短剣と革鎧も取り出し、久しぶりに手入れをした。
短剣の刃を布で拭き、鞘へ戻す。
今は新しい剣を使っているけれど、父さんの短剣も大切なものだ。
革鎧の埃を払い、元の場所へしまったところで、窓の外に目を向ける。
日差しが少しずつ傾き始めていた。
そろそろ母さんが帰ってくる時間だ。
ボクは台所へ向かい、夕食の準備を始めた。
芋の皮を剥き、小さく切り分けて鍋に入れる。
水を注ぎ、火にかけると、しばらくして小さな泡が浮かび始めた。
鍋の様子を見ながら木べらでかき混ぜていると、玄関の扉が開く音がした。
「ただいま」
「おかえり、母さん!」
台所から顔を出すと、母さんが少し驚いた顔をした。
「あら、いい匂い。レインが作ってくれているの?」
「うん。まだ途中だけどね」
「まあ、ありがとう。助かるわ」
母さんは嬉しそうに笑い、いつものように靴を脱いだ。
そのまま台所へ来ようとしたので、ボクは声を掛けた。
「あ、母さん。ちょっと待って」
「どうしたの?」
「渡したいものがあるんだ」
「私に?」
「うん。ちょっと座ってて」
母さんは不思議そうに首を傾げながら、食卓の椅子に腰掛けた。
ボクはアイテムポーチから靴を取り出し、母さんの前へ置く。
「はい。これ、母さんに」
「……靴?」
母さんは目を丸くした。
そして、靴を手に取ると、何かに気づいたようにボクを見る。
「レイン、もしかしてこれ……」
「うん。前に一緒に見たやつだよ」
母さんの視線が、手元の靴へ戻った。
「でも、これって大銀貨三枚もするんじゃ……」
「そうだよ」
「そんな高いものを……。レイン、自分の装備は大丈夫なの?」
「うん。ちゃんとお金は残してあるから」
「そうなの?」
「本当だよ。それより、履いてみてよ」
母さんは少し困ったように笑い、靴を足元へ置いた。
片方ずつ足を通し、ゆっくりと立ち上がる。
「……あら?」
母さんが足元を見下ろした。
一歩、二歩と歩いてみる。
それから、もう少し歩いて台所の方まで進んでいった。
「どう? 履き心地は」
「ええ。すごく軽いわ。それに、足にぴったり」
「よかった」
母さんはその場で何度か足踏みをしてから、ボクの方へ戻ってきた。
「何だか、不思議な感じね。足がふわっと包まれているみたい」
「歩きやすい?」
「ええ、とっても」
母さんはもう一度足元を見下ろすと、嬉しそうに微笑んだ。
「レイン、ありがとう。とっても嬉しいわ」
「うん。気に入ってもらえてよかった」
母さんは靴を眺めながら、しばらく黙っていた。
それから、ボクの手をそっと握る。
「でもね、レイン。母さんのために無理をしなくてもいいのよ?」
「無理なんてしてないよ」
「本当に?」
「うん。母さん、仕事から帰ってくると足が疲れてるでしょ? これなら少しは楽になるかなって」
母さんの手に、きゅっと力がこもった。
「……そう。ありがとう、レイン」
顔を上げると、母さんが優しく微笑んでいた。
「明日から、大切に履かせてもらうわね」
「うん! 帰ってきたら、どんな感じだったか教えてね」
「もちろんよ」
母さんはもう一度靴を見下ろし、嬉しそうに笑った。
「それにしても、レイン。最近、私ばかり良いものをもらっている気がするわ」
「そうかな?」
「そうよ。バターも買ってくれたでしょう?」
「あれはボクも食べたよ」
「ふふっ。そうだったわね」
母さんは楽しそうに笑うと、ボクの頭を優しく撫でた。
「それじゃあ、今夜はレインの好きなものを作りましょうか」
「えっ、いいの?」
「もちろん。何が食べたい?」
「うーん……」
少し考えてから、台所の鍋へ目を向ける。
「もう芋のスープを作ってるから、それでいいよ」
「あら、そう?」
「うん。母さんの作るスープ、美味しいから」
「それなら、今日は一緒に仕上げましょうか」
「うん!」
母さんは椅子から立ち上がると、台所へ向かった。
けれど、途中でふと足を止める。
「あら、いけない」
「どうしたの?」
「新しい靴が嬉しくて、そのまま台所まで履いてきちゃったわ」
「あははっ!」
母さんは少し照れたように笑い、靴を脱いで椅子のそばへ揃えた。
それから、いつものように袖をまくって鍋の前へ立つ。
ボクは棚から木の椀を取り出し、二人分を食卓へ並べた。
鍋から立ち上る湯気が、台所いっぱいに広がっていく。
*
夕食を食べ終え、食器を片付けたあと。
母さんはもう一度、新しい靴を手に取って眺めていた。
革の表面を指先で撫でたり、靴底を確かめたりしている。
ボクが隣に座ると、母さんは少し照れくさそうに笑った。
「……何だか、もったいなくて履けなくなりそう」
「ええっ? ちゃんと履いてよ」
「ふふっ。冗談よ。明日から大切に使わせてもらうわ」
母さんは靴を揃え、椅子のそばへ置いた。
そして、ボクの方へ身体を向ける。
「レイン」
「なに?」
「本当にありがとう」
母さんが両手を広げたので、ボクは少し身を乗り出した。
ふわりと抱きしめられ、焼きたてのパンに似た甘い匂いがした。
「……母さん、ちょっと苦しいよ」
「あら、ごめんなさい」
「もう……」
そう言いながらも、ボクは母さんの背中へ腕を回した。
しばらくして離れると、母さんは目元を指で拭い、いつもの笑顔を見せてくれた。
「さあ、明日もお仕事を頑張らなくちゃね」
「うん。でも、無理はしないでね」
「ふふっ。それはレインも同じでしょう?」
「……そうだね」
二人で顔を見合わせ、笑い合う。
明日、母さんがあの靴を履いて帰ってきたら、どんな感想を聞かせてくれるだろう。
ボクは椅子のそばに揃えられた靴を眺めながら、そんなことを考えていた。
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