第18話 湖畔のハチミツ
草原の道を進んでいくと、風に揺れる草の向こうに、きらきらと光るものが見えてきた。
教えてもらった湖だ。
近づくにつれて水面が広がり、その手前には小さな花がいくつも咲いていた。
白い花に、黄色い花。それから、淡い紫色の花もある。
「わあ……」
岸辺まで来て、思わず足を止めた。
風が吹くたび、水面に細かな波が広がっていく。
草原とは少し違う、ひんやりとした空気が頬に触れた。
こんな場所があったんだ。
今度、母さんと一緒に来てみたいな。
そんなことを考えながら岸に沿って歩いていると、花の上を何かが飛んでいるのが見えた。
「……あれかな?」
花びらのような羽が、陽の光を透かしている。
丸い身体には、黄色と茶色の縞模様。頭や胸の辺りにも花飾りのようなものがついていて、大きな花がそのまま飛んでいるみたいだ。
けれど、その下では短い脚が動いていた。
フラワービーだ。
花の近くへ下りた一体を、少し離れたところから眺める。
「……可愛いなあ」
丸い目に、先がつぼみのようになった触角。
あれで一メートルもあるなんて、近くで見ると結構大きいんだろうな。
もう少しよく見ようと一歩進んだところで、フラワービーが顔を上げた。
触角がこちらへ向く。
次の瞬間、羽音が急に大きくなった。
「えっ?」
ふわりと浮き上がった身体が、勢いよくこちらへ飛んできた。
「わっ!」
慌てて剣を抜き、横へ跳ぶ。
丸い身体がすぐ脇を通り過ぎ、その腹の先に鋭い針が見えた。
フラワービーは空中で向きを変え、再びこちらへ顔を向ける。
「……可愛いけど、やっぱり魔物なんだね」
剣を構え、足元を確かめた。
幸い、ここは岸から少し離れていて、地面もしっかりしている。
もう一度飛び込んできたフラワービーを横へ避け、すれ違いざまに剣を振った。
手に重みが伝わり、フラワービーが草の上へ落ちる。
しばらくすると、その身体が光の粒になって消えていった。
「ふう……」
息を吐き、剣を下げかけたところで、また羽音が聞こえた。
岸辺に一本だけ立っている木の方から、もう一体が飛んでくる。
「まだいたんだ!」
剣を握り直し、近づいてくる姿を見据える。
フラワービーが腹の先をこちらへ向けた瞬間、横へ踏み込んだ。
鋭い針が空を切る。
そのまま剣を振り抜くと、二体目も地面へ落ちた。
周囲へ目を向け、しばらく耳を澄ませる。
花は風に揺れているけれど、近くから羽音が聞こえてくることはなかった。
「……もう大丈夫かな」
剣を収め、残された魔石を拾い集める。
二体目が倒れた場所には、魔石のほかに細長いものが落ちていた。
「……針?」
さっき、フラワービーのお腹の先に見えたものだ。
先端は細く尖っていて、陽の光を受けると艶やかに輝いた。
一体目を倒した場所にも目を向けたけれど、そちらには残っていない。
「こんなものも落とすんだ」
先端に触れないよう、根元を布で包んでポーチへしまった。
それから、二体目が飛んできた木へ目を向ける。
低く伸びた枝の下に、何かがぶら下がっていた。
近づいてみると、幾つもの小さな部屋が並んだ巣だった。
表面の一部が、濡れたように光っている。
「もしかして……ハチミツ?」
顔を近づけると、ふわりと甘い香りが漂ってきた。
「うん、間違いなさそう!」
ボクは周囲をもう一度確かめてから、ポーチを開いた。
*
取り出したのは、空になった回復薬の瓶二本だ。
一本は、森で自分が使ったもの。
もう一本は、怪我をしていた冒険者さんが、使い終わって返してくれたものだった。
どちらも洗って取っておいた。
瓶の首や底に細かな飾りがついていて、捨てるにはもったいなかったんだ。
「これなら、ちょうどよさそうだね」
布の上へ二本を並べ、栓を外した。
巣の中には、透き通った琥珀色の蜜が溜まっている。
蜜の入った部分を少しずつ切り取り、瓶の口の上で傾けてみた。
とろりとした雫が、ゆっくり落ちていく。
「……あ、入った」
瓶の底に、金色の蜜が広がった。
けれど、水みたいには流れてこない。
角度を変えながら待っていると、細い筋になって、少しずつ瓶へ落ち始めた。
「結構、時間がかかるんだね」
ボクはそのまま手を動かさずに待った。
甘い香りが、すぐ鼻の先にある。
ちょっとだけ舐めてみたいけれど、先に依頼の分を集めないと。
ときどき顔を上げ、周りに魔物がいないか確かめながら、瓶へ蜜を移していく。
一本目に必要な量が入ったところで、栓をした。
「よし。次は母さんの分だね」
二本目にも蜜を入れ、瓶の外側についたところを布で拭った。
「……できた!」
二本を並べてみる。
陽の光に透かすと、中のハチミツが明るく輝いた。
瓶の飾りまできらきらしていて、何だか高そうなお店に並んでいる品物みたいだ。
「母さん、喜んでくれるかな」
栓がしっかり閉まっているのを確かめ、二本ともポーチへしまった。
それから道具を片付け、木から離れる。
岸辺を少し歩いたところで、腰を下ろせそうな場所を見つけた。
ここなら木の周りも見渡せるし、足元に花もない。
腰を下ろし、母さんが持たせてくれた昼食の包みを開く。
「いただきます」
パンをかじりながら、湖を眺めた。
遠くの水面に、小さな波が次々と広がっている。
さっきのフラワービーも、最初は花の上でのんびりしているように見えた。
あの針が当たっていたらと思うと、少し背中がひやっとする。
「……次は、もう少し離れて見よう」
食べ終えた包みを畳み、立ち上がった。
依頼の分はもう集まっている。
暗くなる前に帰れるように、そろそろ王都へ戻ろう。
*
「おかえりなさい、レインくん」
ギルドへ戻ると、セシリアさんが迎えてくれた。
朝、ダンたちが立っていたカウンターには、今は誰もいない。
ボクはそちらへ歩み寄り、冒険者カードを出した。
「ただいま戻りました! ハチミツ、採ってきましたよ」
「あら、もう採れたんですね。それでは、こちらへお願いします」
ポーチから、納品する方の瓶を取り出す。
カウンターへ置くと、セシリアさんが目を丸くした。
「……まあ、綺麗な瓶ですね」
「えへへ。回復薬が入っていた瓶なんです」
「回復薬、ですか?」
セシリアさんは瓶を手に取り、首の辺りに施された飾りを眺めた。
「こんなに立派な瓶に入った回復薬があるんですね。どちらで手に入れたんですか?」
「ボクのスキルで買ったんです。使い終わったあとも綺麗だったので、洗って取っておいたんですよ」
「スキルで……?」
セシリアさんは一度ボクの顔を見てから、小さく頷いた。
「そうだったんですね。すみません、珍しかったので、つい」
「いえ、大丈夫です」
答えると、セシリアさんは微笑み、瓶の中へ目を向けた。
「では、蜜を確認しますね」
栓を開け、採ってきた蜜を確かめていく。
ボクはその間に、魔石も取り出した。
「そういえば、フラワービーにも会ったんですけど、本当に花みたいでした」
「ふふっ、そうでしょう?」
「はい! でも、眺めていたら急に飛んできて……。針もあったので、びっくりしました」
「まあ! 怪我はありませんでしたか?」
「大丈夫です。ちゃんと避けられましたから」
セシリアさんが、ほっとしたように息を吐いた。
「それならよかったです。あまり近づきすぎないようにしてくださいね」
「はい。次からは気をつけます」
セシリアさんは瓶へ目を戻し、栓を閉めた。
「蜜の方も問題ありません。依頼達成ですね」
「よかった! ありがとうございます」
「それから、こんなものも落ちていたんです」
ポーチから針を取り出し、布ごとカウンターへ置いた。
セシリアさんは包みを開くと、少し目を見開いた。
「あら、睡眠針も手に入ったんですね」
「睡眠針?」
「ええ。フラワービーの針には、相手を眠らせる毒があるんです」
ボクは、さっき目の前を通り過ぎた針を思い出した。
「じゃあ、刺されていたら眠っちゃってたんですか?」
「強い眠気に襲われるんです。すぐに眠ってしまうとは限りませんが、動きも鈍くなってしまいますから、とても危険なんですよ」
「うわあ……刺されなくてよかった」
あのとき、避けるのが少しでも遅れていたら……。
ボクは布の上の針を見つめた。
「フラワービーは、一度相手を刺すと針が抜けてしまうんです。そのときに毒も使われるので、素材としては残りません」
「じゃあ、針で攻撃される前に倒さないといけないんですね」
「そうなんです。しかも、針を使わせずに倒しても、手に入るのは十体に一体ほどなんですよ」
「えっ、そんなに珍しいんですか?」
今日は二体しか倒していない。
そのうち一体から取れたんだから、運がよかったんだなあ。
そう思いながらポーチへ手を戻すと、指にはめた指輪が目に入った。
「ちなみに、こちらの買い取り額は銀貨八枚になります」
「……えっ?」
一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「銀貨、八枚……ですか?」
「はい。それだけ希少な素材ですから」
「こ、この一本で?」
「ええ」
思わず、カウンターの上にある針を見つめた。
昨日の牧場の依頼では、素材も合わせて銀貨三枚と銅貨四枚だった。
あんなに細い針が、それよりずっと高いなんて。
「……すごい」
思わず呟くと、セシリアさんがくすりと笑った。
「運がよかったですね、レインくん」
「はい! また手に入ったら持ってきます!」
何度か採りに行けば、また一本くらい手に入るかもしれない。
そう思ったところで、花の上に浮かんでいた丸い姿が頭に浮かんだ。
……でも、あの可愛いフラワービーを何匹も倒すんだよね。
「……うーん」
「どうかしましたか?」
「いえ、その……フラワービー、可愛かったなあって……」
つい本音が漏れると、セシリアさんが小さく笑った。
「ふふっ。確かに、可愛らしい見た目をしていますものね」
「そうなんですよね……」
襲われたら戦わないといけないけれど、わざわざ何匹も探しに行くのは、ちょっと迷ってしまう。
……銀貨八枚は、すごく魅力的なんだけど。
ボクは苦笑いしながら、カウンターの上を空けた。
魔石も買い取ってもらい、睡眠針の代金と依頼の報酬を一緒に受け取る。
お金を袋へしまっていると、セシリアさんが声を掛けてきた。
「そういえば、お母さんへのお土産も採れましたか?」
「はい! もう一本、持って帰る分があるんです」
「あら、それはよかったですね」
「母さん、喜んでくれるといいなあ」
「きっと喜んでくれますよ」
セシリアさんから冒険者カードを受け取り、ポーチへしまった。
「それじゃあ、ありがとうございました!」
「はい。気をつけて帰ってくださいね」
ギルドを出ると、通りには夕方の買い物に来た人たちが増えていた。
すれ違う荷車を避け、家へ続く道を歩く。
帰ったら、まずハチミツを見せよう。
そう考えると、自然と足が速くなった。
*
家へ戻ると、母さんはまだ仕事から帰っていなかった。
先に手を洗い、台所の台を拭いてから、ハチミツの瓶を置く。
窓から差し込む光が、瓶の飾りに反射した。
「……うん、こっちかな」
少し向きを変え、一番綺麗に見えるところで手を離す。
やがて玄関で物音がして、母さんの声が聞こえた。
「ただいま、レイン」
「おかえり、母さん!」
玄関へ迎えに行き、荷物を受け取る。
「ねえ、母さん。今日はお土産があるんだ!」
「あら、お土産?」
「うん! 台所に置いてあるから、見てみて!」
母さんが靴を脱ぎ、ボクの顔を見る。
「ふふっ。そんなに嬉しそうにして、何を持って帰ってきたのかしら」
手を洗った母さんが台所へ入る。
そして、台の上の瓶に気づいた。
「……まあ!」
少しかがんでから、両手でそっと持ち上げる。
「綺麗ねえ。これ、どうしたの?」
「今日の依頼で採ってきたハチミツだよ!」
「ハチミツなの? こんな素敵な瓶に入っているから、何かと思ったわ」
母さんは窓の方へ瓶を向けた。
琥珀色のハチミツが光を透かし、瓶を縁取る細かな飾りもきらりと輝く。
「高級なお店の贈り物みたいね」
「えへへ。実はそれ、回復薬の空瓶なんだ」
「ああ、あの青い薬が入っていた瓶ね」
「うん。綺麗だから取っておいたんだ。ちゃんと洗ってあるよ」
母さんが瓶をゆっくり傾けると、中のハチミツもとろりと動いた。
それを眺めてから、母さんはボクへ笑顔を向けた。
「ありがとう、レイン。とっても嬉しいわ」
「本当?」
「もちろんよ。こんな素敵なお土産をもらえるなんて、思ってもいなかったもの」
母さんはもう一度瓶を眺め、それから大切そうに両手で持ち直した。
その様子を見ていると、ボクまで嬉しくなってくる。
「今日はね、湖の方へ行ってきたんだよ」
「湖まで? 随分歩いたのね」
「うん。でも、花がいっぱい咲いていて、すごく綺麗だったんだ。今度、母さんとも行ってみたいな」
「あら、いいわね。お休みの日に、お弁当を持って行きましょうか」
「うん!」
母さんは瓶を食卓へ運び、二人の席の間へ置いた。
飾りがこちらからも見えるように、少しだけ向きを直す。
「ねえ、母さん。ハチミツ、今日の夕飯で食べてもいい?」
「もちろんよ。せっかく採ってきてくれたんだもの」
ボクは食卓へ皿を運んだ。
母さんが夕食の支度をする横で、パンを切り分ける。
ハチミツ用の小さな匙も、忘れずに出しておいた。
*
「いただきます!」
「いただきます」
夕食のスープを一口飲んでから、ボクはパンへ手を伸ばした。
小さな匙でハチミツをすくう。
持ち上げると、瓶へ戻ろうとするみたいに、細い糸が伸びた。
「わあ、結構とろとろしてるね」
「ふふっ。服につけないようにね」
「うん!」
パンの上へそっと落とし、匙の背で広げる。
ひと口かじると、甘さがじわっと広がった。
「……おいしい!」
少し遅れて、花のような香りが鼻へ抜ける。
ボクはパンの切り口を見てから、もう一口食べた。
「母さんも食べてみて!」
「それじゃあ、いただこうかしら」
母さんもパンへハチミツを塗り、口へ運ぶ。
ゆっくり噛み終えると、嬉しそうに微笑んだ。
「本当、おいしいわね。香りもいいわ」
「でしょ? 湖の周りに花がいっぱい咲いていたからかな」
「そうかもしれないわね」
母さんが、もう一度匙を取った。
ボクは自分のパンにも少し足してから、瓶を母さんの方へ寄せる。
「あのね。これを採る前に、フラワービーっていう魔物と戦ったんだ」
「蜂の魔物なの?」
「うん。でも、身体も羽も花みたいなんだよ。最初は可愛いと思ったんだけど、近づいたら急に飛んできて……」
母さんが、持っていたパンを少し下ろした。
「まあ、襲われたの?」
「うん。でも大丈夫! 針が見えたから、ちゃんと避けたよ。怪我もしてないから」
「そう……。怪我がなくてよかったわ」
「本当だよ。可愛いからって、油断しちゃ駄目だね」
「ええ。これからも気をつけてね」
「うん、分かった!」
母さんは頷き、食べかけのパンを口へ運んだ。
ボクもスープの器を手元へ寄せる。
話している間に、パンへ塗ったハチミツが少しずつ染み込んでいた。
端まで食べ終えてから、もう一切れ取ろうとする。
ちょうど同じときに母さんも手を伸ばし、目が合った。
「あっ……」
「……ふふっ」
母さんが笑う。
「おいしいから、つい手が伸びちゃうわね」
「ボクも!」
二人で笑いながら、残っていたパンを分け合った。
*
夕食の片付けが済むと、母さんと一緒にソファーへ座った。
「そうだ。回復薬を補充しておこうかな」
「回復薬? もうなくなったの?」
「ううん。まだ三本あるよ。でも、二本使ったから、その分を買っておこうと思って」
ボクは『公式ストア』を開き、回復薬の商品を選んだ。
画面には、見覚えのある青い瓶が表示されている。
回復薬は一本、銅貨二枚。
二本なら、銅貨四枚だ。
「よし。二本買っておこう」
購入すると、目の前に淡い光が集まった。
光が消えたあとには、青い回復薬が二本並んでいる。
「まあ、相変わらず不思議ねえ」
母さんが一本を持ち上げ、瓶の飾りへ指を添えた。
「それに、やっぱり綺麗な瓶ね」
「うん。今日、ハチミツを入れて持っていったら、セシリアさんも驚いてたよ」
「ふふっ。そうでしょうね。母さんも驚いたもの」
母さんから瓶を受け取り、もう一本と一緒にポーチへしまう。
これで、回復薬は五本に戻った。
「ほかには、どんなものが売っているの?」
母さんが興味深そうに画面を覗き込んだ。
「いろいろあるよ。ちょっと見てみようか」
「ええ。見せてちょうだい」
ボクは母さんの隣へ座り直し、商品をゆっくり眺めていく。
母さんが気になったものを指差すたびに、ボクもそちらへ目を向けた。
「本当に、いろんなものがあるのねえ」
「うん。見ているだけでも楽しいんだ」
次は何を見ようかな。
そう思って画面を動かしかけた、そのときだった。
突然、目の前に新しい文字が浮かび上がった。
『新商品入荷しました!』
「……えっ?」
思わず、画面を操作していた手が止まった。
新商品って、今までなかったものが増えたってこと?
母さんも不思議そうに画面を覗き込んでいる。
ボクは浮かび上がった文字を、もう一度読み返した。
いったい、どんな商品が入ったんだろう。
胸がわくわくして、思わず画面へ顔を近づけた。




