2.
襲名の儀を終えた後も、龍宮家の大広間から人が引く気配はなかった。
厳かな儀式のために張り詰めていた空気はすっかり緩み、今は楽団の奏でる軽やかな音楽と、あちらこちらで交わされる談笑の声が広間を満たしている。壁際には色鮮やかな料理や酒が並べられ、先程まで神妙な顔で新当主の誕生を見守っていた者達も、今ではすっかり祝宴を楽しんでいるようだった。
もっとも、彼らの関心は豪華な料理でも、楽団の演奏でもないらしい。
「それにしても、征嵐様もいよいよ龍宮家のご当主ですもの。次はいよいよ、ご結婚のお話かしら」
すぐ近くで聞こえた声に、沙羅はぴくりと眉を動かした。声の主は、少し離れたところに集まっている令嬢達だ。
「当然でしょう。龍宮家の血を次代へ繋ぐことも、ご当主としての大切なお役目ですもの」
「では、もうお相手がお決まりなのかしら?」
「どうでしょう。けれど、縁談のお話なら以前からいくつもあると伺っていますわ。征嵐様ご自身が、これまでお断りになっていたとか」
「あら、勿体ない。どちらのご令嬢も名家の方ばかりでしょうに」
楽しげに言葉を交わす令嬢達の横で、沙羅は手にしていたグラスを傾けた。
――なるほど。
考えてみれば当然の話だ。
龍宮征嵐は、今日から龍宮家の当主となった。十二家の中でも筆頭に位置する家なのだから、その血を後世に繋ぐことも当主の責務に含まれるのだろう。
つまり、妻を迎える。
そして今のところ、その席に座る女は決まっていないらしい。
「……まあ」
意図せず零れ落ちた音吐には、確かな喜色が滲んでいた。
ちょうどいいではないか。なんせ沙羅は先程、あの男を手に入れると決めたばかりだ。どのような方法で近づこうかと考えていたところへ、向こうからこれほど都合のいい話が転がり込んでくるとは思わなかった。
征嵐が妻を探しているというのなら、話は早い。自分がその妻になればいいのだ。
「沙羅」
「はい?」
「今、何を考えた?」
隣から聞こえた声に振り返ると、冬弥が警戒するような眼差しをこちらに向けていた。
此度も胸裏を見透かされたようで、思わず肩を竦めてしまったのは無意識だ。けれどすぐに姿勢を正し、沙羅はにんまりと笑みを浮かべてみせた。
「何も考えていませんわ。ええ、何も」
「嘘を言うんじゃない。お前がそうやって妙に機嫌のいい顔をしている時は、大抵ろくでもないことを思いついた時だ」
「まあ。妹を捕まえて、ろくでもないだなんて」
両手で顔を覆ってわざとらしく泣き真似をしてみせるが、冬弥にとっては当然何の効果もない。「では言ってごらん」と一歩距離を詰められる始末だ。存外聡く、意志の固い兄を退けるのは難しいと、沙羅は今までの経験から十分過ぎるほどに知っている。
観念するように両手を下ろし、沙羅はふいと視線を逸らした。
「内緒です」
沙羅の言葉に、冬弥は深々と溜息を吐いた。
先程から溜息ばかり吐いている。そんなに溜息を吐いていては幸せが逃げますわよ、――喉まで出かかった言葉をぎりぎりのところで飲み込んで、沙羅は心の中で兄に手を合わせた。兄の溜息の大半が自分に起因することくらいは沙羅もわかっているので、さすがに良心が痛む。
居心地の悪さを誤魔化すように、沙羅は何食わぬ顔で視線を広間の中央へと戻した。
そこには、いつの間にか人だかりが出来ていた。
中心にいるのは、もちろん征嵐だ。
襲名の儀を終えたばかりの新当主へ挨拶をしようと、ひっきりなしに人が訪れている。名のある家の当主に、軍人、政治家。それに、着飾った令嬢とその父親らしき男の姿も少なくない。
先程耳にした話はどうやら本当らしく、あからさまに娘を紹介している者までいる。
征嵐はそれら一つひとつに応じているものの、愛想がいいとは到底言えなかった。話しかけられれば答え、頭を下げられれば応じるが、それ以上に会話が弾んでいる様子はない。美しい令嬢から微笑みかけられても表情一つ変えず、会話を終えればすぐ次の相手へと視線を移している。
「あら、硬派ですのね」
素直な感想が、唇から零れ落ちた。
いくら龍宮家の当主とはいえ、征嵐とて男だ。美しい令嬢に熱い視線を向けられれば、何かしら反応を見せても良いだろうに。想像以上に苦戦しそうだという感想も脳裏を過ぎるけれど、諦めようとは微塵も思わなかった。
むしろ、面白い。誰にでも簡単に靡くような男では、わざわざ手に入れる甲斐がないというものだ。
沙羅は、グラスを近くの卓へ置いた。
「沙羅?」
「お兄様。私、少し行って参りますわ」
「どこへ?」
「無論、征嵐様のところです」
「待ちなさい」
一歩踏み出そうとしたところで腕を掴まれ、沙羅は不満げに振り返る。
「何ですの、お兄様」
「まさかとは思うが、さっき言っていたことを実行するつもりじゃないだろうね」
「さっき言っていたこと?」
「『あの人を手に入れてみせる』」
声を潜めて告げる冬弥に、沙羅はぱちりと瞬きをした。
「もちろん、そのつもりですけれど」
「…………」
「どうして黙るんですの」
「いや。まさか本気だとは」
「失礼ですわね。私があのようなことを冗談で口にするとでも?」
「だから困っているんだよ」
冬弥は額に手を当てた。そうして、人差し指を沙羅の鼻先に軽く突き付ける。
「沙羅。相手は龍宮家の当主だよ」
「知っていますわ」
「龍宮家の当主――つまり、十二家の筆頭になったばかりのお方だ」
「ええ。ですから、欲しいのです。先程からそう申し上げているではありませんか」
当たり前のように言ってのけると、冬弥は再び黙り込んだ。その表情はいつにも増して険しく、苦悩が滲んでいる。二人の間に流れた数秒の沈黙の後、冬弥は言い聞かせるようにゆっくりと口を開いた。
「……いいかい、沙羅。お前が誰を好きになろうと、私は反対するつもりはないよ」
「好き?」
好き、とは。予想外の言葉に、今度は沙羅が眉を寄せる番だった。
「誰が、誰を?」
「え?」
「私は別に、征嵐様を好きだなんて一言も言っていませんわ」
「…………では、なぜ手に入れたいなんて」
「決まっているでしょう。あの方の隣に立てば、私は十二家の頂点に立ったも同然。誰も蛇塚のことを馬鹿に出来なくなりますわ!」
堂々と言い切ると、冬弥は何とも形容しがたい顔をした。沙羅にとってはこのうえない理由であったが、冬弥からしてみれば正気の沙汰ではないらしい。はあ、と零れた溜息が重い。
「お前は……もう少しこう、結婚というものに夢を持った方がいいんじゃないかな」
「夢でお腹は膨れませんわ」
「お腹を膨らませるために結婚するわけでもないよ」
「とにかく」
このままでは延々と説教が続きそうだ。沙羅は掴まれていた腕を解き、胸を張ってみせた。
「お話ししてみなければ、何も始まりませんでしょう?」
「沙羅」
「安心してくださいませ。喧嘩を売りに行くわけではありませんわ」
「その言葉を信じていいのか、非常に迷うんだけれど」
兄のぼやきを背中で聞きながら、沙羅は今度こそ歩き出した。
人垣を抜け、征嵐の元へ向かう足取りに迷いはない。途中、何人かが沙羅に気付いたようだった。驚いたように目を見開く者もいれば、あからさまに眉を顰める者もいる。それらの視線をすべて無視して、沙羅は真っ直ぐに進んだ。
龍宮家の新当主へ、十二家最下位の蛇塚の娘が近づいていく。
その意味を、皆が考えているのだろう。
けれど沙羅にとっては、そんなものはどうでもよかった。
やがて、征嵐の前まで辿り着く。ちょうど彼と話していた初老の男がその場を離れ、二人の間に遮るものがなくなった。
「ご機嫌麗しゅう、征嵐様」
沙羅が見上げると、征嵐もまたこちらを見下ろした。
近くで見ると、思っていた以上に背が高い。視線が交わる。先程と同じ、静かで鋭い眼差しだった。先程と違うのは、その視線が逸らされなかったという点だ。
征嵐は沙羅を、沙羅は征嵐を。互いを正面から見据える光景は、果たして周囲にはどのように見えていたのだろうか。好奇の視線を全身に浴びながら、沙羅は丁寧に頭を下げた。
「この度はご襲名、誠におめでとうございます」
「……ありがとう」
短い返答だった。精悍な顔つきと同じく声にも愛想はなかったが、不思議と威圧感はない。
「お話しするのは初めてですわね、私――」
「――沙羅」
「……はい?」
名乗るよりも先に名を呼ばれ、沙羅はぱちりと瞬きを零した。沙羅とは対照的に、征嵐に動揺の色はない。堂々たる声調子で、征嵐は言葉を続けた。
「沙羅だろう。蛇塚家の嫡女、蛇塚沙羅。知っている」
「まあ」
十二家の集まりに同席したことこそあれ、二人が言葉を交わすのはこれが初めての筈だ。けれど目の前の征嵐は、そうした事実など知らぬ存ぜぬといった風采で、当たり前のように沙羅の名を呼んだ。
なるほど、これが十二家の頂点に立つ男の器か。十二家に名を連ねる者のことは、須らく覚えているに違いない。
僅かに見開いた沙羅の目には、素直な感嘆が滲んでいた。
「私をご存じなのですか? 光栄ですわ」
「ああ」
それだけ言うと、征嵐は口を閉ざした。何とも会話の続かない男である。
沙羅の方から話しかけたのだから、もう少し何かないのだろうか。もっとも、先程から他の人間に対しても同じような調子だったので、自分だけが冷たくされているわけではなさそうだということが幸いだった。
――まあ、いいですわ。
心の中で仕切り直して、沙羅は征嵐を見据えた。会話を楽しみに来たわけではない。目的は別にあるのだから。
沙羅はにこりと微笑んだ。端正な顔立ちによって形作られた笑みは、大抵の者を魅了するだろう。この容姿も、蛇塚が人の心を惑わすと噂される理由の一つだった。何とも馬鹿らしいことだが、それだけ蛇塚の血が優れている証左でもある。
「征嵐様。一つ、お伺いしてもよろしくて?」
「ああ」
「奥方をお探しなのでしょう?」
征嵐が、僅かに目を見開いた。ほんの一瞬だったので、見間違いだったかもしれない。けれど、どうやら多少は驚かせることに成功したらしい。それが何となく嬉しくて、沙羅の笑みが深くなる。
「先程、そのようなお話を耳にしましたの。当主となられた以上、いずれは相応しい伴侶を迎えるおつもりなのだと」
「……確かに、そういう話はある」
「では、まだお相手はお決まりではない?」
「ああ」
「でしたら――」
先を続けようとした、その時だった。
「まあ、見て」
背後から、囁く声が聞こえた。聞き覚えがある。先程も似たような声を散々聞いた。
「蛇塚の姫君ではなくて?」
「まさか、征嵐様にまで取り入るおつもりなのかしら」
「恐ろしい。四百年前の話をご存じないわけでもないでしょうに」
「蛇塚の女が龍宮の男を惑わせるなんて、まるで――」
そこまで聞いて、沙羅は眉を寄せた。
またか。いい加減、聞き飽きた。せっかく人が気分良く話を進めようとしていたところなのに、水を差さないでもらいたい。振り返り、今度は何と言ってやろうかと口を開きかけたところで――。
「誑かされてなどいない」
低い声が響き、一瞬で周囲が静まり返った。
声を発したのは、他でもない征嵐だ。征嵐は先程までと変わらない様子で、静かに沙羅を見下ろしている。
「え……」
思わず、沙羅の口から間の抜けた声が零れた。
征嵐は珍しく呆けた様子の沙羅から視線を外すと、先程まで陰口を叩いていた者達へと目を向けた。ただそれだけで、彼らは気まずそうに口を閉ざす。
「俺が妻を探しているのは事実だ」
征嵐の声は、然程大きくはない。それでも、静まり返った広間には驚くほどよく通った。そこで一度言葉を切り、征嵐は再び沙羅を見る。
「自ら望むものを掴みに来る女なら、龍宮の妻として申し分ない」
「…………征嵐、様?」
「蛇塚沙羅は、俺が娶るに相応しい。そう言っている」
今度こそ、沙羅は何も言えなかった。
一体、この男は何を言っているのだろう。いや、確かに自分はそのつもりで話しかけた。征嵐が妻を探していると聞いたから、自分を売り込むつもりだったのだ。それゆえ結果だけを見れば、願ってもない展開のはずである。
けれど。
――どうして、私より先に話を進めていますの!?
喉まで出かかった言葉を飲み込み、沙羅は必死に平静を装ってみせた。
――おかしい。おかしいですわ、こんなの!
仕掛けるのは、こちらだったはずだ。
正面から龍宮家当主に取り入ろうとする女など、そうはいないだろう。ここにいるのは、揃いも揃って体裁を気にした慎ましやかなご令嬢ばかり。そんな中で「私を妻に!」と名乗り出れば、征嵐を驚かせ、興味を持たせることが叶う筈。そうして征嵐の目に、沙羅は『おもしれー女』として映るに違いない。
最終的には、向こうから婚姻を望ませてやろう――というのが、沙羅の思い描いていた作戦だった。
これから時間をかけて、ゆっくりと篭絡しようと画策していた。にもかかわらず、沙羅はまだ肝心の「私を妻に」という一言すら口にしていない。
それなのに。
「い、今のは……」
誰かが呆然と呟いた。
「征嵐様は、蛇塚の姫君を奥方にすると仰ったの……?」
その一言を皮切りに、静まり返っていた広間にざわめきが戻る。先程とは比べものにならない。
「まさか、本当に?」
「龍宮家と蛇塚家が?」
「しかし四百年前のこともある。龍宮家が許すはずが……」
「だが、征嵐様ご自身が仰ったのだぞ」
――まずい。非常にまずいですわ、これは!
話は、沙羅が予想だにしなかったとんでもない方向へ走り始めている。
沙羅は慌てて征嵐を見上げるが、当の本人は周囲の騒ぎなど気にも留めていない様子だった。
「せ、征嵐様」
「何だ」
「少しよろしいかしら!?」
「ああ」
「さあ、こちらへ!」
返事を待たず、沙羅は広間の端へと歩き出した。
後ろから冬弥の「沙羅……」という何とも疲れ切った声が聞こえた気がしたが、今は全てが些事だ。兄の声を無視して、沙羅は歩みを進めた。




