3.
広間の端まで進んだところで、沙羅は硝子張りの扉に手を掛けた。
扉の向こうには、庭園を一望出来る広いバルコニーが設けられている。幸いなことに人影はなく、沙羅は迷うことなく扉を押し開けた。
途端、ひやりとした夜風が頬を撫でる。
日は疾うに暮れ、見上げれば雲一つない夜空に白い月が浮かんでいた。眼下には龍宮家自慢の広大な庭園が広がり、点々と置かれた灯籠の淡い光が、丁寧に刈り込まれた植木や池の水面を仄かに照らしている。
背後で扉が閉まる音がした。
先程まで耳を満たしていた楽団の演奏も、人々のざわめきも、厚い硝子戸一枚を隔てただけで随分と遠くなった。先程まであれほど大勢の人間に囲まれていたというのに、今ここにいるのは沙羅と征嵐の二人だけだ。
それを意識すると妙な緊張を覚えたが、今はそれどころではない。沙羅は胸いっぱいに夜風を吸い込み、勢いよく振り返った。
「どういうおつもりですの!?」
征嵐は、すぐ後ろに立っていた。こうして二人きりになってみると、やはり大きい。沙羅が精一杯睨みつけようにも、どうしたって見上げる格好になってしまうのが少々癪だった。
「どういう、とは」
「とぼけないでくださいませ。先程のことですわ!」
「先程?」
「私を妻に娶ると仰ったでしょう!」
声を荒らげてから、沙羅ははっとして背後を振り返った。硝子戸の向こうでは相変わらず大勢の人々が行き交っているが、幸いなことにこちらの声までは聞こえていないらしい。
とはいえ、これ以上騒いで注目を集めるわけにもいかない。念のため一歩征嵐へ近づき、微かに声を潜めた。
「確かに私は、あなたが奥方を探していると聞いて話しかけました。けれど、まだ何も申し上げていなかったでしょう?」
「ああ」
「ああ、ではありませんわ!」
「違うのか」
「違う、とは?」
「俺の妻になるつもりで声を掛けたわけではないのか」
「それは……」
思わず唇をまごつかせたのは、征嵐の指摘が事実だったからだ。違わない。むしろ、その通りである。
征嵐を手に入れると決め、折よく妻を探しているという話を耳にしたからこそ、こうして声を掛けたのだ。だから目的だけを見れば、これ以上ないほど順調に事が運んでいると言える。
けれど、そういう問題ではない。
「……なるつもりでしたわ。仰る通り、貴方の妻に」
「ならば問題ないだろう」
「大ありです!」
再び声を荒らげそうになり、沙羅は慌てて口元を手で覆った。続けてわざとらしく咳払いを一つ零し、人差し指を征嵐に向ける。この場に冬弥がいれば、不敬だと叱られてしまいそうな所作だ。
「いいですこと? 私が言いたいのは、結果の話ではありませんの。大切なのは順序です」
「順序」
「そうです。私はこれから、あなたに私という女がいかに素晴らしいかを存分にお見せして、最終的にはあなたの方から『どうか妻になってくれ』と言わせるつもりでしたの。それなのに……っ! あなたが勝手に先回りしてしまったら、何の意味もないではありませんか!」
そこまで一息に言い切って、沙羅はふんと鼻を鳴らした。
我ながら理路整然としている。少々予定とは違ってしまったものの、これで征嵐にも自分が何に腹を立てているのか理解出来ただろう。
ところが返ってきたのは、――「そうか」。やはり、短い一言だけだった。
「……それだけですの?」
「沙羅の考えは理解した。他に、何と言えばいい?」
「例えば、……申し訳なかった、とか?」
「なぜ俺が謝る」
「だ、だって! 私の計画が台無しですわ! それに突然、め、娶るだなんて……! すごく驚いたんですからね、私!」
「ふ……」
「笑った!? 征嵐様、今笑いましたわね!?」
微かに空気を震わせた笑い声に、沙羅は思わず拳を握る。
これが龍宮家の当主でなければ、今頃胸倉の一つでも掴んでいたかもしれない。いや、龍宮家の当主であっても、あと少し腹が立ったら掴むかもしれない。何せ向こうは先程、沙羅を妻に娶ると皆の前で宣言したばかりなのだ。未来の妻が胸倉を掴むくらい、大目に見てもらいたい。
そんな滅茶苦茶な理屈で己を正当化し始めたところで、征嵐がふいに口を開いた。
「だが、わかった」
「……何がですの?」
「お前は、俺に求婚させたかったのか」
「――っ、そういう言い方をしないでくださる!?」
「違うのか」
「違いませんけれど!」
「ならば、そういうことだろう」
「もう!」
――ああもう、なんて調子が狂うのかしら!
何を言っても動じないばかりか、こちらが投げた言葉をそのまま返されて、気付けば沙羅の方が狼狽えている。
こんなはずではなかった。
沙羅はたまらず征嵐から顔を背け、バルコニーの欄干へと歩み寄った。火照った頬を冷ますように吹き抜ける夜風が、今ばかりは心地良い。
眼下に広がる庭園を眺めながら、どうにか気持ちを落ち着けようとするが、あまり効果はなかった。
――人との駆け引きには長けている方だというのが、沙羅の自認だった。それは驕りでも何でもなく、蛇塚に生まれた者として幼い頃から身につけてきた処世術でもある。
蛇塚家に代々受け継がれている異能は、《蛇眼》。
目を合わせた相手の感情の機微を感じ取ることが出来る力だ。強い感情ほど鮮明に伝わり、熟達者ともなれば、好意や敵意、恐怖、動揺といった細かな感情まで判別出来る。思考や記憶そのものを読むことは出来ないものの、蛇塚家は古よりこの異能を用いて人の腹を探り、外交の一端を担ってきた。
だからこそ、『蛇塚は人の心を見透かす』などという尾鰭のついた噂が広まったのだろう。実際には相手の考えていることが何もかも筒抜けになるような便利な力ではないのだが、一度根付いてしまった悪評を訂正して回るほど、沙羅も暇ではない。
加えて沙羅自身、相手の顔色や仕草からその腹の内を推し量ることには慣れていた。
目を逸らす。声が上擦る。口元を強張らせる。そうした僅かな変化を拾い上げれば、相手が何を嫌がり、何に心を動かされているのかは自ずと見えてくる。幼い頃から周囲の悪意に晒されてきた沙羅にとって、人の顔色を窺い、その腹の内を推し量ることは、とうに癖のようなものになっていた。
相手が何を言えば怯むのか。何をすれば怒るのか。何を欲しがっているのか。
それを見抜き、先回りするのは、いつだって沙羅の方だった。
ところが征嵐相手には、どうにも調子を狂わされてばかりだ。
何を言っても動じない。表情にもほとんど出さない。こちらが一枚上手に出たつもりでも、気付けば当然のようにその先を行かれている。
それが、不思議と不快ではなかった。むしろ自分の思い通りにならないからこそ、もっと知りたいという気持ちが湧いてくることに、沙羅は気が付いていた。




