1.
「ああ、来たぞ。蛇塚の姫君が」
「相変わらずお美しいこと。今宵は誰を惑わせようというのかしら」
「しっ、聞こえるぞ。口を慎めよ。あれでも一応、十二家に名を連ねているのだからな」
「汚らわしい。どうしてあの一族が、未だ十二家の一員なの?」
――聞こえていますわ。わざとらしい。
ひそひそ、ひそひそ。周囲の囁きを拾い上げ、蛇塚 沙羅は微かに表情を顰めた。しかしすぐに姿勢を正し、代わりに鋭い視線を声がした方へと向ける。
沙羅の鋭い眼差しに気付いたらしく、輪になっていた者達は気まずそうに視線を逸らした。中には背を縮こまらせて、その場からそそくさと立ち去る者もいる。その背を見遣り、沙羅は小さく溜息を零した。
――情けない。睨まれた程度で逃げ出すくらいなら、最初から黙っていればいいのに。もしくは、正面から悪態をつきにくればいいのに。そうすれば。
「……『喧嘩を売ってくれたなら、正々堂々打ち負かしてやるのに』? やめなさい、沙羅」
「お兄様!」
胸裏を見透かされたような発言。背後から聞こえた声に、沙羅は顔を上げた。
振り返った先には、兄の蛇塚 冬弥が立っていた。沙羅と同じ白銀の髪を持つ兄は、妹とよく似た端正な顔立ちをしている。けれど、勝気な印象を与える沙羅とは対照的に、その顔に浮かぶ表情はいつも穏やかだ。もっとも、今はそこに幾分かの呆れが滲んでいる。
沙羅はその顔を、今までに幾度となく見てきた。彼女が好戦的な態度を見せた時に、決まって兄はその顔をするからだ。心労をかけていることは見て取れるが、かといって己の態度を改めるつもりはないというのが沙羅の本音だった。
細い腰に片手を添え、沙羅はふんと鼻を鳴らす。
「さすがお兄様。私の考えていることなんてお見通しですのね。仰る通りですわ。陰口なんて、誇り高き十二家として言語道断。文句があるのならば正々堂々戦ってこそ、ですわ」
「一理ある。一理あるが、時には波風を立てないように場を収めるというのも大切なんだよ。ここがどこで、今日が何の日か、沙羅だって忘れたわけではないだろう」
「……もちろん。ここは龍宮家の本家で、今日は当主の襲名式。こんな日に騒ぎを起こすなって、そう仰りたいのでしょう」
「わかってくれて嬉しいよ。もちろん正々堂々と振る舞うことだって大切だが、真っ向から対立するだけでは守れないものもあるからね。相応の振る舞いというのも身につけなければ」
「わかっています、もう飽きるほど聞きましたわ」
小言じみた冬弥の言葉は、沙羅がこれまでに幾度となく聞いてきたものだ。沙羅は正しくないと思ったことには正面から異を唱えがちだが、兄はそれを良しとしない。理解は出来るが、素直に従う気にはなれないというのが本音だった。
「わかったなら、次からはああいう陰口も聞き流しなさい。言いたい者には言わせておけばいい。それが家の品格を落としていると、彼らだっていずれ気付くだろう」
「……でも、そうやって黙ってばかりだから悪く言われるのでしょう。『蛇塚は人の心を惑わす』『人の心を見透かす』だなんて。私達の異能は、そんなものではありませんのに」
ぽつりと吐息混じりに零した言葉に、冬弥が口を噤んだ。兄にも思うところはあるのだろう。
この国には、古くから『異能』と呼ばれる力が存在する。
それは特定の血筋にのみ受け継がれる、人智を超えた力だ。その源流は動物や霊獣、あるいは神格と呼ばれる人ならざる存在にあり、どの血を継いでいるかによって、発現する力の性質も強さも大きく異なる。
そんな異能を受け継ぐ数多の家系の中でも、とりわけ古い歴史を持ち、強大な力を有する十二の名家がある。
政治、軍、財界――この国を動かすあらゆる場所に深く根を張り、時には表から、時には裏から歴史そのものを動かしてきた家々を、人々は畏敬を込めて『十二家』と呼んでいた。
蛇塚家もまた、その一角を担う家系である。
もっとも、序列だけを見れば十二家の中では最下位だ。
蛇塚の異能が弱いわけではない。むしろ、力だけを見れば十二家の中でも稀有な部類に入る。それでも蛇塚が末席に追いやられ、長きにわたって忌み嫌われているのには、四百年前から語り継がれる一つの言い伝えが関係していた。
――かつて蛇塚家には、白蓮という名の女当主がいた。
白蓮はその美貌と異能を用いて当時の龍宮家当主を惑わせ、世界を我が物にしようと企んだのだという。
その企みが何を引き起こし、どのように終わったのか。詳しいことは沙羅も知らない。四百年前に起きた大きな災禍によって当時の資料のほとんどが失われ、今となっては真実を知る術がないからだ。
それでも、――否。真実を知る者がいないからこそ、人は言い伝えを信じるのかもしれない。
白蓮は男を惑わす悪女であり、蛇塚はその血を受け継ぐ忌まわしい一族。それが四百年を経た今もなお、まことしやかに語り継がれている。
沙羅は生まれた時から、その言い伝えと共に生きてきた。
白蓮と同じ白銀の髪を持って生まれれば「悪女の生まれ変わり」と囁かれ、成長するにつれて容姿が整えば「男を惑わせる顔だ」と囁かれる。気の強さを見せれば「やはり蛇塚の女だ」と眉を顰められ、黙っていれば黙っていたで、何を考えているかわからないと気味悪がられた。
一体どうしろというのだ。
大人しく俯いて、蛇塚の血を引いて生まれてきてしまい申し訳ありませんと謝れば満足するのだろうか。
冗談ではない。
四百年前の先祖が何をしたかなど、沙羅には関係のないことだ。ましてや、その真偽すら定かではない言い伝えを理由に、どうして自分達が肩身の狭い思いをしなければならないのか。
だから沙羅は、何を言われようと顔を上げ続けると決めていた。
今日だって然り。先程の者達を退けたとはいえ、沙羅に向けられる視線にはどこか棘がある。中には扇の向こうからこちらを窺い、沙羅と目が合った途端に慌てて顔を背ける令嬢までいた。思わず背を丸めそうになるのを堪え、沙羅は正面を見据えた。
自分は何も悪いことをしていない。それなのに俯けば、まるで自分達の血を恥じているようではないか。
「……申し訳ありません。ここでお話することではありませんでしたね」
少しばかり熱くなってしまったことを誤魔化すように、沙羅は広間へと視線を巡らせた。
「そろそろ龍宮家の当主様がいらっしゃる頃かしら」
龍宮家本邸の大広間は、十二家筆頭の名に恥じぬ荘厳な造りをしていた。
吹き抜けになった高い天井には、幾千もの硝子を連ねた巨大な燭台が吊り下げられ、その光が磨き抜かれた大理石の床に眩いほど反射している。正面には二階へと続く大階段が設えられ、その両脇を飾る太い柱には、雲間を駆ける龍の姿が精緻な彫刻で刻まれていた。
招かれているのは、十二家の当主やその親族だけではない。軍の高官に政府の要人、財界を牛耳る名士達と、この国において名を知らぬ者はいないほどの人間が一堂に会している。
その誰もが着飾り、グラスを傾けながら談笑している様子は華やかである一方、沙羅にはどこか息苦しくも感じられた。
これだけの人間を一声で集められるという事実そのものが、龍宮家の持つ力を示しているのだろう。
十二家第一位、龍宮家。
その源流は、四神が一柱――《青龍》。
十二家の中でも青龍、朱雀、白虎、玄武の四神を祖とする家系は別格とされ、その中でも龍宮家は長きにわたり筆頭の座に君臨し続けている。そして今日、その龍宮家に新たな当主が誕生するのだ。
やがて、ざわめきに満ちていた広間が静まり返った。誰かが合図をしたわけではない。
それでも人々は示し合わせたかのように口を閉ざし、一斉に正面の大階段を見上げた。その最上段に、一人の男が姿を現したからだ。
「征嵐様……!」
誰かが、感嘆を含んだ声を零す。
龍宮 征嵐。
本日、正式に龍宮家の当主を襲名する男だった。
黒を基調とした正装に身を包み、背筋を伸ばして立つ姿には、遠目からでも人目を惹きつけるものがある。艶やかな黒髪は後ろへ撫でつけられ、端正な顔にはこれだけの人間から視線を集めているというのに、緊張らしいものは少しも浮かんでいない。
ゆっくりと階段を下りてくるその姿を見つめながら、沙羅は僅かに眉を上げた。
「素晴らしい佇まいだ。やはり十二家の頂点に立つのに相応しいお方だな」
「先代様も立派なお方だったが、征嵐様も劣らぬ当主になられるだろう」
周囲から次々と称賛が上がる。凛々しいその姿は、確かに威厳がある。若くして十二家筆頭の当主になるのだから、実力だって申し分ないのだろう。
けれど沙羅は、周囲と同じように無条件で称賛する気持ちにはならなかった。少し離れたところから、沙羅はじっと征嵐の姿を見つめる。
――ずいぶんと皆に好かれているのね。
何となく面白くない。龍宮家に生まれたというだけで、まだ当主にもなっていない男をこれほど褒め称えるものなのだろうか。
「また妙な顔をしているね」
傍らに立つ冬弥から声を掛けられ、沙羅はむっと唇を尖らせた。
「妙な顔とは失礼ですわね、お兄様」
「では、何を考えていたんだい?」
「皆があまりにも褒めるものですから、本当にそれほどのお方なのかしらと思っていただけです」
沙
羅の答えに、冬弥は一瞬黙り込んだあと、困ったように眉を下げた。
「……私以外の前では言わないようにね」
「わかっていますわよ」
口を尖らせながら答え、沙羅は再び征嵐へと視線を戻した。
沙羅は、肩書というものをあまり信用していない。
十二家に生まれたというだけで人間の価値が決まるのなら、先程こそこそと陰口を叩いていた者達だって立派な人間ということになってしまう。それではあまりに馬鹿馬鹿しい。
生まれがどうであれ、結局のところ、その者の価値を決めるのは本人の振る舞いだ。
だから沙羅は、見極めてやろうと思った。
龍宮征嵐という男が、本当に十二家の頂点に立つに値する人間なのか。
程なくして、襲名の儀が始まった。
龍宮家の当主として守るべきもの、背負うべきものが読み上げられ、先代当主から征嵐へと当主の証である刀が受け渡される。
それまで興味深そうに儀式を眺めていた沙羅だったが、やがて僅かに目を細めた。征嵐は、ほとんど表情を変えなかった。
広間を埋め尽くすほどの人間が、自分の一挙手一投足に注目している。それだけではない。今日この瞬間から、龍宮家のみならず十二家の頂点に立ち、この国を支える一人として振る舞うことを求められるのだ。
沙羅だったら、そんなものは御免だと思う。ただでさえ十二家というだけで、生まれた時から好き勝手なことを言われ続けてきたのだ。その頂点ともなれば、背負わされるものの重さは蛇塚家の比ではないだろう。
それなのに、征嵐は平然とそこに立っている。もちろん、何も感じていないはずはないだろう。
ならば、あの男は。――すべてを背負った上で、顔を上げているのだ。
そう思った瞬間、沙羅の中で征嵐を見る目が僅かに変わった。周囲から何を求められようと、何を背負わされようと、それに押し潰されることなく、自分の足で立っている。
それは沙羅が、ずっとそうありたいと願ってきた姿でもあった。
やがて襲名の儀は恙なく終わり、龍宮征嵐が正式に新たな当主となったことが告げられた。割れんばかりの歓声と拍手が、広間全体を包み込む。沙羅も皆に倣って手を叩きながら、征嵐を見つめていた。
少しだけ、気に入った。
皆が褒め称えているからではない。龍宮家の当主だからでもない。
あれほど多くのものを背負わされてもなお、堂々と立っているその姿を、素直に美しいと思ったのだ。
――その時だった。征嵐が、ふいに沙羅へと視線を寄越した。正確には、そう見えただけなのかもしれない。
広間には数え切れないほどの人間がいる。二人の間を遮るように大勢の招待客が立っているのだから、わざわざ征嵐が沙羅を見たなどと考える方が自意識過剰だろう。
それでも確かに、征嵐の眼差しが自分に注がれたような気がした。射貫くようなその眼差しを受けた瞬間に、沙羅の心臓が大きく震えた。
萎縮したわけではない。恐ろしいとも思わなかった。むしろ、逆だった。
胸の奥から、何かが湧き上がってくる。
それは幼い頃から何度も沙羅を突き動かしてきた、ひどく馴染みのある感情だった。
誰かに無理だと言われれば、やってみせたくなる。
手が届かないと言われれば、余計に手を伸ばしたくなる。
女だから、蛇塚だから、白蓮の血を引いているから。そうやって誰かに自分の限界を決められるたびに、ならばその先まで行ってやろうと思ってきた。
そして今、目の前には、この国で最も高い場所に立つ男がいる。
十二家第一位、龍宮家。
四神《青龍》の力を受け継ぐ、若き当主。
誰もが敬い、誰もが羨望し、その隣に立つことを夢見るような男。
――もし。もしも、あの男の隣に立つ女が――自分だったなら。
ふと浮かんだ考えに、他の誰でもない沙羅自身が驚いた。今まで顔を合わせたことすらない相手、しかもこの国の頂点に立つ者の元へ、忌み嫌われた蛇塚の女が嫁ぐなんて。周囲からしてみれば、夢見ることすら烏滸がましい話だ。
けれど一度思い浮かべてしまえば、それは存外悪くないように思えた。悪くないどころか、実にいい。
『蛇塚は汚らわしい』
『人を惑わし操る毒婦の一族』
『十二家に名を連ねているだけでも有り難く思え。
脳裏に翻るのは、今まで散々投げ掛けられてきた侮蔑の言葉だ。幼い頃からずっと、沙羅は心無い言葉を口にする者達を見返したいと思っていた。家族のために、自分のために。
今まではどうすればいいかと思い悩んでばかりいたけれど、今は違う。
見下されたくないのなら、高い場所へ行ってしまえばいいのだ。
沙羅はもう一度、征嵐を見る。あの男なら、――誰にも頭を垂れず、あれほど堂々と立っていられる男なら。その隣に立つ自分も、きっと俯かずにいられるだろう。
胸の奥で、何かが跳ねた。心臓が拍動するたびに、頭のてっぺんから爪先まで、急速に熱を帯びていく。
この感情に授けるべき名前は、果たして何が相応しいのだろう。恋だろうか。違う。これは決して、そんなに眩しいものではない。漠然と、――欲しいと、そう思ったのだ。
欲しい。
あの場所が。
あの男の隣が。
これまで自分を見下してきた者達を、逆に見下ろせるほど高い場所が欲しい。
己の中に存在する願望を自覚してしまった以上、沙羅には諦めるという選択肢はなかった。
「兄様。私、決めましたわ」
沙羅は、小さく呟き落とす。
「ん? 何をだい?」
怪訝そうに尋ねる冬弥には答えず、沙羅は征嵐を見つめた。既に征嵐は、沙羅を見てはいない。
今はまだ、それでいい。これから見てもらえばいいのだから。
そう思うと、自然と口元が綻んだ。
「――私、あの人を手に入れてみせます。絶対に」
この時の沙羅は、まだ知らない。
四百年前、蛇塚の女が龍宮の男を惑わせたという忌まわしい言い伝えが、これから自分自身を巻き込み、再び動き始めることを。
そして――手に入れてやろうと目をつけた男が、ずっと前から、沙羅だけを見ていたことも。




