月夜の出来事
妖艶な月の夜だった。
まだ冷たい夜風が黄色い花のついた野草を揺らし、水が張った田んぼからは蛙の鳴き声が聞こえる。
夜を歩くことの愉しみ方は、昼間には見えないものを見ようとすることだ。
どこまでも遠くまで続く田んぼは、鏡のような水面に夜空の雲と真っ白い月を映していた。
俺は二つの世界の境界線のような畦道を再び歩き出した。
田んぼに浮かんだ夜空を眺めながら歩いていると、月のように白い二本の腕が雲の間を泳ぐように現れた。
この腕はどちらの世界のものだろうかと顔を上げると、俺の少し先に腕は漂っていた。
それは肘から先しかなかったが、とても美しい女性の腕だろうということが分かった。
腕はしなやかな動きで月をなぞり、ピアノを弾くような軽やかさで空をすべった。
俺は腕の虜になった。恍惚とした気持ちで腕のあとを追った。
あの腕に触れたい。
腕も俺に追いかけられているのが分かるのだろう。俺が触れようとすると、いたずらっぽい動きで逃げた。
それは恋人同士の追いかけっこのようだった。
いや、その瞬間の俺と腕は想いが通じ合った恋人同士だった。
この甘美な時間が永遠に続けばいいと思った。
突然、腕は二つの掌を俺に向けて、止まった。
それは制止――ストップのジェスチャーだった。
これ以上近づいてはいけないと俺に訴えている。
俺は腕に触れたい。できることならその腕を抱いて愛したい。
君にもっと近づきたい。それが許されないものだとしても。
………俺は一歩ずつ、少しずつ腕に近づいた。
腕はなおも俺を止めようとする。前に突き出した両手を振るしぐさは焦っているように見える。
さっきまであんなに分かり合えていた二人なのに……俺は悲しい気持ちで、また一歩、前に出た。
ずるっ。
………ずるっ?
足の裏に、土を踏んだときとは違う、やわらかい感触があった。
俺は足元を見た。
俺は顔を上げた。
目の前に広げられた二つの掌の、指のかたちが変わっていく。
細く白い美しい人差し指に、中指が絡まって交差していく…。
これは…。
不浄な穢れが己に感染らぬよう防ぐ、魔除けの指印結界………。
俺はえんがちょ切られてしまった。
俺が何を踏んだのか。それを言う必要があるだろうか。




