33.練習の成果
佐倉との練習や風呂場での熱唱を胸に迎えた日曜。
カラオケ店は、当然ながら賑わっている。
例によって変装したクレアが受付に行き、慣れた様子で手続きを済ませ、俺たちは奥の部屋に通された。
防音の扉が閉まると、廊下で流れていた流行りの曲がまったく聞こえなくなった。
部屋に入ると、彼女は変装アイテムを取らずに上を見て、監視カメラの場所を探った。
そして、カメラから顔が見えないように位置どりして腰を下ろし、マスクやサングラスを外す。
この瞬間は、何度見ても息を呑んでしまう。
竹の中にかぐや姫を見つけたお爺さんは、きっとこんな気持ちだったのだろう。
「先生、緊張してますか?」
俺の顔を見てクレアが言った。
「……してませんよ」
「ふふっ、顔がかたいです」
マイクの置かれた狭い個室で彼女と二人きり。
恋人でなかったとしても、平静でいられる男など、この世に存在するのだろうか。
「わたしから歌いますね。先生、聞いててください!」
クレアが端末を操作して、一曲目を入れる。
俺の知らない曲だった。
前奏が流れ始めると、彼女はマイクを両手で包むように持って、軽く目を閉じる。
最初の一音で部屋の空気が変わった。
テレビやイヤホン越しに聞くのとはまるで違う。
声が直接身体に届く。低いところは落ち着いていて、高いところは澄んでいて、息継ぎの音まで曲の一部になっている。
俺は取材のことを忘れて、ただ聞き入っていた。
彼女は歌手ではないが、間違いなくプロのパフォーマンスだ。
そして、サビに入る手前で、彼女の声が一瞬だけ揺れた。
音を外したのではない。
技術のことは分からないが、その揺れには感情が乗っている。
何かを思い出しているような、一次情報的な震え方。
遠距離恋愛の歌で、会えない相手を想う内容だった。
彼女が誰を思い浮かべているのか、俺には知る由もない。
しかし、その相手のことを心から大切にしているのだという事は、火を見るより明らかだ。
歌が終わって、彼女がこちらを見た。
「どうでしたか?」
「……すごかったです。小説家なのに、語彙がなくてすみません」
「嬉しいです!」
彼女がはにかむ。
その顔を見て、俺は佐倉のことを思い出した。
全力で盛り上げるのが礼儀だと、あいつは言っていた。
サビでは手拍子、間奏では合いの手。
相手が気持ちよく歌えるように応える。
それがデートの作法だと。
次にクレアがもう一曲入れたとき、俺は実践してみることにした。
入ったのはアップテンポの曲だ。
サビに差しかかったところで俺は手を叩き、佐倉に教わった通りの合いの手を入れる。
「ヘイ!」とか「もう一回!」とか、そういうやつである。
タオルはないので、おしぼりで代用しようとしたが、流石にやめておく。
そして、俺の盛り上げの成果だが……クレアは歌いながら固まっていた。
目を丸くしてこちらを見ている。
それでも歌はプロなので、リズムは一切崩れていない。
ただ、その視線は歌詞とはかけ離れて、「この人は何をしているんだ」と言っていた。
そんな目線が刺さって、途中で我に返る。
冷静になってみれば……かなり異様なことをしているかも。
曲が終わると、彼女は数秒黙って、それから吹き出した。
「せ、先生、今の、なんですか?」
「……その」
「合いの手、入れてくれてましたよね? “ヘイ!”って……んふふ」
笑いをこらえきれていない。
俺は完全に読みを誤ったらしい。
「……失敗しました。忘れてください」
「どうして急に、あんなことを?」
「その……友達に、練習に付き合ってもらったんです」
観念して、俺は白状した。
「今日のために、カラオケの感覚を取り戻しておこうと思って。そいつがやたら詳しくて、相手が歌ってるときは全力で盛り上げるのが礼儀だと、そう教わったんですが……」
「その教えを、忠実に守ってくれたんですね」
「……結果として、こうなったわけです」
俺は自分の顔が熱くなるのを感じた。
しっかり説明すればするほど間抜けさが際立つ。
ところが、クレアは笑っていなかった。
さっきまで吹き出していた彼女が、今は口元を押さえて、じっとこちらを見ている。
その目が、少しずつ潤んでいくのが分かった。
「先生、練習してくれたんですね」
「……はい?」
「わたしとカラオケに行くために、わざわざ」
確かに、俺は練習してきた。
佐倉を巻き込み——どちらかといえば巻き込まれて——取材のために。
だが、こうして彼女に言われてみると、それだけではなかった気もしてくる。気はするが、素直頷く事はできそうにない。
「……取材の準備です。恥をかいたら、まともに観察もできませんから」
「先生は素直じゃないですねぇ」
クレアが意地悪そうに笑い、少し目を逸らして、今度は柔らかく笑った。
こちらの胸の奥を静かに押してくるような笑み。
俺はどう反応していいか分からず、目の前のおしぼりに視線を落とした。
「嬉しいです、すごく」
「……そこまで喜ぶことじゃ、なくないですか?」
「喜ぶことですよ。先生が時間を使ってくれたっていうことが嬉しいんです」
彼女はいつも直球を投げてくる。
俺が斜に構えて、遠回りして、否定形でしか物を言えないのとは正反対だ。
その率直さに、いつも押し切られてしまう。
「それで、合いの手の練習の成果は、もう十分見せてもらったので、次は先生が歌ってください! わたしが聞く番です」
「……歌うんですか、俺が?」
「はい。練習してきたんですよね?」
「練習はしたんですけど……真昼さんの後に歌うのは、その……」
俺の三十しかない歌唱力が、練習によって五十になったとする。
しかし、二万のクレアの後に歌えば三十も五十もミジンコなのだ。
「それじゃあ、わたしからも先生にアドバイスです。歌は音程じゃなくて、どれだけ楽しく歌えるかですよっ!」
逃げ場はなさそうだ。




