第五章 転結編
ある日の大学でのこと。
「こんにちは、アナスさん」
「白ウサギ(P.N)さん、変な呼び方しないでください。え、なんですか、それ」
キャンパスを行く私の前には、ベビーカーを押す白ウサギ(P.N)さんの姿がありました。
「ベビーカーなんて呼び方は古いよ。今はバギーって呼ぶんだよ」
「そうだったんですか。でも、どうしてバギーを?」
変なイベントに参加したせいで、変な男につかまって妊娠したのか。白ウサギ(P.N)さんは自慢げに語ります。
「これは穴の対策だよ。これを押して歩いていれば自分が穴に落ちる前に、バギーの前輪が落ちかけて穴に気付くことができるの」
よく見れば赤ちゃんは載っていません。代わりにカバンが収まっています。私は困惑しました。
「わざわざ、そんな……」
わざわざ、そんなモノに頼らずに前を向いて歩けば? そう言いかけて口をつぐみます。それができれば苦労はしない。
「バギーは便利だよ。教科書の入った重いカバンを背負うよりも、バギーに載せて押したほうが楽だし。それにデコることもできるしね」
「はぁ……ところで白ウサギ(P.N)さんの前に穴が出てきたことはあるのですか」
「ないよ。じゃあね」
ないのに。白ウサギ(P.N)さんはヤンママのごとく軽快に走りで、バギーを押して去っていきました。解せん。
★
『空前のバギーブーム到来! 若い女性たちのあいだではバギーをカスタマイズしたり、デコレーションするのが大流行。100円ショップではバギー用のアクセサリーが棚を占拠し、大手ブランドがバギーの発売を決定。少子化であえぐバギーメーカーには嬉しい悲鳴!』
赤ちゃんがいなくてもバギーを押す新しい生活。若い女性が押すバギーはファッションバギーと呼ばれ、新語流行語に選ばれたとか、選ばれないとか。
穴需要によって、傾いていた経済は持ち直したとか、しないとか。
一方、ファッションバギーの流行でエレベーターがすぐに満員、赤ちゃんを載せているバギーがエレベーターになかなか乗れない。電車内では、若い女性が慣れないバギー操作で人にぶつかり、トラブルになるなどの社会問題が発生しました。
★
「ぐえぇぇ!」
相変わらず穴に落ちる私。這いだしてみれば、周囲の冷たい視線。心がベキベキと折れていく毎日です。
歩きスマホをしていなくとも、穴は心の隙をついてやって来る。
この頃になると、穴というよりも人の視線に恐怖を感じるようになってきました。
「もう、外には出られない」
外に出れば穴がある。視線がある。
私は大学に行けなくなり、家に引きこもるようになりました。
★
引きこもって一週間目。家にある食べ物も尽きはじめます。
「買いものくらいは行ったほうが良いですよね」
近所の商店街に来てみました。車一台がやっと通れる歩道の脇には商店が連なります。
昼時は歩行者天国ということもあり、バギーを押した御婦人方が縦横無尽に行きかっておりました。バギーを押す女性が多いため、人数のわりには混雑していますね。
「私はコンビニへ行きたいだけなんですが」
人混みを掻き分けて、商店街の中央にあるコンビニを目指します。
ああ、人の視線が気になる。誰も私を見ていないだろうな。
行きかう人々が私を見ていないかと注意深く見渡します。目が合えば、すれ違ったあとに振り向き、まだ見てないかと確認します。
ふと、通りの中央で一点を見つめている男の子を見かけました。五歳くらいの男の子です。視線を追えば居酒屋の看板の上に鎮座するウミガメの模型がありました。ウミガメが好きなのでしょうか。
ビッビーっ!
そのとき、商店街の入口のほうから車のクラクションが聞こえてきたのです。
「きゃっ」
「あぶないっ」
「うあっ」
同時に悲鳴が聞こえてきます。見ればピンクの軽自動車が突っ込んでくるではありませんか。こんな人ごみの多いところに車が来るなんて。そもそも、この時間は歩行者天国。一般車の立ち入りは制限されています。
異常な勢いでやって来る自動車。ほかのお客さんたちは悲鳴を上げながら道の脇や商店の中に避難します。じゃあ私も。
「あ!」
男の子は未だ逃げもせず、看板のウミガメを見上げておりました。そんなにウミガメが好きですか。
近づいてくる車の運転席に目を向ければ、肥えた猫のような顔のお爺さんが必死の形相でハンドルを握っていました。ひょっとしてアクセルとブレーキを踏み間違えているパターンなのでしょうか。
男の子はまだ動かない。このままでは。
私は男の子のもとへ向かい、抱えました。道の脇に避難を。
ところが道の脇は、すでにお客さんで埋め尽くされていたのです。お客さんのほとんどがファッションバギーを所有しているモノだから、そのぶんスペースが圧迫されて、もはや私たちが逃げ込む余地は無かったのでした。
「こうなりゃ走りながら探すっ!」
私は子供を抱えながら、迫りくる車から逃げました。
どこにも避難できるスペースがない。ファッションバギー、流行りすぎだっていうの。
「そうだ!」
これだけ流行っているんです。赤ちゃんや荷物を載せてないバギーは……あった。
「この子を頼みます」
空のバギーを押す女性を見つけ、バギーに男の子を放り投げました。男の子はバギーにおさまります。あとは私の身の安全を確保できれば。
迫りくる車。走る私。だけど相手は車でした。グングン追いつかれて。どうすれば。
そうだ。穴。穴だ。穴があれば避難できる。私が穴に落ちて、運よく車が頭上を通過してくれれば。穴、お願い、出てきて。
「ぐええ!」
しかし私は転倒してしまいました。一週間ずっと家から出なかったせいで、足の筋肉が衰えて、もつれてしまったんです。
倒れた状態でうしろを見れば、車はもうそこまで迫ってきていました。
車のナンバーとボンネットのあいだ、ちょうどメーカーのエンブレムがある高さと、私の頭の高さが同じくらい。距離はおよそ5メートル。
ああ、これは頭をぶつけて死ぬな。そう死を覚悟したときでした。
ドガン!
車が急に傾いたのです。車の前部が斜め上を向いた状態で、私の前で止まっております。
「一体なにが……」
立ち上がり確認すれば……。
車体の後部が、突然出現した大きな穴に沈み込み、なんとか前輪だけで地表に留まっている状態でした。それはまるで穴に落ちまいと、地表に手をかけて踏ん張っている人間のように。
そして、車は後部からズルズルと穴の下に落ちていきました。
★
商店街の歩道に突如現れた大穴。この穴は縦の長さが10メートル。深さ3メートル。横の長さが3メートル弱という、これまでに出現した穴よりも大きなモノでした。
穴の中心は私から丁度10メートル離れたところにありました。
横の長さ3メートル弱。これは商店街の道幅よりも少し小さなもので、穴は開いたものの商店には被害はありません。お客さんも暴走車を避けて道の端に寄っていたので、落ちる人はいなかったのです。
まぁ、道に穴が開いてしまったため、水道管やガス管が犠牲になり、商店街は営業を続けられる状態ではなかったのですが。
それでも重機を使い、穴から車が引き上げられると。
シュボォォンっ!
穴は見事にふさがったのでした。不思議なことに水道管やガス管も復旧。商店は営業を再開。
いずれにせよ、私は生還したのです。
その後、穴の発生はピタリとなくなりました。私の目の前だけでなく、日本中から穴の出現情報が消えたのです。それは、あたかも穴が全ての力を使いきったかのように。
こんなことがあったからか、私は再び大学に通う勇気を得ることが出来ました。まだ人の視線は気になりますが。
★
ある日のこと。大学のキャンパス内の運動場脇を歩いていると、私のスマホがLINEを着信しました。LINEには先日助けた男の子のメッセージがあります。
「へぇ。今日はお母さんと水族館に行ったのですね」
男の子を助けたあの日、彼のお母さんは深く私に感謝してくれて、男の子と話すうちにLINEで繋がる仲になったのでした。
私は立ち止まり、添付されたウミガメの写真を眺めました。歩きスマホは、もう止めます。危険ですし、歩くときは足下を見たいですから。
足を止め、LINEの写真を眺める私を、隣を歩いていた白ウサギ(P.N)さんが不思議そうに見つめてきます。彼女はもう、ファッションバギーを押していません。単純に飽きたのだとか。彼女は言います。
「そこで立ち止まるんだね」
「え? 何のことでしょう」
その瞬間。ズガァン!
頭に走る衝撃。見ればサッカーボールが足下で跳ねています。察しました。運動場で誰かが蹴ったボールが私に直撃したのです。なんてことだ。
「アリスさん、大丈夫?」
白ウサギ(P.N)さんが不思議そうな眼差しで声をかけてきます。
ん? 不思議そうな眼差し? 心配を湛えた目ではなくて?
「アリスさんは、どうしてわざわざ、運動場の横で立ち止まったの?」
「わざわざって。タイミング良く運動場からサッカーボールが私めがけて飛んでくるなんて、お釈迦様でも想定の範囲外だと思うのですが」
「え? 私は知っていたよ」
なんだって。お主は如来か。
白ウサギ(P.N)さんは空を指さしました。空は青空。本日の降水確率は0パーセント。まぁ、白い雲くらいは浮かんでいますが。
それが何か? そう言おうとしたときでした。私の眼が信じられないモノを捉えます。
「なんじゃありゃぁぁぁ!」
蒼天の白い雲の一部が文字を象っているではありませんか。雲文字はこう書いてありました。
『今日アリスはウンドウジョウのヨコでボールにぶつかる』
私が唖然としていると白ウサギ(P.N)さんは言います。
「空が教えてくれていたのに、どうして運動場の横で止まったの?」
「はぁ? なんなんですか、あの雲。一体いつから。白ウサギ(P.N)さんも知っていたのなら教えて下さい」
「あの雲は朝から浮かんでいるよ。アリスさんのことだから気付いていると思ったんだけどな」
そんな。気付くわけがないでしょう。
視線を感じ、周囲に目を向けると、ほかの学生らが「知ってた」という目で私を見つめていました。
空の雲文字は役目を終えたとばかりに消えていきます。
私が言葉も出ず黙っていると、白ウサギ(P.N)さんは授業のある建物へ歩いていきながら振り向きました。
「足下ばかり見ていると危ないよ。たまには見上げながら歩かなくちゃね」
★
「あなた、さっきから私を見ていますね。私の危機を知っているのでしょう。教えて下さい」
「なんだ、この女。たまたま目が合っただけじゃないか」
それ以来、私は目の合う人間に声をかけるようになりました。
「本当は私の危機に気付いているんでしょう。私が不シアワセになってから、知ってた、とか言う気でしょう。白状して下さい」
「この女ヤベェ。関わりたくない」
話しかけた男性は足早に去ってしまいました。
私には不シアワセが待っているはずだ。それを誰かが知っているはずなのです。こちらから積極的に声をかけて危機を回避しなければ。
「アリスさん、こんにちは」
「白ウサギ(P.N)さん。これから私にどのような不シアワセが降りかかるか、教えていただけませんか。足下を見ても、空を見上げても、SNSに目を凝らしても、どこにも私の情報は載っていないのです」
「知らないよ。そんなこと」
「いいえ。誰かが知っているはずです。ここは生きづらい世界なんです。不シアワセは必ずあって、それでも誰かが気付いているんです。あ、そこのお兄さん、いま目が合いましたね。教えて下さい」
目が合った青年に向かっていくと、青年は「え? 知らない」と言って逃げていってしまいました。
誰も私の危機を知らないというのか。すると今日は安全なのか。いや、油断は禁物です。
「誰か、教えて下さい!」
私は周囲の人間に目を向けます。誰も目を合わせようとしません。
それでも誰かが知っているはず。それは向こうから歩いてくる老女なのか。バスの中の幼稚園児なのか。あちらでアクビをしている野良猫なのか。
それとも、さっきから私の言動を観察している、画面の向こうのアナタなのか。
おわり
前回までの後書き。
作者の部屋に虹色のカーテンが出現。突如あらわれたのは、この物語の主人公アリスだった!
「私の作者のくせに、部屋にはろくなものがありませんね」
そう言ったアリスは作者の部屋で横になりながら、作者が買い置きしていたポテチを勝手にむさぼりだした。
(なんて女だ・・・)
作者は呆れながらも、再びスマホに向き直り、この物語の後書き欄に震える指を乗せる。
(作品を書いたからには皆さんに読まれたい。多くの読者様に読まれる手段はひとつ)
そして作者は意を決し、後書きに願望を紡いだ。
「読者様方にお願いがあります。後書き欄の下には☆があります。もしも当作品が面白いと思ったのなら・・・思ってくれたのなら・・・」
「そのときは明日も読んでくださいね!」
「あっ! アリス、何を勝手に!」
「ケケケケ」
高笑いするアリスに非難の目をぶつける作者であったが、アリスは意にかえさず、買い置きの酒に手を伸ばすのであった。
(なんだよ、このキャラは。誰だ考えたの。あぁ、俺か)
さっさと物語の世界に帰ってほしい。そう思った作者は、あることを閃いた。
(物語の世界から現実世界に来れたということは。逆もまた、しかり・・・)
作者は部屋の中で揺れる虹色のカーテンをにらみながら、不敵な笑みを浮かべるのであった。




