三つの聞
天文十八年、四月の末。田に水を入れる季節です。
この頃の土佐で、遠くの出来事はどのように伝わったのでしょうか。文が来るのは、たいてい、いちばん最後です。その前に、荷を担ぐ人の口が届きます。
今回は、同じ家のことを言う話が三つ、別々の道から届きます。
泥の中に、足を入れる。
膝の下まで、生ぬるい水が来た。田の底の土は、去年の秋に踏んだときよりずっと柔らかい。藤丸は、苗の束を左手に抱え直した。
「藤丸様。そう深う挿してはなりませぬ。浮かぬ程度に、軽う」
太助の声が、二枚向こうから飛んでくる。数え五十六の腰は、若い者より低く曲がっていた。
「流れませぬか」
「流れる田と、流れぬ田がございます。この田は、流れませぬ」
二枚の田の、三年目だった。
一年目は雨の少ない年、二年目は野分の年。当たり前の年が、まだ一つもない。右も左も、今年は同じ日に代掻きをし、同じ日に苗を入れる。違えるところは、去年と同じ一つだけ。
当たり前の年になってくれ、と藤丸は思った。帖に書ける類の言葉ではないので、胸の内に置いた。
畔の上には、源五郎が立っている。泥だらけの足元を、口を挟まずに見ていた。
「源五郎。在所の田は、もう済んだか」
「済みましてございます。……今年は、人が多うございました」
春の貸しを借りた家は、秋に人を一人出す。田植えを誰に手伝うてもらうか、という話と、秋に誰を出すか、という話が、村の寄り合いでは続けて出るのだという。
「秋の話まで、もう出ておるのか」
「田を貸し借りする相手と、人を出す順は、だいたい同じ顔ぶれにございますゆえ」
(助け合う相手を決める座と、人を差し出す順を決める座が、同じ座になっている)
それ以上は言わなかった。藤丸も訊かなかった。
日は高く、水はぬるく、遠くで早乙女の歌が続いていた。その日のところは、ただそれだけの日だった。
* * *
屋敷へ戻ると、門のところに紙の荷が下ろされていた。
文吉の店の手代だった。お咲の書付に使う紙の買い足しである。足を洗って表へ出ると、手代はまだ荷を解いている最中だった。
「遅うなりまして。道が、少々混み合うておりましたゆえ」
「道が」
「西の川筋から、人がよう出てまいります」
手代は、束を数えながら言った。
「中村の御所様が、ご病気だという話で。それも、ただのご病気ではないという者もおりますが……なにぶん、聞いた話の、そのまた聞いた話にございます」
藤丸は、紙の束を受け取る手を止めなかった。止めれば、相手が言葉を選び始める。
「いつの話だ」
「わたくしが川口で聞きましたのが、四日前かと」
「病だと言うたのは、どういう者だ」
「川舟の者にございます。荷を上げる者は、川下の話をよう持っておりますので」
それ以上は知らぬ様子だった。藤丸は礼を言い、手代を帰した。
* * *
二つ目は、その日の夕方に来た。
太助が、鍬を返しに屋敷の裏まで来て、ついでのような顔で言った。
「藤丸様。妙な話を、村で聞きましてございます」
「中村のことか」
「おや。もうお耳に」
「病だと聞いた」
太助は、少し困ったような顔をした。
「わしが聞きましたのは、病ではございませなんだ。……御所様が、ご乱心なされたと。人を呼びつけては叱り、夜中に馬を出されると。誰が言うておったかと申しますと、道を行く人夫でございますが」
「その人夫は、どこから来た」
「高岡のほうから、材木を出しに来た者だそうにございます」
藤丸は、帖を持ってこさせて、その場で二行書いた。
――聞(文吉の手代/西の川筋の川口/川舟の者)。中村の御所様、ご病気。四日前。
――聞(太助/村/高岡の人夫)。中村の御所様、ご乱心。日は分からず。
書いてから、二行を見た。
出所は書いた。日付も、分かるほうは書いた。作法の通りだ。作法の通りに書いた二行が、正面から食い違っていた。
これまでも、帖に食い違いが出たことはあった。だがそれは、量や日数の食い違いだった。三枡と四枡なら、もう一度量ればよい。
病と乱心は、量り直せない。
* * *
三つ目は、翌朝に来た。
源五郎が、いつもより早く屋敷に上がってきた。板の間の隅に膝をついたまま、藤丸が通りかかるのを待っていた。
「昨夜、在所で聞きましてございます」
「中村のことか」
「はい。……お耳に入れるべきかどうか、迷いましてございますが」
源五郎は、そこで一度、言葉を置いた。
「討たれた、と申す者がおりました」
藤丸は、廊下に立ったまま、その言葉を受け取った。
「誰が言うた」
「在所の隣の、塩を担いで西へ回る者にございます。その者も、人から聞いたと申しておりました。……それがしは、確かなこととは思いませぬ。ただ」
「ただ、何だ」
「病と、乱心と、討たれたと。三つ揃うのは、少のうございます」
訊かぬ男が、その一言だけを言った。
藤丸は、帖に三行目を書いた。それから、三つの行を並べて見た。
病。乱心。討たれた。
中身は三つとも違う。違うのに、三つとも同じ家のことを言っている。別々の口から出て、六日ほどの遅れで、ほぼ同じ日にこの村へ届いた。
何かが起きている。それは、三行目を書く前から分かっていた。三つ目を源五郎が言い終えた時に、もう分かっていた。
分からなかったのは、そこではない。
藤丸は、三行の脇に、聞いた者がどこから来た話を持っていたかを書き足した。西の川筋の川口。高岡から材木を出しに来た人夫。塩を担いで西へ回る者。
三本とも、別の道だった。
この村は、山の裾の、道の突き当たりのような場所だと思っていた。その突き当たりへ、国の西の端の家のことが、六日で、三本届く。
(近いのか)
近いのではない。細かいのだ。人の足が通う筋が、自分の帖に書いてある数より、ずっと多く走っている。米も、塩も、材木も、その筋の上を動いている。噂は、そのついでに乗ってきただけだ。
いつか、この筋のほうを数えねばならない。荷の数ではなく、道の数を。
藤丸は、帖の端に小さく書き足した。
――道、三筋。六日。西より。
* * *
父の間の障子は、開いていた。
昌源は文机に向かっている。藤丸は敷居の手前で膝をつき、名を告げた。入れ、と短い声が返った。
板を三歩、進む。座る場所には、まだ着いていない。
「申し上げます」
昌源の筆が止まった。
「腰を下ろす前か」
「腰を下ろす前にございます」
藤丸は、そのまま言った。中村の御所様の身の上について、三つの話が村に入っていること。三つとも中身が違うこと。確かめる術は自分にはないこと。
「まことかどうか、分かりませぬ。生煮えにございます」
昌源は、筆を置いた。それから、二つだけ訊いた。
「誰から聞いた」
「一つは文吉の店の手代、川口にて川舟の者より。一つは太助、村にて高岡の人夫より。一つは源五郎、在所にて塩を担ぐ者より」
「いつの話じゃ」
「いちばん古いもので、六日前かと存じます」
昌源は、それきり何も訊かなかった。よい、とも、待て、とも言わなかった。ただ手を伸ばして紙を一枚引き寄せ、藤丸の言った三つを、そのまま書き付けた。
誰から。いつ。
(――同じだ)
藤丸は、その手元を見ていた。自分が帖に立てている二つの列と、父がいま紙に落とした二つが、同じだった。
どこかで教わったと思っていた。書物でも、前の世でもなく、この部屋で見たものだったのかもしれない。
ただ、父の紙は、そこで終わっていた。誰から。いつ。二つきりである。
自分の帖には、もう一列ある。合わぬものを、合うものの下へ落としておく列だ。それがどこから来たのかは、思い出せなかった。
「下がってよい」
言われて、藤丸は下がった。廊下に出てから、自分がとうとう最後まで座らなかったことに気づいた。
* * *
岡豊から人が下りてきたのは、それから二日の後だった。
中村の御所様、ご自害。御年二十八。跡目は御嫡男、御年七つ。
理由は、分からぬ、と。
それだけの報せだった。分からぬ、という三文字が報せの中に堂々と入っていることに、藤丸は妙な感じを受けた。分からぬなら、書かねばよい。
(だが書かねば、村の三つのどれかが、そのまま本当になってしまう)
* * *
稽古場では、若い衆が槍を振っていた。数が、いつもより多い。
「兄上。正月に、仰せられました」
親信は、木刀を肩に担いだまま笑った。
「今年は去年より人が動くやもしれぬ、か。……当てたのではないぞ。あれは毎年申しておる」
それから、笑いを収めた。
「戦になるとは限らぬ。だがな、藤丸。人が死ぬと、それまで動かなんだ者が、動いてよい理由を思いつく。理由さえあれば、人は存外、たやすく動く」
廊下では、親直が庭を見ていた。藤丸が村の三つの話を伝えると、親直は最後まで聞いてから、こう言った。
「ご乱心、と申した者がおったな」
「はい」
「病でも討たれたでもなく、ご乱心じゃ、と言うて得をするのは誰じゃ。……そこを数えよ。話がまことかどうかより、その話を配って回る者のほうが、よほど正直に何かを教えてくれる」
* * *
その日から、屋敷が止まった。
止まった、というのは、誰も動かないという意味ではない。人はいくらでも動いていた。ただ、どこへ動けばよいのかを、誰も知らなかった。
文吏の部屋には人が集まり、そして立ったまま黙っていた。
「久武の家から、何をお出しするのか。誰の手で、いつまでに」
「……前例が、ございませぬ」
筆頭家老の家である。年ごとの贈答も、村からの届け物も、弔いも、この家は数え切れぬほど通してきた。だが、中村の御所様が二十八でお亡くなりになる。そういう紙を、この家はまだ一度も書いたことがなかった。
その部屋へ、藤の方が入ってきた。
「わたくしが、見たことがございます」
女たちが振り向いた。
「父が、そういう文を書くのを、幾度か。……わたくしは、書いてはおりませぬ。傍で見ていただけにございます」
藤原昌綱は、中村御所に仕えた文官であった。母の、父である。
母は、覚えていた。だが、束では覚えていなかった。
「先に立つのは、この国では御館様。次が……いえ、次が先やもしれませぬ。品よりも、着く日のほうが重うございました。それから」
言いかけて、止まる。
「順が、逆でございました。……いえ、逆ではのうて、あれは……」
女たちは、黙って待っている。待つよりほかにない。母の頭の中にあるものは、母の口からしか出てこない。そして母の口から出てくるものは、出てきた順のままでは使えなかった。
藤丸は、紙を一枚もらった。
思い出した端から、書き取った。書き取ったものを、順に並べ替えた。並べ替えられぬものは、下へ落として別の行にした。
合わぬものを、合うものの中へ混ぜないためだった。
「藤丸。それは」
「母上。混ぜませぬ。分からぬものは、分からぬところへ置いておきます。あとで分かれば、上げまする」
母は、それきり何も言わずに、思い出し続けた。
思い出す者と、並べる者。二人でなければ、どちらもできなかった。
半刻ののち、紙の上には、順に並んだ十いくつかの行と、下に落ちた三つの行が残った。
母は、その紙をしばらく見ていた。
「……こういう形をしておったのですね。父の頭の中は」
「母上が、覚えておられたのです。私はただ、並べただけにございます」
「並べねば、思い出したままで終わっておりました」
紙は、そのまま昌源のもとへ上がった。昌源は端から端まで目を通し、下の三行で指を止めた。
「これは、何じゃ」
「分からぬものにございます。分からぬまま、下へ置いてございます」
昌源は、しばらくその三行を見ていた。それから、顔も上げずに言った。
「これで進める。……ただし、出すか出さぬかを決めるのは、わしじゃ」
「承知しております」
承知はしていた。していたが、その一言は、思ったよりも長く胸に残った。
* * *
夜、昌源の部屋の灯は、遅くまで消えなかった。
「あの家がのうては、この家は今ここにない」
父は、そう言った。御館様が岡豊へ戻られたのも、本山殿との間がいまの形で収まっているのも、間に一条があってのことだ、と。
「悲しんでおる」
昌源は、紙を伏せた。
「悲しみながら、数えておる。……それが、家老というものじゃ」
* * *
部屋へ戻り、藤丸は灯を近くに引いた。
帖には、あの三行が並んだままだった。病。乱心。討たれた。どれにも印はつけていない。つけられるだけのものを、自分は何一つ持っていない。
その代わりに、目を閉じた。目を閉じると、いつも同じものが浮かぶ。
頭の中の、もう一冊の帳。
前の世で、この国の昔を書いた書物を読んだ。昔といっても、いまの藤丸にとっては、これから先のことだ。どこで読んだのかも、誰が書いたのかも、もう思い出せない。名の並びだけが、切れ切れに残っている。
机の上の帖には、出所が書ける。誰から聞いた、いつ見た、と。合わぬものは、下へ落として置いておける。
頭の中の帳には、そのどれもができない。誰に聞いたのでもなく、いつのことかも分からず、下へ落とそうにも、落とす先がない。
七年前、父の部屋で聞いた。房基様は、まだ十九と聞く。智に優れたお方だそうじゃ、されど、若い、と。あのとき胸の中で繰り返した名が、今日、消えた。
この名がこれから何をするかは、知っていた。本山との間に立って和を結ぶことも、知っていた。
いつ終わるかだけが、書いていなかった。
一条という名は、この先にもある。何度も出てくる。すぐには消えない家だ。
山田という名は、出てこない。名が一つあるきりで、その先が無い。
(残る家の当主が、死んだ)
(残らぬ家の当主は、まだ生きている)
藤丸は、そこでふと、探す先を変えた。
頭の中の帳を、もう一度めくる。一条でも、山田でもない。久武、という名を探した。
ある。父の名は、覚えていない。だが、兄たちの名はある。
長兄の名には、終わりまで書いてあった。どこで、どういう戦の最中に、というところまで書いてあった。いつか、だけが書いていない。今日消えた名と、同じ形をしている。
次兄の名は、独りでは出てこない。いつも誰かの名と並んで出てきて、並んだほうの名が、先に消える。
二人とも、いま、この屋敷にいる。一人は稽古場で槍を振り、一人は廊下から庭を見ている。
自分の名を探そうとして、手が止まった。探しようが、なかった。
藤丸というのは、幼名である。帳に名が残るとすれば、それは元服して貰う名のほうだ。
自分にはまだ、探すべき名がない。
灯を落とす。障子の向こうで、田の水の音が、細く鳴っていた。
噂を運んだのは、噂を運ぶことを仕事にしていた人ではありませんでした。
中世の在地では、遠くの出来事を運んだのは川舟の船頭や、材木を出しに来る人夫、塩を担いで村々を回る商人といった、荷を動かす人々だったと考えられています。彼らは荷のついでに話を運びました。ですから、話は荷の通る道の上しか動きません。道が三本あれば、話も三本届きます。土佐のこの時期について、どの道を何日で伝わったかを記した記録は残っていませんので、作中の日数はあくまで物語の中のものとお考えください。
もう一つ、弔いの作法について。
どの家が先に立つのか、誰を使いに出すのか、何をいつまでに届けるのか。こうした故実は、当時、まとまった書物になっていたわけではなく、家ごとの覚書や、実際に見た人の記憶に頼る部分が大きかったといわれています。前例のない不幸が起きたとき、家の中で「前に見たことがある人」が誰か、というのが、そのまま実務の力になりました。
一条房基の死については、当時の確かな記録が乏しく、その理由も後世の書物によって説が分かれています。作中で報せに「分からぬ」と書かれているのは、そのためです。




