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出ぬ米

 前回は年が明けて、天文十八年の元日でした。

 今回はその年の春の初め、屋敷の蔵を開けて、中の物をすべて出して数え直す日の話です。

 誰も戦とは言いません。

 春の初め、屋敷の蔵の戸が開いた。


 年に一度、中の物をすべて出して数え直す日である。たわらを運び出してむしろの上に並べ、ねずみの食った跡と湿しめりをあらためる。空になった蔵の床には、日が斜めに差し込んでいた。


 見ておりたい、と藤丸ふじまるは三日前に申し出ていた。


 父・昌源しょうげんの返事は、秋の納めのときと似ていた。ただ、一言だけ違っていた。


「見ておれ。……数を控えてもよい」


 口は出すな、が消えていた。


 藤丸は、帖と筆、それに小さなすずりを持って、蔵の前に座った。


*  *  *


 俵が一つ運び出されるたび、文吏ぶんりが声に出して数を読む。読まれた数を、藤丸も自分の帖に書き入れていく。同じ数を二人で書いているだけだが、書き終えるころには、手のほうが先に落ち着かなくなっていた。


「文吏どの」


「はい」


「納めのときの数を、覚えておいでか」


 文吏は、板の間から古い帳を持ってきて、指で押さえながら開いた。


 秋に入った俵の数がある。今、蔵から出てきた俵の数がある。その差が、この冬に屋敷が食べた分と、村へ回した分になる。


 藤丸は、二つの数を並べて、しばらく見ていた。


 去年の冬より、減りが少ない。


「文吏どの。この冬は、人が減りましたか」


「いいえ。むしろ、増えておりまする」


「食う口が増えて、米の減りが少ないというのは」


 文吏は、筆を置かなかった。


「出ておらぬ、ということにございます」


 それだけ言って、次の俵の数を読んだ。


(出ていない、ではなく、出さなかった、だ)


 藤丸は、帖の脇に小さく書いた。減りが少ない、と。そう書いてから、なぜ、という字を書きかけて、やめた。まだ、見ていない。


*  *  *


 蔵の物があらかた出たころ、藤丸は文吏の脇へ寄った。


「春の貸しは、いつ出るのか」


 村へ種籾たねもみと食い物を貸し、秋の刈り入れのあとに利をつけて返させる。冬の終わりから麦のれる頃までは、どの家も蔵が細る。その間を屋敷が繋ぐ。去年もあったし、その前もあったと、藤丸は太助たすけから聞いていた。


「例年なれば、この蔵改めのあとにございます」


「今年は」


 文吏は、筆の先を見たまま答えた。


「まだ、何も伺うておりませぬ」


 藤丸は、それ以上訊かなかった。訊いても、この人は知らないのだと分かった。


*  *  *


 ひるを過ぎて庭に出ると、女たちがかまどの前に集まっていた。


 大きな釜で米を蒸している。蒸し上がったものを莚に広げ、日に当てて干していた。白い粒が、莚の上でゆっくり乾いていく。


「これは、何にいたすのか」


 藤丸が訊くと、年かさの女が手を止めずに答えた。


ほしいいにございます」


「祝いか、何かで」


「さあ。作れと申しつかっただけで」


 糒は、水に浸せば戻る。乾いたままでも噛める。何年でも保つ。祝いの膳に出すものではない。


 庭の隅では、若い男が二人、わらを叩いて縄をっていた。その脇に、編み上がった草鞋わらじがいくつも重ねてある。数えるまでもなく、屋敷で履く数ではなかった。


 藤丸は、莚の上の白い粒を見ていた。


 備えというものは、要らずに済んだ年には、誰の目にも無駄にしか映らない。積んでいるあいだ、褒める者はいない。それは、とうに知っている。


 知らなかったのは、積む側の庭が、こういう匂いをしているということだった。


 誰も、戦とは言わなかった。


 言わないまま、支度だけが先に進んでいた。


*  *  *


 夕方、稽古場を通ると、若い衆の数がいつもより多かった。見覚えのない顔が、幾人か混じっている。


 親信ちかのぶが木刀を下ろして、藤丸に気づいた。


「藤丸。蔵を見たか」


「見ました」


「何を見た」


 藤丸は、少し考えてから答えた。


「米が、出ておりませぬ」


 親信は、すぐには何も言わなかった。汗を拭き、木刀を肩に担ぎ直してから、短く言った。


「よい目じゃ」


 そして、続けた。


「それを、人に言うな」


 藤丸は頭を下げて、稽古場を離れた。


 背中で、木刀の打ち合う音が始まった。去年の春より、音の数が多かった。


*  *  *


 甚兵衛じんべえが東回りから戻ったのは、蔵改めから数日してからだった。


 荷を下ろす前に、おさき書付かきつけを持って走ってきた。日数を書き入れる列は、去年の梅雨明けから途切れずに続いている。


「藤丸様。九日でございます」


 藤丸は、その数を二度読んだ。


 東回りの便は、去年の春から延びる一方だった。七日が八日になり、九日になり、夏には十日かかった。秋の十二日には川止めの二日が入っているから、延びそのものは十日で止まっている。


 その十日が、九日になった。


 山田やまだ領の道に改め場ができ、荷を一つずつ検められるようになってから、この列の数が短くなったのは初めてだった。


「甚兵衛。改め場は」


「ございましたが、人がおりませなんだ」


 甚兵衛は、荷縄を解きながら答えた。


「小屋はそのままで。中に誰も座っておらんのです。荷を止められもせず、そのまま通してもろうたようなもので」


 藤丸は、お咲の書付の九という字を見ていた。去年より一日早い。列の中で、初めて短くなった数だった。


 その数が良い報せでないことも、同じくらいはっきりと分かった。


*  *  *


「甚兵衛。道中で、何か聞いたか」


 甚兵衛は、荷を積み終えてから、声を落とした。


「山田のやかたのことを、少し」


「申せ」


「烏ヶからすがもりと、雪ヶゆきがみね。あちらのおもだった衆でございますが、この頃は館へ上がっておられんそうで」


「上がらぬ、というのは」


「呼ばれんのだ、と申す者もおれば、閉じ込められておるのだ、と申す者もおります。どちらが本当かは、それがしには」


 甚兵衛は、そこで一度言葉を切った。


「ただ、館のほうでは、この冬じゅう猿楽さるがくが続いておったとか。それは、幾人からも聞きました」


 藤丸は、しばらく黙っていた。それから、思いついたように訊いた。


「甚兵衛。去年の秋、この道は幾日かかった」


「さて。……十日は、超えておりましたか」


「十二日だ。うち二日は、川止めであった」


 甚兵衛の手が、荷縄の上で止まった。


「……よう、覚えておいでで」


「私が覚えているのではない。書いてある」


 甚兵衛は、お咲の持っている書付のほうを見た。自分の足で歩いた日数である。歩いた当人が忘れて、歩いていない者の手元に残っていた。


「甚兵衛。次に東へ行くとき、一つだけ頼みがある」


「へえ」


「改め場の小屋を、見て帰ってくれ。人が座っておるか、おらぬか。それだけでよい」


「荷は」


「荷はいつも通りでよい。小屋だけだ」


 甚兵衛は、しばらく藤丸の顔を見ていた。


「……何が、起きておるのでございましょう」


「分からぬ」


 分からぬから見ておいてほしいのだ、とは言わなかった。何を疑っているかを先に言えば、次に甚兵衛が見るものは、こちらの思っているほうへ寄っていく。


「見たままを、教えてくれればよい」


「承知いたしました」


 藤丸は礼を言い、甚兵衛を下がらせた。


*  *  *


 部屋に戻って、帖を遡った。


 山田のことは、三つ書いてある。


 一つ。道に改め場ができた。荷を一つずつ検めるようになった。


 一つ。山田が警戒しているのは東の安芸あきではなく、西の岡豊おこうである。


 一つ。東回りの便が、七日から十日へ、段々に延びた。


 三つとも、外から見えたことばかりだった。改め場ができた、荷が止まる、日数が延びる。起きたことは書いてある。なぜ起きたのかは、どこにも書いていない。


 いつか長兄が言ったことがある。よそ者を入れたくない家は、内側に見られたくない何かがある家だ、と。


家中かちゅうが割れていたのか)


 主だった者が二人、館に上がらない。いさめる者を遠ざけた家は、外の目もいっそう嫌う。だから道を締めた。締めるほど荷は滞り、日数は延びた。


 そして今、その改め場に人がいない。締めておく手が、足りなくなっている。


 三つの行は、別々のことではなかった。一つのことの、初めと、中と、今だった。


 この三つを書き入れたのは、それぞれ別の年、別の日である。書いた日には、どれもただの一行だった。一行のままなら、甚兵衛が見たものと変わらない。並べて初めて、順になった。


 藤丸は、筆を持ったまま動かなかった。


 頭の中には、帖とは別に、もう一冊の帳がある。紙でできていない帳である。


 山田という名は、そこにある。


 土佐に大きな家が七つある、という並びの中に、一つとして挙がっていた。名が並んでいるのを見た覚えは、確かにある。


 だが、その先が無い。


 北の本山もとやま。東の安芸。西の一条いちじょう。この三つは、あの帳の中に幾度も出てくる。長く睨み合い、いずれ刃を交える相手として、いくつもの年と、いくつもの場所と一緒に覚えている。


 山田は、名の一つきりだった。誰と戦ったとも、誰に仕えたとも、どこで終わったとも書いていない。七つのうちの一つとして数え上げられて、それきりである。


 名を並べただけの一行が、並べられた中身まで揃っているとは限らない。それは分かっている。分かっていながら、あの帳を、そういう目で検めたことがなかった。七つと数えてある以上、七つとも同じだけの厚みがあるつもりでいた。厚みは、一つずつその先を辿ってみるまで出てこない。辿らなかったのは、辿る用がなかったからだ。


 用ができたのは、今日である。


(名だけ挙がって、先が無いというのは、早くに退いたということだ)


 いつ、とは分からない。あの帳に日付は無い。分かるのは、本山や安芸と長く睨み合う年月が始まるより前に、この家は数え上げられるだけの家になっている、ということだけである。


 岡豊の城のあの子は、今年で十一になった。その子が槍を持って外へ出るまでには、まだ幾年もある。


 それより、前だ。


 ――そこまで考えて、藤丸は自分の書いた行に目を戻した。


 糒。草鞋。出ぬ米。人の座らぬ改め場の小屋。


 それより前、と言えるほど先の話ではないのかもしれなかった。


 同時に、もう一つ分かったことがあった。


 自分が覚えていたのは、山田という名だけである。道一つ隔てた隣に、岡豊が長らく手を出しかねてきた家が一つあって、それが跡形もなく無くなった。その始めから終わりまでが、名前一つに畳まれていた。


(家ひとつで、名前一つ分か)


*  *  *


 日が落ちてから、藤丸は門のあたりに立っていた。


 源五郎げんごろうが、少し離れたところに控えている。いつもなら、藤丸が動くまで動かず、動けば黙ってついてくる男である。


 その源五郎が、今日は動かなかった。


「藤丸様」


 声のほうが先に来た。藤丸は振り返った。


 源五郎は、しばらく言葉を探しているようだった。この男が言葉を探すところを、藤丸は初めて見た。


「今年の春の貸しは、村へは、出ませぬのでしょうか」


 藤丸は、答えられなかった。


 蔵の米が出ていないことは、自分の目で数えた。だが、それが村へ出るか出ないかは、自分の決めることではない。父も、まだ何も言っていない。


「……分からぬ」


「さようで」


 源五郎は、それだけ言って、また元の場所に立った。それ以上は訊かなかった。


 藤丸は、その背中を見ていた。


 源五郎は、訊かぬ男だった。あぜを数えて回った半日、この男は一度も、何のために数えるのかと訊かなかった。秋に在所の田が引かれたときも、一枚は引かれました、とだけ言って、もう一枚のことは言わなかった。


 その男が、訊いた。


 訊いたということは、ほかに訊く先がなかったということだった。


 あの帳では、家ひとつが名前一つ分であった。仕えていた者も、その領の村々も、村の田の一枚一枚も、みな同じ一つ分の中に畳まれている。畳まれた側に立ってみれば、名前一つ分では、とても済まない。


 いま門のところに立っている背中も、そういう一つ分の中にいる。


*  *  *


 部屋に戻り、灯を入れて、今年の帖を開いた。


 書けることは、いくつもあった。


 ――春。見。蔵の米、去年より減り少なし。


 ――春。見。糒を作る。草鞋を編む。


 ――春。見。稽古場の人数、去年より多し。


 ――春。聞(甚兵衛)。山田の改め場に人なし。主だった者二人、館に上がらず。


 どれにも、出所が書けた。見たか、誰から聞いたか、どちらかである。


 藤丸は、その次に書くつもりの一行を、頭の中で並べた。


 ――山田は、残らぬ。


 並べたところで、筆が止まった。


 この帖の決まりでは、事柄の前に出所を書く。見たのなら見、聞いたのなら聞。そのどちらでもない行は、書けない。


 当て推量の欄に落とすこともできなかった。当て推量は、何を見てそう思ったかを脇に添えられるから当て推量なのである。この一行には、それが無い。


 藤丸は、その一行を書かずに、行を一つ空けたまま筆を置いた。頭から終わりまで、字の入らぬ場所が一つ、白く残った。


 帖の中で、その一行だけが、どこにも属していなかった。


 筆を置いて、藤丸は部屋を出た。


 庭へ下りると、昼のあいだ莚を広げていたあたりに、巻いた莚が幾本も立てかけてあった。明日もまた広げるのだろう。手を伸ばすと、端のほうに、日の名残りのような乾いた匂いが残っていた。


 あの一行は、山田という家が残らないとしか言っていない。


 いつとは、言っていない。


 誰が帰ってきて、誰が帰ってこないとも、言っていない。


 春の貸しが村へ出るかどうかは、どこにも書いていなかった。


 藤丸は、門のほうを見た。


 源五郎は、もう在所へ帰ったあとだった。


 作中に出てくるほしいいは、蒸した米を干したものです。水や湯に浸せば戻り、乾いたままでも噛めて、うまく作れば長く保ちます。古代の記録にもその名が見え、旅や陣中の食糧として長く使われてきたと言われています。


 ただし、土佐のこの時期に、どの家がどれだけの量を作り置きしたかを示す記録は見当たりません。草鞋についても同じで、戦の支度としてまとめて編ませた例が具体的にどれほどあったかは、はっきりしたことが言えません。作中の描写は、当時ありえた形の一つとしてお読みいただければ幸いです。


 なお、藤丸が使っている「聞いたのか、見たのか」を分けて書く書き方は、この時代の帳の作法として記録に残っているものではありません。彼の癖だとお考えください。

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