揃わぬ年
前回、藤丸は自分の持っている物を初めて数えました。
今回は年の暮れから元日までのお話です。夏に村へ回した焼き枯らしの答えが出ます。そして藤丸は、三年分の帖を初めて机の上に並べます。
年の暮れの屋敷は、朝から人の足が絶えなかった。
煤払いの竹箒が梁を叩き、餅米を蒸す湯気が台所から廊下へ流れてくる。納めの時季の張り詰めた気配は、いつのまにか、年の暮れの忙しさという別の張りに入れ替わっていた。
藤丸は、去年と同じように、玄関脇の板の間で届いた品の整理を任されていた。
近郷の年寄からの米と炭。付き合いのある商人からの塩と干魚。それぞれに添え状があり、それぞれに返しの品と時期を考えねばならない。誰から、何が、どれだけ。返しは何を、いつ頃。
筆はよく走った。去年やったことを、そのままなぞればよい。
半分ほど書いたところで、藤丸はふと、手元の紙を見た。
この紙は、返しの品を出してしまえば、それで役目が終わる。年が明ければ、誰も読み返さない。
(私の帖は、そうではない)
同じ手で、同じように書いている。行き先だけが、違った。
* * *
昼を過ぎた頃、太助が炭俵を背負って門に立った。
村からの暮れの届け物である。若い衆が二人、後ろに続いていた。俵を下ろし、汗を拭いてから、太助は懐から小さな包みを出した。
「これは、村の者からで」
開くと、干からびた川魚が幾尾か、重ねて入っていた。黒く縮んで、煙の匂いがした。
藤丸は、包みを手にしたまま、太助を見た。
「……焼き枯らしか」
「へえ。ようやっと、答えが出ましてございます」
太助は板の間の端に腰を下ろし、指を折り始めた。
「四軒のうち、持ったのが二軒。駄目にしたのが二軒でございます」
「半分か」
「半分でございます。……ただ、駄目にした二軒が、揃っておりませんでした」
「揃っていない」
「一軒は、焼きが浅うございました。これは、まあ、申したとおりで。中に生が残って、じきに黴が来ました」
そこまでは、藤丸の当て推量のとおりだった。芯まで焼き切ること。煙の当たる高いところに吊すこと。分け目は湿り――そう書いた。
「もう一軒は」
太助は、そこで一度、首の後ろを掻いた。
「それが、妙でしてな。焼きは深うございました。吊した場所も、囲炉裏の上の、いちばん煙の当たるところで。……申したとおりに、きっちりやっとりました」
「やった上で、駄目になったのか」
「臭いました」
藤丸は、包みを膝の上に置いた。
「なぜだ」
「わしも、それが分からんもんで、その家に三度ばかり通いました。火の加減も、吊した高さも、違いはございません。……最後に、獲った魚のことを訊きました」
太助は、そこで少しだけ声を落とした。
「その家は、いちばん太った泥鰌ばかりを選んで漬けとりました」
「太ったものを」
「へえ。せっかく試すのだから、良い魚でやろうと。……悪気は、これっぽっちもございません」
藤丸は、包みを置いて立った。
部屋から今年の分の綴じかけの束を持って戻り、夏の紙を繰った。虫送りの夜に聞いた話を、その晩のうちに書いた覚えがある。
あった。
藤丸は、その一行をそのまま読み上げた。
「夏。虫送りの夜。聞。太助。夏の魚は脂が乗る。良う出れば長持ちし、こもれば臭う。答えは冬」
太助は、口を半分開けたまま、それを聞いていた。
「……それは」
「太助が言ったことだ」
「……わしが、申しましたか」
「松明を持ったまま、田の畔で」
太助はまた首の後ろに手をやった。
「……申したのでございましょうな。そのころは、まだ何も出ておりませんでしたで。言うただけで、済んでおりました」
言っただけで済むこと。それを、済ませずに書き留めておいた。
「太助。抜けたのは湿りだ。抜けなかったのが、脂だ」
太助は、低く唸った。
「……わしは、自分で申しておいて、忘れておりました」
「私が覚えていたのではない」
藤丸は、束の端を指で叩いた。
「紙が、覚えていた」
太助は、その紙を、しばらく見ていた。
やり方を揃えても、掛ける物が違えば答えは変わる。焼きの深さも、吊す高さも、正しく守った家が、いちばん良い魚を選んだというそれだけのことで、正しく失敗した。
「太助。良い魚を選んだ家が損をした、ということになるが」
「なりますな」
太助は、あっさり頷いた。
「ですが、それを言いに来たのではございません。来年のことでして」
「来年」
「来年は、違うところを一つだけにして、もう一度やらせようと思います」
太助は、また指を折った。
「夏の魚と、秋の魚。太ったのと、痩せたの。……ただ、家を四軒に分けるのは、やめようと思います」
藤丸は、顔を上げた。
「なぜだ」
「家が違えば、火の加減が違いますで」
太助は、当たり前のことのように言った。
「囲炉裏の大きさも、薪の質も、家によって違います。四軒に分けて漬けさせたら、魚の違いか、火の違いか、また分からんようになりますわい。……ですから、一軒の同じ囲炉裏で、太ったのと痩せたのを、別々に吊してもらいます」
藤丸は、返す言葉が、すぐには出てこなかった。
自分なら、四軒を並べただろう。それでは駄目だと、太助は言っている。囲炉裏の癖は家ごとに違う――そんなことは、村の土間をいくつも見て回った者にしか言えない。
変えるものを一つに絞り、それ以外を揃える。教えたのは自分のはずだった。だが、どこまでを「揃える」のうちに入れるかは、その土地を知っている者のほうが、細かく刻める。
「……そうしてくれ」
* * *
太助たちが帰ったあと、藤丸は包みを開き、干した魚を一尾つまんで、端を噛んでみた。
固かった。噛んでいるうちに、煙と、魚の味が、じわりと出てきた。
これが二軒の家の、正月の汁に入る。雪の日の椀が一つ増える。そう思って回した知恵だった。
礼は、来ていない。来るはずもなかった。この魚は「川向こうの知恵」で持った魚であり、村の暮れの届け物として、他の炭俵と一緒に門をくぐってきただけだ。
それでよかった。名を消したのは、自分だ。
藤丸は、もう一口噛んで、残りを包み直した。
それから、束を開いて、書き足した。
――暮。見と聞。太助。試しの家を四軒に分けると、魚の違いに火の違いが混じる。変えぬもののうちには、家そのものが入る。
書きながら、二枚の田のことを思った。同じ村の、隣り合う二枚。作り手も同じ太助だ。山の三組も、同じ山の、同じ平六の手である。
どちらも、初めから揃っていた。揃えたつもりでいたが、揃えたのは自分ではない。
* * *
大晦日の夜、藤丸は文机の前に座った。
今年の分の帖を、綴じる。
紐を通し、端を揃え、結び目を締める。厚みは、去年の分より一回り増していた。畔を歩いた紙、山へ登らなかった半月の紙、枡の数を書いた紙、銭の値を書けなかった紙。一つの束になって、手のひらに納まった。
結び終えて、藤丸は三冊を並べた。
今年と、去年と、その前と。
三冊を机に並べたのは、冬の初めにもした。あのときは、自分がいくら残っているのかを知りたくて開いた。年と年を比べるために並べるのは、これが初めてだった。
年ごとに分けて綴じると決めたのは去年の暮れで、そのときに思い描いていたのが、まさにこの光景だった。並べて、比べる。霜が早いか遅いか、雨が多いか少ないか。
藤丸は、いちばん古い一冊を開いた。
そして、すぐに手が止まった。
霜のことは、確かに書いてあった。書いてあるが、それだけだった。いつの霜か、厚さはどれほどか、誰がそう言ったのか。何も添えられていない。ただ「霜、早し」と一行ある。
二冊目を開く。こちらには「聞」と「見」の別が入っている。だが出所は書かれていない。当て推量の欄も、まだない。
三冊目――今年の分だけが、頭から終わりまで、同じ書き方で通っていた。
(一冊しか、使えない)
知らなかったわけではない。書き始めの頃と今とで書き方は同じか、と海の向こうの相手に問われたのは、この年の初めだった。同じではありません、と正直に返し、その年のうちに書き方を一つに定めた。揃った一冊は、まだ一冊しかない。
分かっていたはずのことが、並べた途端、違う重さで胸に落ちてきた。
寺の蔵には三十七年分の帳があって、迷いなく見比べられるのは四年分だと、あの子は書いてよこした。あのときは、三十七のうち四しかないのか、と思った。いま、自分の机の上には三冊しかなく、使えるのは一冊である。
書き方は、明日からでも揃えられる。年は、明日にはならない。
藤丸は、三冊の上に手を置いたまま、しばらく動かなかった。
去年の暮れ、良い手を思いついたと思った。今、机の上にあるのは、比べられない三冊だ。
だが、比べられないと分かったのは、並べたからだ。並べなければ、去年の霜と今年の霜を、同じ顔で並べていた。同じだと思い込んだまま、それを元に何かを決めていた。
並べて、比べられないと知る。それも一つの答えだった。
* * *
藤丸は、綴じたばかりの紐を、一度解いた。
いちばん前に、白い紙を一枚、加える。
書いたのは、二つだった。
一つ。この年がどういう年であったか。麦の熟れる頃まで雨が少なく、夏の終わりに野分が来た。歩いた二十三枚のうち、十二の畔が切れた。稲は倒れ、山の谷は埋まった。
一つ。この年、自分がどう書いたか。時季、聞と見の別、筋の数、事柄の順。出所を必ず書き、当て推量は行の脇に小さく添える。
書きながら、思い出したことがあった。
秋に父の束へ上げた紙にも、脇に小さく断りを添えてあった。一晩、一村、二十三枚のみ、と。あれは沙汰になる途中で落ちた。落ちなければ、下知にならなかったからだ。
(外へ出す紙には、載せられない。だが、この帖は、外へは出ない)
誰にも下知をしない紙だからこそ、断りを載せられる。
紐を締め直すと、一冊は、ほんの少しだけ厚くなった。
* * *
年が明けた。
元日の朝、広間に一家が揃った。父・昌源を上座に、母・藤の方、親信、親直。屠蘇の盃が回り、雑煮の椀が並ぶ。
数えで、藤丸は十一になった。
「また、伸びましたね」
藤の方が、藤丸の肩のあたりに手をやって言った。
「去年の正月は、この辺りでした」
「母上。元日から背丈を測られては、屠蘇の味も分かりませぬ」
親信が笑い、広間の空気が緩んだ。その親信が、笑い終えてから盃を置いた。
「藤丸。春になったら、弓をもう少し引け。……今年は、去年より人が動くやもしれぬ」
「何かございましたか」
「何もない。何もないうちは、そういうものだ」
親信はそれ以上言わなかった。昌源も、何も言わなかった。親直は、庭のほうを見たまま、盃の縁を指でなぞっていた。
藤丸は、雑煮の椀を持ち上げた。
岡豊の城でも、あの色の白い、枯れ葉を名残惜しそうに見ていた子が、十一になったはずだった。
* * *
祝いの膳が下がったあと、藤丸は縁側に出た。
庭に、霜が降りていた。下駄の先で突くと、白い層が、歯の半ばほどの厚さで崩れた。
部屋に戻り、新しい帖の一枚目を開く。白い紙だった。
藤丸は、まず断りを書いた。この年、自分はこう書く、と。まだ何も起きていない年のことを、先に一枚書いた。
それから、初めの行に書き入れた。
――元日。見。霜あり。厚さ、下駄の歯の半ばまで。
去年の元日の霜は、やはり分からない。分からないまま、その一行は残る。
だが、来年の元日には、答えられる。
筆を置いて、藤丸は障子を開けた。元日の日差しが、庭の霜の上で、細かく光っていた。
お読みいただきありがとうございます。
今回の豆知識は、年の数え方についてです。
この時代の年齢は数え年で、生まれた時点で一つ、そして元日を迎えるたびに全員が一つずつ年を取りました。誕生日ごとに一人ずつ年を取るのではなく、正月に国じゅうが一斉に年を取るわけです。ですから元日の膳の席では、その場にいる全員が同時に一つ年を重ねている、ということになります。藤丸が「数えで十一になった」と言っているのはそういう意味です。
もう一つ、魚の保存について。囲炉裏の煙で焼き締めて干す保存法は各地に見られますが、脂の多い魚が傷みやすいことを当時の人々がどこまで理屈として理解していたかは、記録が残っていません。今回の話に出てくる「脂がこもれば臭う」という見方は、あくまで作中の太助が経験から言っていることとしてお読みください。
次回もお付き合いいただければ幸いです。




