通る銭
前回、藤丸の書いた紙が沙汰となって村へ下りました。
そのあおりで、山の掘り出しに出せる手が減っています。銭さえ出せば人は来る、と太助は言いました。
では、その銭が、いくらあるのか。
藤丸が初めて自分の懐を数えようとする、冬の初めの話です。
納めが済むと、屋敷は急に静かになった。
前庭に敷いていた莚は片づけられ、俵の重みで固まった土だけが、四角い跡になって残っている。雨が二度降っても、その跡は消えなかった。
冬の初めである。
野分に埋まった奥の谷は、まだ埋まったままだった。掘り出すには、男が四、五人で半月かかると太助は言う。銭さえ出せば人は来る、とも言った。
ならば、いくら要るかを考える前に、こちらを知らねばならない。
自分は、いくら持っているのか。
藤丸は自室の文机に帖を開いた。品と、相手と、時季と、量が並んでいる。椎茸を幾包み、いつ、誰へ。紙を幾束、いつ、どこから。
今ある物を書く欄は、どこにもなかった。
当たり前である。荷の道を追うために作った帖だ。道の果てに何が積んであるかは、初めからこの帖の役目ではない。
いままでは、それで足りていた。自分の物と呼べるものが、ほとんどなかったからである。畔の隅の種代も、椎茸の代も、出ていくのも入ってくるのも、気がつけば誰かの手の中にあった。数えるまでもなかったのではない。数えたところで、動かせなかった。
今年の冬は、違う。
藤丸は帖の後ろを繰り、白紙の残りを確かめた。欄を一つ、増やせばよい。何を書くかも分かっている。
書くには、まず手元にある物を、一度ぜんぶ並べてみなければならなかった。
* * *
縁側で繕い物をしていたお咲に、藤丸は控えを頼んだ。
お咲は針を置き、すぐに戻ってきた。抱えてきたのは、藤丸の帖より薄い、綴じの粗い一冊である。裏門で荷を解くたび、入ってきた物を書きつけてきたものだった。
「入りましたものなら、こちらに」
藤丸は、それを開いた。
鰒の干物。塩。布が二反。生姜の代わりに向こうから寄越された、名も知らぬ根のようなものが一度。そして、銭。
塩は量れる。布は二反と書ける。
「銭は、どこに」
「お預かりしております」
お咲は一度下がって、麻の小袋を持ってきた。文机の上で口を開けると、乾いた音を立てて、中身が広がった。
揃っていなかった。
大きいものと小さいものがある。厚いものと、紙のように薄いものがある。真ん中の穴が歪んだもの、縁の欠けたもの、字が潰れて読めないもの。
一枚が一枚として通るとは限らない。それは店先を幾度も見ていれば分かることで、文吉の店でも、番頭が受け取った銭を掌の上で二度に分けるのを見たことがあった。
数を数えるだけなら、できた。指を折って、二度数えた。同じ数になった。
(数えられた。それだけだ)
この山を、あの番頭のように二つに分けよと言われたら、藤丸には一枚も動かせなかった。
* * *
その夜、藤丸は父の間に膝をついた。
「父上。椎茸の代は、どこへ入っておりまするか」
昌源は、燭台の下から目を上げなかった。
「蔵じゃ」
「……すべて、でございますか」
「すべてではない」
昌源は、筆を置いた。
「久武の名で出した荷の上がりは、久武の蔵へ入る。甚兵衛を安芸へ幾度も走らせておるのは、家の足じゃ。家の足で運んだ物の代を、三男が懐に入れる筋はない」
藤丸は、頭を下げた。そうであろうとは思っていた。
「ただし」
昌源は、そこで少し間を置いた。
「お前が自分の元手で始めた分は、別に立ててある。畔の隅の種代を出したときからじゃ。あれは家の銭ではない。ゆえに、家の帳にも入れておらぬ。……甚兵衛の手で回っておる分も、そちらに数えてある」
「……父上が、分けておられたのですか」
「分けておいた。分けておかねば、いずれお前が困る」
昌源は、燭の芯を切った。
「己の物と家の物の境が曖昧なまま大きゅうなった者は、たいてい、どちらも失う。境は、まだ何も持っておらぬうちに引くものじゃ」
(父上は、私が数え始めるよりずっと前から、私の銭を数えておられた)
「その別の分は、いかほどにございますか」
「多くはない。……人を四、五人、半月雇うには足らぬ」
藤丸は、顔を上げた。まだ何も申していない。
「聞いておる」
昌源は、それだけ言って、筆を取り直した。
* * *
翌々日、藤丸は村へ下りた。
「銭でのうても、米ならどうじゃという話でございますが」
太助は、藁を綯う手を止めずに言った。
「納めたばかりの冬に、米を出せる家はありませんわい。出せるのは、こちらのほうでございましょう」
「では、米で払えば」
「払えるものなら。……ただ、米が効くのは春でしてな。蔵の底が見えて、まだ麦の熟れぬ頃。あの時分の一升は、冬の三升に当たりますわい」
藤丸は、その言葉を胸に置いた。米は、いちばん効く時期が半年ずれている。
その足で、平六の山へ回った。
「三人で、十日なら」
平六は、崩れた斜面を見上げてから、頷いた。
「谷ぜんぶは、無理でございますな。……ですが、奥の谷へ上がる道だけなら、通せますで」
「道だけか」
「道が通れば、来年は歩けます。歩ければ、その先は来年の手で片づきますわい」
藤丸は、それでよいと言った。
全部は取れない。取れる分を、確かに取る。できることだけを小さく決めるというのは、去年の夏にお咲から教わったやり方だった。教わったときは、荷の量の話だと思っていた。
山を下りながら、藤丸は一つの道を思い浮かべている。
次郎兵衛に頼めばよい。冬の荷を担保に、先に銭を回してくれと言えば、あの男は断らない気がした。
その考えを、しばらく転がして、置いた。
次郎兵衛は、値を据え置いたときにこう言った。安く買い叩けば、来年また風が吹いたとき、お主はわしに黙るようになる、と。黙られるのがいちばん高くつく、と。
あれは、逆にも働く。借りれば、次に荷が減ったとき、同じ声では言えない。借りている側の口は、必ず小さくなる。
銭は、今年の冬のものだ。あの声は、来年も再来年も要る。
* * *
裏門の脇で、甚兵衛が冬の荷を検めていた。
「甚兵衛。昔、そなたに預けた銭がある。……ずいぶん前だ。あれは、どうなっている」
甚兵衛は、荷の紐に手をかけたまま、少し笑った。
「回っております」
「回っている」
「布になり、塩になり、また銭になり、また布になり。……あれきり止めたことはございませぬ」
「では、今、いくらになっている」
甚兵衛の手が、そこで止まった。
「……それは、その日になってみねば、申せませぬ」
「引き出せるか」
「引き出せます。ですが、引き出しました分だけ、次の荷が細りますわい」
藤丸は頷いて、麻の袋を差し出した。
甚兵衛は荷を置き、両手で受け取って、板の上に中身を出した。それから、指の腹で一枚ずつ押すようにして、三つに分け始めた。
速かった。迷う手つきが、一度もない。
「甚兵衛。この袋に、いくらある」
「……相手によりまする」
「数は、変わらぬだろう」
「数は変わりませぬ。通る数が変わりますので」
甚兵衛は、いちばん右の山を指した。
「これは、よい銭で。海の向こうから渡ってきたものにございます。字がはっきりしておりましょう。これなら、どこの店でも、一枚は一枚として通ります」
次に、真ん中を指した。
「こちらは、写しにございます。どこぞで、よい銭を真似て作ったもの。……使えぬわけではございませぬ。ただ、選る店では、二枚出して一枚と見られますわい」
最後の山は、指さしもしなかった。
「これは、銭とは呼べませぬ」
右の山が、いちばん小さかった。
「では、この袋は、いくらなのだ」
「気の長い店なら、こう。急いでおる店なら、こう」
甚兵衛は、右の山と、右と真ん中を合わせた山を、順に掌で囲ってみせた。
「同じ袋が、行った先で、大きゅうも小そうもなります」
(前の世の銭は、どれも同じ顔をしていた。揃わぬ世があるとは知っていた。知っているというのは、分けられるということではなかった)
枡は、家ごとに違った。それを知ったとき、藤丸は一つを量り合わせて封じ、蔵の高い棚へ上げた。動かさぬ枡を一つ持っていれば、後の誰かが物差しを取り戻せると思ったからだ。
銭は、そうはいかない。
(枡は、こちらで作れる。銭は、作れない)
藤丸は帯から矢立を抜き、懐の紙を膝の上に広げた。
甚兵衛の手が、また止まった。
「……何を、書いておいでで」
「そなたの手つきだ」
甚兵衛は、間の抜けた声を出した。
「そのようなもの、書き留めてどうなさいます。……銭を扱う者なら、誰でも指で分けますわい。うちの小僧でも、ひと月で覚えますで」
「では、その覚えることを申せ。何を見て分けた」
甚兵衛は困った顔をしたが、訊かれた以上は答える男である。字の立ち方。縁の欠け。厚み。板に落としたときの音。指で押したときの縁の当たり。
藤丸は、一つずつ書いた。
書き終えて筆を止めると、甚兵衛がもう一度言った。
「……誰でも存じておりますことにございますが」
「甚兵衛は、忘れぬか」
「忘れませぬな。手が覚えておりますで」
「私は、そなたの手を借りぬ日のことを考えている」
甚兵衛は、口を開けかけて、閉じた。
「それに、これは今年の分け方だ」
「……と、申されますと」
「来年も同じ三つに分かれるのか」
甚兵衛は、腕を組んだ。それから、意外なほど長く黙った。
「……変わりますな」
「変わったことがあるのか」
「ございます。わしが担ぎ始めた時分は、真ん中の山がもっと小そうございました。それが、だんだん膨れましてな。分け方も、二つで済んでおったものが、三つになりました」
「いつ、変わった」
甚兵衛は、また黙った。
「……覚えておりませぬ」
風が、荷の莚の端を鳴らした。
「毎日やっておりますことは、変わった日が分かりませんので。気がついたら、そうなっておりますわい」
藤丸は、紙の端に一行足した。三つに分かれるのは、今年のこと。
「来年の冬、また同じことを頼む。そなたの分けたものを、この隣に並べて置く。並べれば、変わったことが分かる。変わったと分かれば、そなたに、なぜ変わったのかを訊ける」
甚兵衛は、しばらく藤丸の膝の上の紙を見ていた。
それから、荷を背負い直しながら、こう言った。
「……書いておかれるなら、一つ、添えておかれませ」
「なんだ」
「この分け方は、岡豊の店での分け方にございます。安芸へ持って行きますと、また違いますで。向こうは、真ん中を受けぬ店が多うございますわい」
藤丸は、筆を取り直した。
* * *
その夜、藤丸は帖の後ろに、新しい欄を立てた。
塩、幾ばかり。布、二反。銭、袋一つ。父上の分けられた分、人を四、五人半月雇うには足らぬ由。
銭の行には、数を書かなかった。数を書いても、それが幾らなのかは、こちらでは決まらないと知ったからだ。
代わりに、こう書いた。
――銭の数は、こちらで数えられる。銭の値は、向こうが決める。
その隣に、昼間の紙を綴じ込んだ。末尾には、いつもの断りを添える。
――冬のはじめ。見。銭の分け方、三つ。よき銭、写し、銭と呼べぬもの。甚兵衛の手を写す。岡豊の店にての分け方にて、安芸は別。三つに分かるるは、今年のこと。
筆を置いて、藤丸は麻の袋の口を結び直した。文机の隅に置くと、乾いた音が一つ鳴って、それきり静かになった。
灯を落とす。
暗くなっても、袋がそこにあることは分かった。中身は、この冬に使えばそれで無くなる。
その隣に、綴じたばかりの一枚がある。
一枚では、まだ何の役にも立たない。役に立つのは、来年の冬である。
戦国時代の銭のお話を少し。
この頃の日本は、自分の国で銭を鋳ることをしていませんでした。市中に出回っていたのは、船で海を渡ってきた中国の銭です。ところが、それだけでは数がまったく足りません。そこで、渡来銭を真似て作られた銭や、粗末な写しの銭が大量に混ざるようになりました。
同じ一枚でも、中身がまるで違う。となると、受け取る側が選り分けるほかありません。これを撰銭と呼びます。良い銭は一枚を一枚として受け取り、写しは何枚かで一枚と数え、あまりにひどいものは受け取らない。作中で甚兵衛が三つの山に分けていたのが、その光景です。
このやり方は店ごと、土地ごとに違っていました。あちらで通った銭がこちらでは通らない、ということが日常的に起きます。あまりに混乱するので、幕府や各地の大名が「この銭は受け取ってよい」「これは駄目だ」と取り決めを出した記録も残っています。
ただ、天文の頃の土佐で具体的にどのような取り決めがあったのかは、はっきりした記録が見当たりません。ですので今回は、お上の決まりごととしてではなく、荷を担ぐ甚兵衛が二十年の商いで身につけた指の感覚として書きました。
なお、こうした撰銭の混乱が本格的に整理されるのは、ずっと後のことになります。




