藤の方の筆
三歳になった藤丸、初めての冬を迎えます。
煤払い、母の手習い、兄からの小さな贈り物――
穏やかな一日の中に、それぞれの想いが静かに流れます。
朝、井戸端の水に薄い氷が張っていた。
女中の一人が桶を覗いて、小さく声を上げた。今年初めての氷だという。藤丸はその氷を指でなぞってみた。冷たさが、三歳の指先にじんと残った。
熱が引いてから、もうずいぶんと月日が経っている。庭の松はとうに葉を落とし切り、屋敷のあちこちで、女中たちの足音がいつもより忙しくなっていた。
「煤払い《すすはらい》にございます」
お滝の声が、廊下の奥から聞こえた。長押の埃を払う竹箒の音。畳を上げて干す気配。年の暮れが近いのだと、藤丸にもわかった。
(去年の今頃は、まだ寝間から出られなかったな)
熱の三日間からこの方、藤丸にとっては初めての冬だった。本当の冬が来るというのは、思っていたよりずっと、屋敷全体が動くことなのだと知った。
* * *
その日の午後、母が文机を出した。
「今日は、少し長い文を読んでみましょう」
藤丸は頷いた。
最初の頃を思えば、ずいぶん変わった。あの日、筆を持ってみせられたときは、文字の形そのものが、頭の中の知識とまるで違っていた。崩した仮名は、現代の平仮名とは似て非なるものだった。続け書きにされた文字は、どこで一字が終わり、どこから次が始まるのか、最初は見分けもつかなかった。
手も、追いつかなかった。三歳の指は、まだ細かい動きに慣れていない。一文字書くだけで、紙の上に妙な角度の線が残った。
だが、形が掴めてくると、別のことに気づいた。
文字の並びが、何を言おうとしているのか――その筋を追うことだけは、最初から不思議なくらい早くできた。五十四年分の、文章というものへの慣れが、形の壁の向こうで、ずっと働いていたのだろう。
母が広げたのは、和歌をいくつか集めた手控えだった。
藤丸は、声に出して読んだ。つかえる箇所はあったが、最後まで読み切った。
母が、しばらく黙っていた。
「……もう、これだけ読めるのですね」
声に、驚きと、何かもっと別のものが混じっていた。
藤丸は、何と答えればいいかわからず、ただ頷いた。
母は、それ以上は聞かなかった。代わりに、筆を取って、新しい紙を広げた。
「では、今日はこれを、覚えてみましょう」
それは、短い言葉だった。藤丸にも読めた。
――己の足で、歩いてまいれ。
父があの日言った言葉だ。母がいつ聞いたのか、藤丸にはわからない。だが母は、それを選んで、紙の上に書いた。
藤丸は、その文字を見つめた。
母の手は、迷いなく動いた。藤原昌綱の血が、この手に流れているのだと、改めて思った。
* * *
日が傾く前に、岩丸が稽古から戻ってきた。
冷えた空気の中、肩からまだ白い息を吐いていた。藤丸を見つけると、足を止めた。
「また大きくなったか」
毎度同じことを言う。藤丸は、毎度同じように、首を横に振った。
岩丸は懐から、小さな包みを出した。手のひらに収まるほどの大きさだった。
「これを」
開けると、小さな木の独楽だった。粗末な作りだが、丁寧に磨かれている。
「稽古場の年寄りに、こしらえてもらった」岩丸は言った。「お主には、まだ早いかもしれぬが」
藤丸は、独楽を両手で包んだ。
木の温かみが、手のひらに残った。岩丸の手の温かさと、よく似ていた。
「ありがとうございます」
岩丸は、ただ頷いた。それから、ふと庭のほうに目をやった。
「今年は、北も大人しい」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
「父上が仰せには、本山殿との間は、今のところ、文の行き来だけで済んでおる。荒れる年もあれば、荒れぬ年もある。今年は、荒れぬ年らしい」
藤丸は、その言葉を、静かに受け取った。
(知っている)
まだ何年もかかる。本山との大きな戦は、もっと先だ。だが今、目の前にいる岩丸は、その先を知らない。ただ、今年が穏やかであることを、ありがたく思っている。
その温度差を、藤丸は黙って胸に収めた。
* * *
夜、屋敷の居間に、火桶が出された。
炭が一つ、橙色に灯っている。母がその傍に座り、岩丸が少し離れたところに腰を下ろした。藤丸は、火桶のそばに膝をついた。
手をかざすと、じんわりと暖かさが伝わってきた。
部屋全体が暖まるわけではない。火桶のまわりだけが、小さく、温度を持っている。それで十分だった。電灯も床暖房もない冬を、田村昌也は知らなかった。だが今、この小さな炎のまわりに集まることの意味を、藤丸は肌で覚え始めていた。
障子の外で、足音がした。
昌源だった。
文机を離れる時間は、滅多にない。だが今夜は、短い間だけ、居間に顔を出した。
「煤払いは、済んだか」
「はい」母が答えた。
昌源は、火桶の傍に立ったまま、しばらく炭を見ていた。それから、ぽつりと言った。
「今年は、皆、無事に年を越せそうじゃ」
それだけだった。
すぐに踵を返し、文机のほうへ戻っていった。藤丸はその背を見送った。
(無事に年を越せる、か)
当たり前のように聞こえる一言だった。だが藤丸は知っている。この先、必ずしも毎年そうとは限らないことを。今年がそうであることは、当たり前ではなく、ただの巡り合わせなのだということを。
火桶の炭が、小さく爆ぜた《はぜた》。
* * *
藤丸が独楽を膝に抱えたまま、うとうとし始めた頃、廊下の暗がりに、小さな気配があった。
駒丸だった。
部屋には入らず、ただ障子の隙間から、火桶を囲む家族の姿を、しばらく見ていた。何を思っているのか、その顔からは読めなかった。
やがて、何も言わずに、暗がりの中へ戻っていった。
藤丸は、薄目を開けて、それを見ていた。
駒丸の口元に、いつもの薄い笑みが浮かんで、すぐに消えた。
今日のことも、いつか駒丸の中で、何かの形に並べ替えられるのかもしれない。だが今はそれを、深くは考えなかった。
* * *
布団に入ってから、藤丸は今日のことを、一つずつ思い出していた。
氷の張った井戸。煤払いの音。母が選んで書いた、父の言葉。岩丸の独楽。火桶の小さな暖かさ。父の、短い一言。
戦がない年は、ただ静かに過ぎていく。それだけのことだ。だが、その「それだけのこと」が、どれほど貴重なものか、藤丸はようやく実感としてわかってきた。
前世では、誰かと火を囲むということがなかった。今は、ある。
独楽を、布団の中で、もう一度握った。木の温かみは、もうほとんど冷めていた。それでも、まだ少し、残っていた。
障子の外で、夜風が低く鳴った。藤丸は、目を閉じた。
「煤払い」は年末に屋敷や家の埃を払う年中行事で、この時代すでに広く行われていた習わしです。
今回は大きな事件のない、家族それぞれの「今」を描く一話でした。
戦のない年がどれほど貴重なものか――藤丸の視点を通して感じていただけたら幸いです。




