表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
9/140

藤の方の筆

三歳になった藤丸、初めての冬を迎えます。

煤払い、母の手習い、兄からの小さな贈り物――

穏やかな一日の中に、それぞれの想いが静かに流れます。

 朝、井戸端の水に薄い氷が張っていた。


 女中の一人が桶を覗いて、小さく声を上げた。今年初めての氷だという。藤丸はその氷を指でなぞってみた。冷たさが、三歳の指先にじんと残った。


 熱が引いてから、もうずいぶんと月日が経っている。庭の松はとうに葉を落とし切り、屋敷のあちこちで、女中たちの足音がいつもより忙しくなっていた。


「煤払い《すすはらい》にございます」


 お滝の声が、廊下の奥から聞こえた。長押なげしの埃を払う竹箒たけぼうきの音。畳を上げて干す気配。年の暮れが近いのだと、藤丸にもわかった。


 (去年の今頃は、まだ寝間から出られなかったな)


 熱の三日間からこの方、藤丸にとっては初めての冬だった。本当の冬が来るというのは、思っていたよりずっと、屋敷全体が動くことなのだと知った。


*  *  *


 その日の午後、母が文机ふづくえを出した。


「今日は、少し長い文を読んでみましょう」


 藤丸は頷いた。


 最初の頃を思えば、ずいぶん変わった。あの日、筆を持ってみせられたときは、文字の形そのものが、頭の中の知識とまるで違っていた。崩した仮名は、現代の平仮名とは似て非なるものだった。続け書きにされた文字は、どこで一字が終わり、どこから次が始まるのか、最初は見分けもつかなかった。


 手も、追いつかなかった。三歳の指は、まだ細かい動きに慣れていない。一文字書くだけで、紙の上に妙な角度の線が残った。


 だが、形が掴めてくると、別のことに気づいた。


 文字の並びが、何を言おうとしているのか――その筋を追うことだけは、最初から不思議なくらい早くできた。五十四年分の、文章というものへの慣れが、形の壁の向こうで、ずっと働いていたのだろう。


 母が広げたのは、和歌をいくつか集めた手控えだった。


 藤丸は、声に出して読んだ。つかえる箇所はあったが、最後まで読み切った。


 母が、しばらく黙っていた。


「……もう、これだけ読めるのですね」


 声に、驚きと、何かもっと別のものが混じっていた。


 藤丸は、何と答えればいいかわからず、ただ頷いた。


 母は、それ以上は聞かなかった。代わりに、筆を取って、新しい紙を広げた。


「では、今日はこれを、覚えてみましょう」


 それは、短い言葉だった。藤丸にも読めた。


 ――己の足で、歩いてまいれ。


 父があの日言った言葉だ。母がいつ聞いたのか、藤丸にはわからない。だが母は、それを選んで、紙の上に書いた。


 藤丸は、その文字を見つめた。


 母の手は、迷いなく動いた。藤原昌綱の血が、この手に流れているのだと、改めて思った。


*  *  *


 日が傾く前に、岩丸が稽古から戻ってきた。


 冷えた空気の中、肩からまだ白い息を吐いていた。藤丸を見つけると、足を止めた。


「また大きくなったか」


 毎度同じことを言う。藤丸は、毎度同じように、首を横に振った。


 岩丸は懐から、小さな包みを出した。手のひらに収まるほどの大きさだった。


「これを」


 開けると、小さな木の独楽こまだった。粗末な作りだが、丁寧に磨かれている。


「稽古場の年寄りに、こしらえてもらった」岩丸は言った。「お主には、まだ早いかもしれぬが」


 藤丸は、独楽を両手で包んだ。


 木の温かみが、手のひらに残った。岩丸の手の温かさと、よく似ていた。


「ありがとうございます」


 岩丸は、ただ頷いた。それから、ふと庭のほうに目をやった。


「今年は、北も大人しい」


 誰に言うでもなく、そう呟いた。


「父上が仰せには、本山殿との間は、今のところ、文の行き来だけで済んでおる。荒れる年もあれば、荒れぬ年もある。今年は、荒れぬ年らしい」


 藤丸は、その言葉を、静かに受け取った。


 (知っている)


 まだ何年もかかる。本山との大きな戦は、もっと先だ。だが今、目の前にいる岩丸は、その先を知らない。ただ、今年が穏やかであることを、ありがたく思っている。


 その温度差を、藤丸は黙って胸に収めた。


*  *  *


 夜、屋敷の居間に、火桶ひおけが出された。


 炭が一つ、橙色に灯っている。母がその傍に座り、岩丸が少し離れたところに腰を下ろした。藤丸は、火桶のそばに膝をついた。


 手をかざすと、じんわりと暖かさが伝わってきた。


 部屋全体が暖まるわけではない。火桶のまわりだけが、小さく、温度を持っている。それで十分だった。電灯も床暖房もない冬を、田村昌也は知らなかった。だが今、この小さな炎のまわりに集まることの意味を、藤丸は肌で覚え始めていた。


 障子の外で、足音がした。


 昌源だった。


 文机を離れる時間は、滅多にない。だが今夜は、短い間だけ、居間に顔を出した。


「煤払いは、済んだか」


「はい」母が答えた。


 昌源は、火桶の傍に立ったまま、しばらく炭を見ていた。それから、ぽつりと言った。


「今年は、皆、無事に年を越せそうじゃ」


 それだけだった。


 すぐに踵を返し、文机のほうへ戻っていった。藤丸はその背を見送った。


 (無事に年を越せる、か)


 当たり前のように聞こえる一言だった。だが藤丸は知っている。この先、必ずしも毎年そうとは限らないことを。今年がそうであることは、当たり前ではなく、ただの巡り合わせなのだということを。


 火桶の炭が、小さく爆ぜた《はぜた》。


*  *  *


 藤丸が独楽を膝に抱えたまま、うとうとし始めた頃、廊下の暗がりに、小さな気配があった。


 駒丸だった。


 部屋には入らず、ただ障子の隙間から、火桶を囲む家族の姿を、しばらく見ていた。何を思っているのか、その顔からは読めなかった。


 やがて、何も言わずに、暗がりの中へ戻っていった。


 藤丸は、薄目を開けて、それを見ていた。


 駒丸の口元に、いつもの薄い笑みが浮かんで、すぐに消えた。


 今日のことも、いつか駒丸の中で、何かの形に並べ替えられるのかもしれない。だが今はそれを、深くは考えなかった。


*  *  *


 布団に入ってから、藤丸は今日のことを、一つずつ思い出していた。


 氷の張った井戸。煤払いの音。母が選んで書いた、父の言葉。岩丸の独楽。火桶の小さな暖かさ。父の、短い一言。


 戦がない年は、ただ静かに過ぎていく。それだけのことだ。だが、その「それだけのこと」が、どれほど貴重なものか、藤丸はようやく実感としてわかってきた。


 前世では、誰かと火を囲むということがなかった。今は、ある。


 独楽を、布団の中で、もう一度握った。木の温かみは、もうほとんど冷めていた。それでも、まだ少し、残っていた。


 障子の外で、夜風が低く鳴った。藤丸は、目を閉じた。


「煤払い」は年末に屋敷や家の埃を払う年中行事で、この時代すでに広く行われていた習わしです。

今回は大きな事件のない、家族それぞれの「今」を描く一話でした。

戦のない年がどれほど貴重なものか――藤丸の視点を通して感じていただけたら幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ