岩丸の元服
年の暮れ、久武家に大きな知らせが届きます。
長兄・岩丸の元服。烏帽子親は、あの長宗我部国親様。
三歳の藤丸が見つめる、それぞれの想いとは――
霜が降りた。
庭の松の根元、枯れ葉の上に、白いものが薄く張っている。藤丸が指でなぞると、すぐに溶けて消えた。
屋敷の中が、いつもと違う速さで動いていた。女中たちが廊下を行き交う足音が、心なしか早い。台所のほうから、餅をつく音が聞こえてくる。表の門には、注連縄を持った男が出入りしていた。
(去年の今頃は、まだ寝間から出られなかったな)
熱が引いてから、初めての年の暮れだった。屋敷全体が一つの行事に向けて動いていく、その感じを、藤丸は今年初めて肌で知った。
* * *
その日の夕方、母に手を引かれて、藤丸は居間に呼ばれた。
岩丸も、駒丸も、すでに座っていた。父・昌源が、火桶の傍に座って、皆を待っていた。
珍しいことだった。父が家族をこうして集めることは、これまでになかった。
昌源は、しばらく炭を見ていた。それから、岩丸に目を向けた。
「岩丸。来る正月、元服をいたせ」
岩丸は、背筋を伸ばした。
「……はい」
短い返事だった。だが、その一言に、いつもの稽古帰りの岩丸とは違う重みがあった。
「烏帽子親は、国親様にお願いする」
昌源は続けた。
「お許しはすでに頂いておる。あとは、当日を待つばかりじゃ」
藤丸は、黙って父の言葉を聞いていた。
(国親様が、烏帽子親か)
筆頭家老の嫡男の元服に、主君自らが烏帽子親を務める。それがどれほどの意味を持つか、藤丸にはわかった。両家の結びつきを、形にして見せる場になる。
母が、静かに頭を下げた。
「ありがたきことでございます」
駒丸は、何も言わなかった。ただ、薄く笑っていた。藤丸には、その笑みの意味が、まだうまく読めなかった。
* * *
居間を出てから、藤丸は岩丸の後ろを、少しの間ついて歩いた。
岩丸は、いつもと変わらない足取りだった。だが、藤丸には、その背中が少し違って見えた。
「岩丸」
声をかけると、岩丸は足を止めた。
「どうした」
「……うれしいですか」
三歳の問いとして、おかしくないはずだった。岩丸は、少し考えてから、笑った。
「うれしいような、重いような。よくわからぬ」
それだけ言って、また歩き出した。
藤丸は、その背を見ながら思った。
(この人は、もうじき久武親信になる)
いつか本で読んだ名だ。誠実な勇将。元親から全幅の信頼を受け、伊予一国を任される男。そして——伊予岡本城で、討死する男。
知っている。全部、知っている。
知っていて、今、この人の重い足取りの後ろを歩いている。
(まだ、何年もある)
藤丸は、そう胸の中で繰り返した。今はまだ、何年もある。
* * *
元日の朝、屋敷の表に、年始の挨拶客が並んだ。
近隣の家臣の使者、商人筋の者、顔見知りの女中の親類——次々と訪れる客の応対に、屋敷全体が忙しく動いた。藤丸は縁側の隅から、その様子を見ていた。
ある使者が、母屋の前で、案内の女中相手に世間話をしていた。
「一条様の御屋敷も、近頃は何やら、落ち着かぬご様子だとか」
「はて、左様で」
「房冬様も、まだお若いのに、お体が優れぬとの噂もございます。御家の中も、いろいろと」
声は、すぐに止まった。案内の女中が、別の用を思い出したように、話を切ったのだ。藤丸には、それ以上は聞こえなかった。
(一条家も、変わっていく)
藤丸は知っている。一条房家はすでにこの世になく、後を継いだ房冬も、長くは保たない。長宗我部にとって頭の上がらぬ恩人の家が、これから先、ゆっくりと揺らいでいく。
今はまだ、噂話の切れ端でしかない。だが、藤丸の中では、それが一つの形を持って落ち着いた。
* * *
別の使者は、もっと軽い調子で、女中相手に話していた。
「御館様のお子も、もう三つになられたとか。近頃は、外にも少し出られるようになったと聞きましたが」
「弥三郎様は、お変わりなく、お静かなお方だそうですよ」
「それは、それは」
藤丸は、その名を聞いて、わずかに耳を澄ませた。
弥三郎。元親の、幼名。
今は、まだ、誰もが「物静かな子」としか語らない。
(いつか、会うのだろうな)
その予感だけが、また静かに胸の底に落ちた。
* * *
その頃、駒丸は、奥の小部屋で客の応対をしていた。
父からの言いつけだった。
「藤丸を連れて城へ上がる間、家のことは、お前に任せる。誰が来て、何を持って、何を言うていったか、控えておけ」
留守番ではない。家を代表する役目だ。駒丸は、そう聞いたとき、内心、面白いと思った。
訪れた客の一人は、隣の郷から年始の品を届けに来た、年配の男だった。世間話のついでに、駒丸は静かに問いを重ねた。
「今年は、そちらの郷も、ようございましたか」
「いやいや、上分はようございましたが、下の郷は、少し」
「ほう。何か、ご不便でも」
「いえ、何ということもございませんが……まあ、隣の家との間で、少し」
男は、それ以上は言わなかった。だが、駒丸には、それで十分だった。隣家との間に何かがある――それだけで、駒丸の目がわずかに光った。
男が帰ったあと、駒丸は、しばらく庭を見ていた。
(兄たちは、今頃、城の中か)
わずかな羨望が、胸の隅をかすった。だが、それを表に出すことはなかった。駒丸は、与えられた役目を、自分なりの形に作り替えていた。これもまた、悪くない仕事だ、と思った。
今日聞いた話を、駒丸は忘れぬよう、もう一度心の中で辿った。
* * *
夜、藤丸は布団の中で、今日のことを思い出していた。
霜の張った庭。岩丸の重い足取り。父の短い言葉。一条家の噂。弥三郎の名。
知っていることと、知らないことが、今日もまた少しずつ、入れ替わっていく。
岩丸が、もうじき名を変える。久武親信になる。その先に何があるかを、藤丸は知っている。だが、今夜のところは、それだけでいい。
(次にこの間へ来るときは、己の足で、歩いてまいれ、か)
父の言葉を、もう一度思い出した。
岩丸が、自分の足で、新しい名に向かって歩いていく。藤丸も、いつか、自分の足で、どこかへ向かって歩いていく日が来る。
今はまだ、その日のための欠片を、一つずつ集めるときだ。
障子の外で、夜風が低く鳴った。藤丸は、目を閉じた。
烏帽子親は、元服の際に烏帽子をかぶせる役目を務める人物で、主君やそれに準ずる人物が務めることも多く、両家の結びつきを示す重要な儀礼でした。
今回は元服前夜の一家の空気と、年始に交わされる噂話を通じて、少しずつ動いていく時代の気配を描きました。




