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弥三郎の影

初めての登城。三歳の藤丸が見る、本物の山城。

そして、同い年の「あの子」との、静かな出会い。

 朝のうち、霜はまだ解けていなかった。


 屋敷の門前で、藤丸は父・昌源と親信とともに、身支度を整えていた。今日は、親信の烏帽子親えぼしおやを引き受けてくれた国親への、御礼の伺候だった。


 藤丸にとっては、初めてのことだった。


 城へ上がる。


 その一言が、胸の奥で、三歳の藤丸にはまだうまく説明のつかない熱を持っていた。


*  *  *


 山道は、思っていたより細かった。


 ただの坂ではない。道は何度も折れ、見通しが利かないように曲がっている。これは敵が一気に駆け上がれぬようにするためだ、と藤丸は気づいた。本やゲームの画面で何度も見た「縄張り」という言葉が、足の裏から伝わってきた。


 途中、道が一段深く切れ込んでいる場所があった。土橋が架かっている。渓ではなく、人の手で掘られた堀切ほりきりだと、藤丸にはすぐにわかった。渡る間、両側の地形がすっぱりと削られているのが見える。


 (これが、実物か)


 画面の中で何百回も眺めた地形が、今、自分の足の下にあった。三歳の体では声も出せないほどの興奮を、藤丸はどうにか抑えた。親信が手を引いてくれていたが、藤丸はその手をぎゅっと握ったまま、ただ周りを見ていた。


 曲輪くるわが、一段ずつ重なっていた。一番下の段を過ぎ、次の段に上がるたび、視界が変わる。土を盛った塀が低く連なり、その向こうにまた次の段が見える。


 (詰、二の段、三の段……)


 頭の中の知識と、目の前の地形が、ぴたりと噛み合っていく。これほどの快さを、藤丸はしばらく忘れていた。


 頂のつめに出たとき、視界が大きく開けた。


 香長平野が、遠くまで広がっていた。国分川が、銀色の線になって、その真ん中を流れている。父が文を交わし、間合いを計っているのも、この景色の中のどこかでのことなのだろう。


 藤丸は、しばらく言葉を失った。


 昌源が、それに気づいて、ちらりと藤丸を見た。


「景色が、珍しいか」


「……はい」


 短く答えた。本当に珍しいのは、景色だけではなかった。だが、それを説明する言葉は、三歳の口にはなかった。


*  *  *


 詰の館で、国親への拝謁はいえつが叶った。


 昌源が深く頭を下げ、親信もそれに従った。藤丸も、女中に促されるまま、膝をつき、目を伏せた。主君に対して、目を合わせるものではないと、それだけは三歳の体にも染みついていた。


 藤丸が国親を見るのは、これが初めてだった。大きな声を出す人ではなかった。だが、座っているだけで、場の重みがその人を中心に集まっているのがわかった。


 昌源が、烏帽子親を引き受けてくれたことへの礼を述べた。国親は、しばらく親信を見ていた。


「久武の嫡男か」


「はい」


「良い顔をしておる。父に似たか」


 それだけだった。多くを語らない人だ、と藤丸は思った。だが、その短い言葉だけで、親信の背筋が、心なしか伸びたように見えた。


 国親の目が、藤丸に向いた。


「これが、三男か」


「藤丸と申します」昌源が答えた。「熱を患いましたが、今はもう、すっかり良くなりました」


 藤丸は、目を伏せたまま、その声を聞いていた。返事は、求められていなかった。求められたときだけ口を開く――それが、この場での自分の立場だと、藤丸にはわかっていた。


「大事にせよ」


 それだけ言って、国親は目を逸らした。


 藤丸には、それで十分だった。主君と呼ばれる人を、初めて間近に見た。声の大きさで人を動かす人ではない、ということだけは、わかった。


*  *  *


 拝謁を終え、館を出たところで、庭先を通った。


 乳母らしい女に付き添われて、小さな子どもが一人、縁先に座っていた。


 色が白かった。物静かに、自分の膝の上を見ている。


 (弥三郎様だ)


 藤丸には、すぐにわかった。同い年だと、聞いていた通りの子だった。


 弥三郎の膝の上には、一枚の枯れ葉があった。それをただ見ているだけだった。乳母が「もう、お放しなさいませ」と促した。弥三郎は、素直にそれに従った。だが、葉を手から離す瞬間、ほんの少しだけ、名残惜しそうな顔をした。


 藤丸が通り過ぎようとしたとき、傍に控えていた女中が、不意に身を硬くした。藤丸の歩みも止まった。


 主君の嫡子の前を、家臣の子がただ通り過ぎることは許されない。藤丸はとっさに、女中に促されるまま、その場に膝をつき、頭を垂れた。三歳の体に、行儀作法はまだ染みついていない。だが女中の手が背に置かれ、藤丸はそれに従った。


 懐から、何かが滑り落ちた。親信にもらった、あの小さな独楽だった。落ちた拍子に、コロコロと転がって、弥三郎の足元近くで止まった。


 藤丸は、頭を垂れたまま、身動きできなかった。拾いに出ることが許されるのかどうか、藤丸にはわからなかった。


 弥三郎が、先に動いた。


 縁先から、ゆっくりと手を伸ばし、独楽を取った。それを、何も言わずに、藤丸のほうへ差し出した。


 乳母が、慌てて止めようとしたが、弥三郎は構わず、独楽を差し出したままだった。


 藤丸の女中が、小声で促した。


「藤丸様。御礼を」


 藤丸は、頭を垂れたまま、両手で独楽を受け取った。声は出さなかった。出していい立場かどうか、わからなかった。ただ、深く頭を下げた。


 弥三郎は、それに答えるでも何でもなく、また自分の膝の上に目を戻した。


 乳母は、ただ弥三郎の傍に膝を寄せ、何も言わなかった。


 藤丸の女中が、深く頭を下げた。


「もったいないことでございます」


 それだけだった。子ども同士の言葉も、女中同士のやり取りも、それ以上は起こらなかった。


 藤丸は、独楽を握ったまま、頭を垂れた姿勢の隅から、弥三郎の横顔を見た。


 噂の通りだった。物静かで、声も小さい。武家の子としては、たしかに頼りなく見えるかもしれない。


 だが、藤丸には、それだけではないものが見えた気がした。


 名残惜しそうに葉を見ていた、あの目。落ちた独楽に、誰に促されるでもなく手を伸ばした、あの動き。拾わずとも、誰にも咎められなかったはずだ。それでも、弥三郎は動いた。


 (優しい子だ)


 今はそれだけしか、わからなかった。


 武将としてどうなのか、強さの片鱗がどこにあるのか――そういうことは、何も見えなかった。今日見たのは、ただ、小さなものを大事にする、物静かな子どもだった。


 それでよかった、と藤丸は思った。


 (噂は、本当だった。本当に、優しい子なんだ)


 いつか、この子が鬼若子おにわこと呼ばれるようになることを、藤丸は知っている。だが、それは今日のことではない。今日、藤丸が見たのは、噂通りの、姫若子ひめわことしての弥三郎だった。


 その本当の姿を、自分の目で見られたことが、藤丸には十分すぎることだった。


*  *  *


 その頃、屋敷では、駒丸が客の応対を続けていた。


 昨日からの言いつけだ。兄たちが城から戻るまで、家のことは駒丸に任されていた。


 その日訪れた客の中に、近隣の郷から年賀の品を届けに来た、顔見知りの男がいた。世間話のついでに、駒丸は静かに問いを重ねた。


「今年の祝いの品、ずいぶん早うございますな」


「いやなに、今年は早めに済ませよと、家の者から言われましてな」


「ほう。何か、急ぐ事情でも」


「……まあ、隣の家との縁談の話が、近頃こじれておりまして。早めに片づけておきたい用が、他にもいろいろと」


 男は、それ以上は言わなかった。だが、駒丸には、それで十分だった。縁談がこじれている――駒丸は、口元だけで小さく頷いた。


 男が帰ったあと、駒丸は、しばらく庭を見ていた。


 (兄たちは、今頃、城の中で何を見ているのか)


 わずかな羨望が、胸の隅をかすった。だが、それを表に出すことはなかった。


 駒丸は、与えられた役目を、自分なりの形に作り替えていた。城へ上がる兄たちには見えぬものが、屋敷に留まる自分には見える。今日聞いた話を、駒丸はもう一度、頭の中で丁寧になぞった。


*  *  *


 夜、藤丸は布団の中で、今日見たものを思い出していた。


 堀切を渡る土橋。曲輪が一段ずつ重なる様子。詰から見た香長平野と国分川。多くを語らない国親の目。


 そして、弥三郎の横顔。


 独楽を握ったまま、藤丸は思った。


 (あの子は、優しい子だった。それだけで、今日は十分だ)


 いつか、この優しさが、別の形に変わっていくのかもしれない。だが、それを今、確かめる必要はない。今日見たものを、そのまま、胸の中に置いておこうと思った。


 障子の外で、夜風が低く鳴った。藤丸は、独楽を握ったまま、目を閉じた。


今回登場した「弥三郎」は、後の長宗我部元親の幼名です。物静かで武将らしくないと評され「姫若子」と呼ばれていた逸話が伝わっていますが、本作でもその一面を描いてみました。

また、駒丸の場面で少し前と似た流れが続きますが、これは彼なりのやり方が形になっていく過程として、あえて重ねています。

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