昌源の机
一条家からの急な訃報。父・昌源の筆が、いつもと違う速さで動きます。
「間合い」の使い方の違いに、藤丸は何を見るのか――
霜が、いつもより厚く張っていた。
庭の松の根元、枯れ葉の上に降りた白いものが、朝の日差しを受けてもなかなか溶けなかった。藤丸は縁側から、それをしばらく見ていた。
親信の元服が済んでから、季節がもう一度回り始めていた。屋敷の中はいつもの静かさを取り戻していたが、その日の朝だけは、少し違った。
裏門のあたりで、慌てた足音がした。
* * *
「中村より、使者にございます」
女中の声が、廊下の奥まで届いた。
藤丸は、その響きだけで、何かがあったとわかった。普段の使者の声とは違う。急いでいるのに、抑えている。そういう声だった。
父・昌源の間に、人が集まっていく気配がした。藤丸は、その場には呼ばれなかった。だが、廊下の隅に座って、行き交う者たちの顔つきを見ているだけで、十分だった。
しばらくして、母が静かに言った。
「一条様の、房冬様が……お亡くなりになったそうです」
藤丸は、母の顔を見た。
声は、抑えられていた。だが、いつもより少し、低かった。
(房冬様が)
藤丸の中で、知っている名前が、静かに動いた。房家の跡を継いだ人。国親公がまだ若い頃、世話になった一条家の、今の主。
知っている。この先に何が起きるかも、知っている。だが、それを誰にも言えなかった。
* * *
昌源の間では、文机の上に、すでに紙が広げられていた。
藤丸は、女中に手を引かれて、その近くまで行くことを許された。父が呼んだわけではない。だが、咎められもしなかった。部屋の隅に座って、ただ見ていることだけが、藤丸の役目だった。
昌源は、筆を取った。
迷いがなかった。本山殿への返事を「三日、寝かせる」と言っていた、あの父と同じ人とは思えないほど、速かった。
「弔いの文は、急ぐものじゃ」
誰に言うでもなく、昌源はそう言った。それから、藤丸のほうへ、ちらりと目をやった。
「本山殿への文と、何が違うか、わかるか」
藤丸は、すぐには答えなかった。三歳の口に、その答えを乗せるのは、まだ難しかった。
「……間合いが、違う」
それだけ、言った。
昌源は、何も言わずに、小さく頷いた。それから、また筆を動かした。
藤丸は、その手元を見ていた。
(本山殿は、隣人だ。間合いを計る相手だ。だが一条家は、長宗我部にとって恩のある家だ)
恩のある相手に、間を置くことは、礙りになる。早く出すことそのものが、こちらの言葉になる。本山殿の文では「待たせること」が言葉だった。一条家への文では「速さ」が言葉だった。
同じ筆、同じ墨。だが、間合いの使い方が、まるで逆だった。
藤丸は、それを、黙って胸に収めた。
* * *
文をしたためながら、昌源は、傍にいた若い武士に向けて、ぽつりと言った。
「房基様は、まだ十九と聞く」
「は」
「智に優れたお方だそうじゃ。されど、若い」
それだけだった。続きは、語られなかった。だが藤丸には、その短い言葉の裏にあるものが、なんとなくわかった。
恩のある家の主が、若くして代わる。それは、長宗我部にとって、悪いことではないかもしれない。だが、まだわからないことでもある。
(房基様、か)
藤丸は、その名を、静かに記憶の中に置いた。
いつか本で読んだ覚えがある。この人は、後に、長宗我部国親と本山との間に立って、和を結ぶ役を担うことになる。今はまだ、誰もそれを知らない。藤丸だけが、知っている。
知っていて、今、何も言えない。
それでいい、と藤丸は思った。今日は、ただ見ているだけでいい。
* * *
母・藤の方は、その日、いつもより口数が少なかった。
夕方、行灯に火を入れに来たとき、藤丸の傍にしばらく座っていた。
「私の父も」
そう言って、少し止まった。
「一条様にお仕えする家の者でした。房冬様にも、幾度かお目にかかったことがあると、聞いたことがあります」
それだけだった。多くは語らなかった。藤丸も、それ以上は聞かなかった。
母の横顔が、炎の灯りの中で、いつもより静かに見えた。亡くなった祖父・昌綱と、その昌綱が仕えた家の主が、同じ年に、同じように世を去ったわけではない。だが、遠いところで繋がっている誰かが、また一人いなくなった――そのことだけが、母の中で、小さく重なっているのかもしれなかった。
藤丸は、母の手を、そっと握った。
母は、何も言わずに、その手を握り返した。
* * *
その頃、駒丸は、客の応対に出ていた。
訃報が伝わると、近隣からの見舞いの使者が、ひとり、またひとりと屋敷を訪れた。駒丸は、父に言いつけられたわけでもなく、自分からその場に出て、応じていた。
「このたびは、ご愁傷にございます」
「うむ。久武家としても、お悔やみを申し上げる」
型通りの言葉を返しながら、駒丸は、訪れる者たちの顔つきを、ひとつずつ見ていた。
ある家の使者は、目を伏せて、本当に惜しむような顔をしていた。一条家との縁が深い家なのだろう。別の使者は、悔やみの言葉を述べながらも、どこか他のことを考えているような目をしていた。一条家との縁が、それほど深くはない家なのだろう。
(深さが、違う)
駒丸は、それを、ひとつずつ、静かに数えていった。誰がどれだけ一条家を頼りにしていたか。誰が、これを機に、何かを変えようとするか。今すぐ使う気はなかった。ただ、集めておく。
ある使者が、世間話のついでに、こんなことを言った。
「房基様は、お若いが、なかなかの御方だとか。津野の家あたりは、もう気を引かれておるそうで」
「ほう」
駒丸は、それだけ返した。それ以上は聞かなかった。聞かなくても、十分だった。
客が帰ったあと、駒丸は、しばらく庭を見ていた。
(兄たちは、今頃、父上の間で何を見ているのか)
わずかな興味が、胸の隅をかすった。だが、それを表に出すことはなかった。今日の自分の役目は、これでよい。駒丸は、そう思った。
* * *
夕刻、文をすべて出し終えた昌源が、文机を離れた。
藤丸は、部屋の隅から、それを見ていた。
昌源は、立ち上がりかけて、ふと藤丸に目を留めた。しばらく、何かを見定めるような目だった。母とも、駒丸を見るときとも違う、いつもの値踏みするような目だった。
「藤丸」
「……はい」
「今日、わしの傍で、何を見ていた」
藤丸は、少し考えてから、答えた。
「……間合いが、違う、と」
昌源は、しばらく黙っていた。それから、ひとつ、小さく頷いた。
「いずれ、お主にも」
それだけ言って、言葉を止めた。続きを、すぐには言わなかった。
「お主にも、机に向かう日が来る」
藤丸は、父の顔を見上げた。
「己の足で、歩いてまいれ」と言われた、あの日のことを思い出した。あの一言も、今のこの一言も、どちらも軽い言葉のようで、藤丸の中には重く残った。
昌源は、それ以上は何も言わずに、部屋を出ていった。
* * *
夜、藤丸は布団の中で、今日見たものを、一つずつ思い出していた。
中村よりの使者の声。父の、速すぎる筆。本山殿への文とは逆の間合い。母の、静かな横顔。駒丸が客の顔つきを見ていた、あの目。そして、父の最後の一言。
(机に向かう日が来る、か)
まだ、いつのことかはわからない。だが、その日は、必ず来る。藤丸はそう感じた。
親信が、自分の足で歩いていく道を、もう見つけている。駒丸は、自分のやり方を、すでに作り始めている。藤丸の机は、まだ、どこにもない。
(房基様、か)
新しい一条家の主の名を、もう一度、胸の中で繰り返した。今はまだ、誰も知らない先のことだ。だが、藤丸だけは、その先を知っている。
知っていることと、その日が来るのを待つことは、違う。
(今は、まだ待つときだ)
障子の外で、夜風が低く鳴った。藤丸は、目を閉じた。
一条房家の跡を継いだ房冬は、家督継承から短い期間で世を去ったとされています。今回はその代替わりの慌ただしさと、家同士の「間合い」の違いを、父と子のやり取りを通じて描きました。




