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浦戸の風

兄・親信に連れられ、初めて北の境まで足を延ばす藤丸。

その先で見たのは、まだ手の届かない、光る海でした。

 霜の厚みが、少しだけ和らいでいた。


 庭の松の根元、白く凍りついていた土が、朝のうちに溶けて黒く湿る日が増えてきた。一条家の代替わりの知らせが屋敷を一巡してから、もう半月ほどが経っていた。父・昌源の間からは、まだ折々に、紙を擦る音とすずりを磨る音が聞こえてくる。


 (房基様、か)


 藤丸は、その名を、何度か胸の中で繰り返していた。十九歳の新しい一条家の主。長宗我部にとって、まだ間合いの測り方が固まっていない相手だった。一条家が変わるということは、その向こうにいる本山も、何かを考え直すかもしれない。藤丸には、そこまでしかわからなかった。


*  *  *


 その日の朝、父の間に、いつもより張った空気があった。


 藤丸は廊下の隅に座って、行き交う者たちの顔つきを見ていた。声をひそめた話の切れ端が、いくつか耳に届く。


「北の境、近頃の様子を、見てまいれ」


 父の声だった。


 しばらくして、親信が部屋から出てきた。藤丸の前で足を止める。


「藤丸。今日、北の境まで使いに出る」


「……はい」


「父上の許しを得た。お主も来るがよい」


 短い言葉だった。だが、藤丸の胸の奥が、わずかに高鳴った。


*  *  *


 道は、これまでとは違った方角だった。


 国分川を下るのではなく、上る。山が、少しずつ近づいてくる。田の広がりが狭まり、代わりに木立が増えていった。


 (北は、本山の方か)


 藤丸は、頭の中の知識を、静かに呼び出した。一条家の代替わりという揺らぎが、北の隣人をどう動かすか――父が気にしているのは、おそらくそういうことだった。今は何も起きていない。だが、何も起きていないことを確かめるためにも、人は歩かなければならない。


 道の途中、親信が足を止めた。


「ここからじゃ」


 小高い場所だった。


 眼下に、これまで見たことのない眺めが広がっていた。北には、山がいくつも連なっている。本山の地は、あの山々の向こうにあるのだろう。


 そして、目を南に転じると――


 遠く、霞の向こうに、光るものがあった。


「あれは」


「海じゃ」親信が答えた。「浦戸の方の海よ。ここからだと、あの先まで見える」


 藤丸は、しばらく言葉を失った。


 灰色とも銀とも言えない、細い光の帯だった。だが、確かに、海だった。


「あの港は」藤丸は、少し迷ってから聞いた。「我らのものですか」


 親信は、少し考えてから答えた。


「いや」短く言った。「あの辺りは、まだ本山殿の力が強い。我らの船は、出せても、あの湾の中までは、まだ思うようにいかぬ」


 藤丸は、その光る帯を、もう一度見た。


 (国分川を下れば、あの海に出る)


 親信と歩いた、あの川の流れが、今、頭の中で一本の線につながった気がした。あの川は、結局、あの海に注いでいる。だが、その出口は、まだ自分たちのものではない。


 藤丸は、その光る帯を、長く見ていた。


*  *  *


 帰り道、見知った後ろ姿があった。


「あれは」


 親信も気づいた。


「甚兵衛か」


 甚兵衛だった。大きな荷を背負い、汗をかきながら、岡豊への道を歩いていた。藤丸たちに気づくと、足を止めて頭を下げた。


「これは――藤丸様、親信様」


「堺から、戻ったところか」藤丸が聞いた。


「へえ、つい先日、浦戸まで舟が着きましてな。そこから歩いて、ようやく」


 藤丸の指が、わずかに動いた。


 (浦戸から、歩いて来たのか)


 甚兵衛のような行商人は、誰の領地であるかにかかわらず、荷を担いで歩いて越えてくる。武家の使者とは、越えられる境が違うのだと、藤丸は気づいた。


「堺は、どうでしたか」


「相変わらず、賑やかなものでございますよ」甚兵衛は、肩の力を抜いて笑った。「都の方の話も、相変わらず物の値が荒れておるとか。一条様のお家替わりの話も、堺の商人衆の間では、ちらほら囁いております」


「房基様は、どんな方ですか」


「お若いが、目利き《めきき》がおできになるお方だ、という噂もございます」


 それだけだった。甚兵衛は、それ以上は深く語らなかった。三歳の子の問いに、これ以上の詳しい話は無用だと思ったのだろう。


 藤丸は、それで十分だった。


 甚兵衛は、また頭を下げて、別の道へ折れていった。


*  *  *


 屋敷へ戻ると、駒丸が縁側にいた。


 藤丸たちが戻るのを、待っていたかのように。


「北の境まで、行ったそうじゃな」


 穏やかな声だった。


「うむ」親信が答えた。「父上の使いに、付いていっただけじゃ」


「ほう」


 駒丸は、親信ではなく、藤丸を見た。


「何を見た」


「……海が、見えました」


 藤丸は、それだけ答えた。


「海、か」駒丸は、少し間を置いた。「浦戸の方か」


 藤丸の指が、わずかに動いた。


 (なぜ、それを知っている)


 答えるすべはなかった。だが駒丸は、それ以上は問わなかった。ただ、藤丸の顔を、しばらく見ていた。前のように、ただ面白がるだけの目ではなかった。何かを測るような、少し長い間だった。


「藤丸は、近頃、よその土地の話が、好きなようじゃな」


 藤丸は、答えなかった。答えるべき言葉を、まだ持っていなかった。


 駒丸は、薄く笑った。


「よいことじゃ。家のために、よう知っておくがよい」


 それだけ言って、駒丸は立ち上がり、奥へ戻っていった。


 藤丸は、その背を見送った。


 (今のは、何だ)


 咎める言葉ではなかった。むしろ、励ますような言葉だった。だが、藤丸の胸の底には、何か冷たいものが残った。


 駒丸が、藤丸の「好み」に気づいた。それを、初めて、本人の前で口にした。


 今までは、ただ黙って胸の内に仕舞うだけだった。今日は、違った。


 (見ているだけでは、なくなったのか)


*  *  *


 夜、藤丸は布団の中で、今日見たものを、一つずつ思い出していた。


 山の向こうに見えた、北の境。霞の先に光っていた、海。「我らのものではない」という、親信の短い一言。甚兵衛の、堺の話。そして、駒丸の、あの少し長い間。


 あの海は、まだ手の届かないところにあった。だが、見えた、ということだけは、今日、確かに胸に残った。


 (種をまいて、終わりではないんだな)


 まいた種は、いつか誰かの目にも留まる。藤丸は、そのことを、今日初めて、実感として知った気がした。


 障子の外で、夜風が低く鳴った。藤丸は、目を閉じた。


浦戸の海が視界に入る今回は、藤丸の関心が「屋敷の中」から「土地そのもの」へと広がっていく一話でした。

駒丸が藤丸の変化に初めて言及する場面もあり、兄弟それぞれの視線の違いも感じていただけたら幸いです。

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