駒丸の棚
藤丸は、駒丸のやり方を、初めて自分の手で真似てみます。
そして、その瞬間を、駒丸自身に見られてしまいました。
霜が、ほとんど見えなくなっていた。
庭の松の根元、枯れ葉の隙間から、小さな新芽がのぞき始めている。井戸端の氷は、もうとうに張らなくなっていた。一条家の代替わりの知らせが屋敷を巡ってから、ふた月ほどが経っていた。
藤丸は、最近、廊下を歩く速さを変えていた。
以前は、知らない場所を覚えるために歩いた。今は、誰がどこにいて、何をしているかを知るために、歩く速さを緩めることがある。
いつからそうなったのか、藤丸自身にもよくわからなかった。ただ、気づいたときには、もうそうしていた。
* * *
その日の午後、裏門のあたりに、見知らぬ使者が来ていた。
近隣の郷から、年貢の納め方について尋ねに来た者だという。応対に出たのは、駒丸だった。父は文机を離れず、親信は稽古に出ていた。こういう用は、いつの間にか駒丸の仕事になっていた。
藤丸は、縁側の隅から、それを見ていた。
「今年の納め、少し遅れておるようじゃな」
駒丸が言った。咎める調子ではなかった。ただ、世間話のような軽さだった。
「いや……」使者は、少し詰まった。「実は、村の方で、少々」
「ほう」
駒丸は、それだけ返した。それ以上は問わなかった。ただ、黙って使者の顔を見ていた。
間が空いた。
使者は、その間に居心地が悪くなったらしい。藤丸には、それがわかった。誰かに何かを尋ねられて黙っていられるのは、案外、難しいことなのだ。沈黙を埋めたくなる。
「……今年は、村の中で、ちと揉め事がございまして。年貢の取り分を、誰がどれだけ出すかで」
「揉め事、か」
「いえ、大したことでは……」
「うむ。大したことではないのじゃろう」
駒丸は、軽く頷いて、それで話を切った。使者は、ほっとしたような顔をして、頭を下げて去っていった。
藤丸は、その一連のやりとりを、ただ見ていたのではなかった。今日は、違う見方をしていた。
(何を聞いたか、ではない。どう聞いたか、だ)
駒丸は、知りたいことを、直接には尋ねなかった。代わりに、関係のない問いを軽く投げて、それから黙った。黙ることで、相手の方から喋らせた。咎める声も、急かす声も、一度も出さなかった。
(これが、駒丸の手口か)
知っていたつもりだった。だが、内容ではなく、やり方そのものを、こんなにはっきり見たのは、今日が初めてだった。
* * *
藤丸には、確かめたいことがあった。
甚兵衛の話では、堺の方で紙の値が荒れているという。一条家の代替わりが、中村を通る荷の動きに、何か影響を与えているのかどうか――それを、藤丸は知りたかった。
だが、三歳の子どもが、商人や使者に向かって直接そんなことを尋ねれば、誰でも変に思う。これまでは、聞こえてくる話を、ただ拾うだけだった。今日は、少し違うことを試してみたかった。
午後遅く、お咲の母方の伯母だという女中が、台所のあたりで、他の女中と話していた。中村から来たばかりだという。藤丸は、その近くをゆっくりと歩いた。
「中村は、賑やかな所だと聞きました。今も、そうですか」
何でもない問いだった。三歳の子が聞いても、おかしくない問いだった。
「ええ、まあ……」女中は、少し笑った。「賑やかと言えば、賑やかですけれど」
藤丸は、それだけ言って、黙った。
何も聞かなかった。ただ、女中の顔を、少しだけ見ていた。
間が、空いた。
女中は、その間に、少し居心地が悪そうにした。藤丸が何かを待っているように見えたのかもしれない。あるいは、ただの子どもの無邪気な顔に、誘われたのかもしれない。
「……このところ、商人衆の出入りが、前より少のうなったとは聞きますけれど。御家替わりで、皆、様子を見ておるのでしょう」
藤丸は、頷いた。
それ以上は、聞かなかった。聞く必要が、もうなかった。
* * *
廊下の角を曲がったところで、藤丸は足を止めた。
駒丸が、そこに立っていた。
いつから見ていたのか、藤丸にはわからなかった。駒丸は、何も言わずに、ただ藤丸を見ていた。
藤丸は、何も言わなかった。言える言葉を、持っていなかった。
駒丸の目が、いつもと少し違っていた。これまでの「面白がる」目とは、何かが違う。だが、それが何なのか、藤丸にはうまく言葉にできなかった。
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
やがて、駒丸が口を開いた。
「お主」
「……はい」
「今のは、誰に教わった」
藤丸は、答えなかった。答えられなかった。教わったのではない。見て、覚えた。それを、どう言えばいいのか、三歳の口にはまだ重すぎた。
駒丸は、それ以上は問わなかった。
ただ、薄く笑った。いつもの笑みだった。だが、今日のそれは、いつもより少しだけ、長く続いた気がした。
何を思っているのか、藤丸には読めなかった。
面白がっているのか。それとも、別の何かか。
駒丸は、何も言わずに、踵を返した。
藤丸は、その背を見送った。
(今のは、何だ)
わからなかった。喜んでいるようにも見えなかった。怒っているようにも見えなかった。ただ、何かを、新しく棚に仕舞ったような、そういう気配だけが残った。
* * *
その夜、藤丸は布団の中で、今日のことを、一つずつ思い出していた。
使者の間の取られ方。女中の、ふと漏れた一言。そして、廊下の角で向き合った、駒丸の目。
(あの目は、味方の目だったのか。それとも――)
答えは、まだなかった。
これまでは、駒丸が藤丸を見る側で、藤丸はただ見られる側だった。今日、初めて、藤丸も同じやり方で何かを掘り出した。その瞬間を、駒丸に見られた。
見られたことが、良いことなのか、悪いことなのか。藤丸にはまだ、判断がつかなかった。
(この兄が、いつか敵になるのか、それとも――)
その先は、考えても、今は答えが出ないことだった。
ただ、一つだけ、はっきりしたことがあった。
駒丸の棚には、今日、また一つ、何かが仕舞われた。今度仕舞われたのは、よその国の話ではない。藤丸自身のことだ。
それだけが、静かに、重く残った。
障子の外で、夜風が低く鳴った。藤丸は、しばらく目を開けたまま、闇を見ていた。
今回は、藤丸が「見られる側」から「見る側」へと踏み出す一話でした。駒丸との距離感が、少しずつ変わり始めています。




