藤丸の答え
駒丸に問われたあの一言に、藤丸がようやく答えを返します。
「同じ形をしておるようで、違うところを向いておる」――駒丸が見た、藤丸の姿とは。
霜は、もう朝にも見えなくなっていた。
庭の松の根元、枯れ葉の隙間から伸び始めた新芽が、ひとつ、またひとつと増えている。井戸端の水も、もう冷たいだけで、凍ることはなかった。
藤丸は、廊下の隅に座って、何日か前のことを思い出していた。
(今のは、誰に教わった)
駒丸の問いが、まだ胸の奥に残っていた。答えなかった。答えられなかった。それだけのことのはずだった。だが、何日経っても、その問いが消えてくれなかった。
(答えを、持っていないわけじゃない)
ただ、それを言葉にする勇気が、まだなかった。
* * *
その日の午前、親信に誘われて、藤丸は屋敷の外まで出た。
「父上への返事を届けるだけじゃ。ついてくるなら、ついてこい」
短い言いつけだった。藤丸は頷いて、親信の後ろをついて歩いた。
田には、まだ稲の気配はなかった。代わりに、刈り株の間に、青々とした葉が一面に伸びている場所があった。
「あれは」
「麦じゃ」親信が言った。「稲を刈ったあとの田に、麦を作る。米だけでは、年によって心もとない。麦があれば、いくらかは凌げる」
藤丸は、その青さを見た。
(米だけじゃない、か)
当たり前のことのようで、藤丸の中で、何かが静かに繋がった。年貢の数字、紙の値、布の値――そういうものの隣に、この青い葉も並ぶのだと、初めて実感した。
道の途中、親信がふと、誰に言うでもなく呟いた。
「北も、東も、今のところは波風が立っておらぬ。本山も、安芸も、大人しいものよ」
藤丸は、それを黙って聞いた。
(安芸、か)
西の一条、北の本山。それに加えて、東にもう一つ、名前があることを、藤丸は今日、初めて声にして聞いた。
* * *
屋敷へ戻る途中、見知った背中があった。
「甚兵衛か」
親信が声をかけた。甚兵衛は荷を下ろし、深く頭を下げた。
「これは、親信様。藤丸様も」
「堺は、変わりないか」
「相変わらず賑やかでございますよ」甚兵衛は笑った。「近頃は、紀州のほうの船も、堺にはよく出入りしておるようで。あちらの商人衆も、なかなか手広い」
それだけだった。深い話ではなかった。だが藤丸は、その一言を、静かに胸に置いた。
(紀州、か)
堺だけではない。その向こうにも、いくつもの土地が繋がっている。今はまだ、名前を聞いただけだ。それで十分だった。
甚兵衛が荷を背負い直し、また道を行った。
* * *
屋敷に戻ると、駒丸が縁側にいた。
いつものように、何をするでもなく、ただそこに座っていた。藤丸は、足を止めた。
このまま通り過ぎることもできた。だが、藤丸は縁側に近づいた。
駒丸が、目だけをこちらに向けた。何も言わなかった。
「……教わったのではありません」
藤丸は、ようやく言葉にした。
「見て、覚えました」
駒丸は、しばらく何も言わなかった。表情も、動かなかった。藤丸は、その沈黙を、今度は埋めようとしなかった。前に、駒丸がよくやっていたことだった。
やがて、駒丸の口元が、わずかに緩んだ。
「お主の見ているものと」
駒丸は言った。
「わしの見ているものは、同じ形をしておるようで、違うところを向いておるな」
藤丸は、その言葉の意味を、すぐには掴めなかった。だが、駒丸の目には、もう面白がるだけの色はなかった。何かを測るような、それでいて少し、認めるような色が混じっていた。
「わしは、人の弱みを見ておる」駒丸は続けた。「お主は」
言葉が、そこで止まった。
「お主は、何を見ておるのか、まだわからぬ。だが、人の弱みではないようじゃ」
それだけ言うと、駒丸は立ち上がった。
「まあ、よい」
短く言って、奥へ歩いていった。一度も振り返らなかった。
藤丸は、その背を見送った。
(味方でも、敵でもない)
今日はっきりしたのは、それだけだった。だが、それだけでも、何かが変わった気がした。これまでは、ただ見られる側だった。今日、初めて、自分の言葉で、駒丸に何かを差し出した。
* * *
夜、藤丸は布団の中で、今日のことを思い出していた。
麦の青さ。安芸という、もう一つの名前。紀州という、堺の向こうの土地。そして、駒丸の、あの短い言葉。
(同じ形をしておるようで、違うところを向いておる、か)
駒丸の言葉を、もう一度、胸の中で繰り返した。
戦は親信が担う。暗躍は駒丸が担う。自分は、何を担うのか――まだ、はっきりとした形にはなっていない。だが今日、駒丸の口から聞いたその一言が、輪郭の最初の線になった気がした。
父の「机」が、いつか自分のものになる日が来る。
その日のために、今はまだ、欠片を集めるときだ。
障子の外で、春の気配を含んだ風が、低く鳴った。藤丸は、目を閉じた。
麦作(二毛作)や安芸・紀州といった新しい土地の名前が、藤丸の視野に少しずつ加わっていく一話でした。
駒丸との関係も、「見る・見られる」の一方通行から、少しだけ変わり始めています。




