藤丸の机
七つになった藤丸に、父・昌源から呼び出しがかかります。
差し出されたのは、年貢の覚書と商人とのやりとりの記録――
「机」がついに、藤丸自身のものになるとき。
霜の季節を、もう何度か数えていた。
藤丸は、七つになっていた。
この数年で起きたことの中でも、親信の初陣は、ひときわ重かった。北の境で、本山方の小勢が田を荒らしに出たという知らせが入り、父の命で出た一隊に、親信も加わった。大きな戦ではなかった。半日ほどの小競り合いで、本山方はすぐに退いたという。それでも、親信が初めて刀を抜いて人と渡り合ったという事実は、屋敷の中に、これまでとは違う重みをもたらした。
戻ってきた親信は、いつもと変わらぬ顔をしていた。だが藤丸の前で、ただ一度だけ、こう言った。
「人を斬るというのは、思っていたより、静かなものだった」
それだけだった。藤丸は、その言葉を、黙って受け取った。
(この人は、もうじき、本物の武人になる)
親直は、相変わらず縁側にいることが多かったが、近頃は客の応対だけでなく、屋敷の細かい取り決めまで任されることが増えていた。誰も親直にそう命じたわけではない。気づけば、そうなっていた。
* * *
藤丸自身も、この三年で、変わった。
文字は、もう不自由なく読めた。母から教わった和歌や手控えだけでなく、屋敷に出入りする文の写しにも、目を通せるようになっている。
それでも、足りない、と藤丸は思っていた。
知りたいのは、紙の値や、誰がどこへ向かったかという、目の前の欠片だけではなかった。
長宗我部という家が、土佐の中で、実のところどれほどの力を持っているのか。本山が、安芸が、一条が、それぞれどれほどの田と兵を抱え、どこで綱を引き合っているのか。堺や畿内で起きていることが、回り回って、いつ、どんな形で、この土佐にまで届くのか――藤丸が本当に見たかったのは、そういう、もっと大きな絵図だった。
前の生では、そういう全体の絵図を、誰かがすでに描いて、まとめておいてくれた。新聞を開けば、今日の世の中の形がわかった。一人の人間が、何もかもをその場で集める必要はなかった。
ここには、そういうものが、何もない。
全体の絵図は、誰も描いていない。父・昌源の頭の中にだけ、おぼろげにあるのかもしれない。だが、それを見せてもらえる身分でも、年でもなかった。
(だったら、自分で描くしかない)
そう思ったとき、藤丸は、ふと思い出した。前の生で、ある物事の全体を知ろうとするとき、たいてい、最初は手元にある小さな数字からしか、始められなかった。一つの部署の数字、一つの取引の値――それだけでは、何もわからない。だが、似たような数字を、時をかけて、あちこちから集めて並べていくと、ある日、ふいに、全体の形が見えてくることがあった。
大きな絵図は、いつも、小さな欠片からしか、組み立てられない。
紙の値も、商人の噂も、年貢の数字も――今の藤丸が拾える欠片は、本当に知りたいことに比べれば、あまりに小さかった。それでも、欠片を集めることをやめるわけにはいかなかった。今、目の前にある小さな値の違いの中に、いつか見えてくる、もっと大きな何かの、最初の一筆があるはずだった。
(今のままでは、追いつかない)
そう思うようになったのは、いつからか、藤丸自身にもよくわからなかった。ただ、気づいたときには、もう動いていた。
廊下の隅で女中たちの世間話に耳を澄ませる、あの問いの少ない聞き方を、藤丸はずっと磨いてきた。何も聞かずに黙る。間が空くと、相手のほうから喋り出す。一度覚えたその手は、使うたびに、少しずつ精度が上がっていった。
それだけでは、まだ足りなかった。
甚兵衛が戻る日が近づくと、藤丸は、誰よりも先にそれを知ろうとした。お咲の様子が、いつもと違う日がある。それを見れば、おおよその見当がつく。声をひそめた話が始まりそうな気配にも、前よりずっと早く気づくようになった。話が始まってから近づくのでは遅い。始まる前に、その場の近くにいる――そういう小さな工夫を、藤丸は一つずつ、自分のものにしていった。
聞いた話は、ただ聞き流さなかった。
紙の値、布の値、年貢の数字――甚兵衛が持ち帰る話、商人が屋敷の門先で交わす値の話。藤丸は、それを一つずつ、頭の中に置いていった。ある時、二人の商人が、同じ品を、少し違う値で言っているのに気づいたことがあった。藤丸は、それを聞き流さず、別の日に、別の者から、もう一度同じ品の話を引き出した。一度では、わからない。二度、三度と重ねて、ようやく見えてくるものがある。
(一つひとつは小さい。だが、これは、あの大きな絵図の、ほんの一画にすぎない)
そう思いながら、藤丸は、欠片を集め続けた。
お咲とも、よく言葉を交わすようになった。お咲はもう、針の腕も、母の用も、危なげなくこなしている。父・甚兵衛が持ち帰る話を、お咲が藤丸に話してくれることも増えた。お咲の口から出る話は、女中たちの噂より、ずっと正確だった。誰が、何を、いつ、どれだけ――その輪郭が、お咲の話には、いつもあった。
藤丸は、それを聞くたびに、自分の中の地図に、また一つ、線を引いた。
* * *
その日の午後、母が静かに言った。
「父上が、お呼びです」
藤丸は、頷いた。
何の用かは、すぐにはわからなかった。ただ、母の声に、いつもとは違う響きがあった。
* * *
父・昌源の間に入ると、文机の上に、紙の束が広げられていた。見たことのある光景だった。だが今日は、いつもと違うことがあった。
父が、藤丸に向かって、その紙の一枚を差し出したのだ。
「これを、見よ」
藤丸は受け取った。年貢の覚書だった。郷の名前と、数字が並んでいる。以前、廊下の隅から見ていた、あの紙束の一枚だ。
「上分の郷と、下の郷。数を見比べてみよ」
藤丸は、紙の上の数字を、一つずつ目で追った。
上分の郷は、去年より少し増えている。下の郷は、去年とほとんど変わらない。
「……上分は増え、下は変わらず」
それだけ、答えた。
昌源は、何も言わなかった。ただ、もう一枚、別の紙を差し出した。
「これも」
今度は、商人とのやりとりを記した紙だった。紙の値、布の値。藤丸は、それも一つずつ見比べた。値の動きには、見覚えがあった。
「紙の値が、少し上がっています。前に、商人が二人、違う値を言っていたのと……合うところがあります」
昌源が、わずかに眉を上げた。
「なぜ、そう思う」
藤丸は、少し考えた。
「……堺のほうで、何かあったのではないかと」
それ以上は、わからなかった。だが昌源は、そこで初めて、小さく頷いた。
「よい」
それだけだった。だが、藤丸には、その一言の重さがわかった。
* * *
昌源は、紙を片づけながら、ぽつりと言った。
「以前、お主に言ったことがある。覚えておるか」
藤丸は、すぐに頷いた。
「己の足で、歩いてまいれ、と」
「それから」
「いずれ、机に向かう日が来る、と」
昌源は、何も言わずに、ただ藤丸を見た。
「今日からは、月に幾度か、ここへ来るがよい。文を読むだけでなく、数を見比べることも、覚えよ」
「……はい」
短い返事だった。だが、藤丸の胸の中では、何かが静かに動いた。これまでは、廊下の隅から、欠片を拾い集めるだけだった。今日から、その欠片を、正面から見ることが許された。
「教えてはやらぬ」昌源は続けた。「見て、考えよ。わからぬところは、わからぬと言え。それだけでよい」
藤丸は、その言葉を、静かに受け取った。
(教わるのではない。見て、覚える)
いつか駒丸に答えた、あの言葉と、同じだった。父も、同じことを求めているのだと、藤丸は思った。
* * *
部屋を出ると、廊下の先に、親直が立っていた。
「呼ばれたそうじゃな」
穏やかな声だった。
「うむ」
「何を、見せられた」
藤丸は、少し迷ってから、答えた。
「年貢の覚書と、商人との文を」
親直は、しばらく藤丸を見ていた。それから、薄く笑った。
「お主の机が、できたか」
その言葉に、咎める色はなかった。ただ、静かに、何かを認めるような響きだけがあった。
「わしの棚とは、違う場所じゃな」
親直は、それだけ言うと、奥へ歩いていった。
藤丸は、その背を見送った。
(同じ形をしておるようで、違うところを向いておる、か)
以前、親直から言われた言葉を、もう一度思い出した。あのとき輪郭の線でしかなかったものが、今日、少しだけ、形を持ち始めた気がした。
* * *
夜、藤丸は布団の中で、今日のことを思い出していた。
親信の、静かな一言。年貢の数字。紙の値の動き。父の、教えぬという教え方。親直の、短い一言。
これまでは、廊下の隅から、欠片を拾うだけだった。今日から、その欠片を、机の上で、正面から見ることになる。
(机に向かう日が来る、か)
父の言葉が、ようやく形になった。まだ、何ができるわけでもない。数字を見比べることしか、今日はできなかった。それでも、欠片を集める場所が、初めて、自分のものになった。
親信は、戦う場所を持った。親直は、棚を持っている。藤丸には、今日、机ができた。
座って待っているだけでは、これから先は覚束ない。これからも、自分から近づいていく。そうやって集めた欠片の上に、何を積んでいくか――それは、まだ、藤丸自身にもわからなかった。
障子の外で、春の気配を含んだ風が、低く鳴った。藤丸は、目を閉じた。
親信の初陣、親直の役割の広がり、そして藤丸の「机」。
三兄弟それぞれの立ち位置が、少しずつ形になってきた一話でした。




