甚兵衛の噂
甚兵衛が久しぶりに戻り、堺の噂を運んできます。藤丸だけが気づく、小さな違和感のお話です。
桜の季節が、もう二度ほど巡っていた。
藤丸は、父の間に通うようになって、ようやくその場に慣れてきた。月に幾度か、文机の前に座る。差し出される紙を見比べ、思うところを口にする。それだけのことが、今ではもう、特別なことではなくなっていた。
その日も、いつものように、年貢の覚書が広げられていた。
「上分と下分、また見比べてみよ」
藤丸は紙を受け取り、数字を目で追った。前に見たときよりも、上分の増え方が、わずかに大きくなっている。
「……上分は、また増えております。下分は、変わらず」
「なぜだと思う」
藤丸は少し考えた。すぐには答えが出なかった。だが、思いつくことはあった。
「上分のほうが、川に近うございます。舟で物を運びやすい分、商いも盛んなのではないかと」
昌源は、何も言わなかった。ただ、紙を片づける手を、一瞬だけ止めた。それだけだった。だが藤丸には、その一瞬の重みが、わかるようになっていた。
「もう一つ、見せておく」
差し出されたのは、商人とのやりとりを記した紙だった。布の値、紙の値。藤丸はそれも一つずつ見比べた。
紙の値が、また少し上がっていた。前に見たときよりも、上がり方が大きい。
「紙が、また上がっております。前よりも、上がり方が……」
「うむ」
昌源は短く応じただけで、それ以上は何も言わなかった。教えてはやらぬ、というあの言葉のままだった。藤丸も、それ以上は問わなかった。
* * *
父の間を出ると、廊下の先に、母が立っていた。
「藤丸」
「……はい」
「甚兵衛が、戻ったそうです」
その一言に、藤丸の中で、何かが小さく動いた。
甚兵衛が戻るのは、いつも半年に一度ほどだった。戻るたびに、遠い土地の話を持ってくる。紙の値の動きも、布の値の動きも、たいていは甚兵衛の話から始まっていた。
「お咲のところに、参ってもよろしいですか」
母は、少し考えてから、頷いた。
「あまり長居をせぬように」
「はい」
* * *
藤丸が女中部屋の前まで行くと、お咲がちょうど戸口に出てきたところだった。
「藤丸様」
「甚兵衛、戻ったと聞いた」
「はい。たった今、奥で母に土産を渡しております」
お咲の声は、いつもより少し弾んでいた。父が戻るときは、いつもそうだった。
しばらくして、甚兵衛が顔を出した。陽に焼けた顔に、旅の埃が残っている。藤丸を見ると、軽く頭を下げた。
「藤丸様。お変わりなく」
「うん。今度は、どこまで行った」
「堺まで、足を伸ばしてまいりました」
堺、という一言に、藤丸の中で何かが反応した。紙の値の上がり方を思い出していたところだった。
「堺は、近頃、騒がしいか」
甚兵衛は、少し意外そうな顔をした。三歳ならぬ、もう七つの藤丸の問いには、いちいち驚かなくなっていたが、それでも時折、こうして驚かされることがあるらしい。
「騒がしい、と申しますか……妙な噂を、あちこちで耳にいたしました」
「妙な噂」
「南のほう、種子島とか申す島に、唐渡りの妙な武具が伝わったとか。火を吹く筒のような物だそうで」
藤丸は、表面では、ただ目を丸くしただけだった。
(鉄砲だ)
内側では、はっきりとそう思った。前の生で、何度も読んだ年だ。種子島に鉄砲が伝わった、それから数年で、堺がその調達地として騒がしくなっていく――昌也の記憶が、静かにそう告げていた。
「火を吹く筒、とは」
藤丸は、知らぬふりで問いを重ねた。
「私もよくは存じませぬが、人をも一撃で倒すとか、堺の商人がそう申しておりました。実物を見た者は、まだ少ないようです。ただ、堺ではその筒に使う薬や、作り方を求める者が増えていると」
「薬」
「火薬とか申すものだそうで。これが、なかなか値が張るとか」
藤丸は、それ以上は問わなかった。
(紙の値が上がっているのも、そのせいかもしれない)
堺が騒がしくなれば、堺に集まる物の値も動く。紙も、布も、そこを行き来する商人たちの手の中で、少しずつ値を変えていく。今日見た覚書の数字と、この噂が、どこかで繋がっている気がした。
「藤丸様、何やら、お考えのご様子ですね」
お咲が、そっと言った。
藤丸は、首を横に振った。
「いや……少し、気になっただけだ」
それ以上は、言葉にしなかった。まだ、形になっていない。
* * *
その夜、藤丸は布団の中で、今日聞いた話を、もう一度頭の中で並べてみた。
種子島の筒。堺の騒がしさ。紙の値の上がり方。父の机で見た数字。
一つひとつは、まだ細い糸でしかなかった。だが、これまで集めてきた欠片の中に、今日また一つ、新しい欠片が加わった。
(武具そのものより、それを巡って動く値や物のほうが、自分には見えやすい)
戦うことは、岩丸の役目だ。讒言や駆け引きは、駒丸の領分だ。自分にできるのは、こうして遠い噂を、目の前の数字と結びつけて、何が動いているのかを、少しずつ読み取ることだけだった。
まだ、何が見えてくるのかはわからない。ただ、堺という場所が、これからの自分にとって、何か大きな意味を持つ気がした。
障子の外で、初夏の虫の声が、低く響いていた。藤丸は、目を閉じた。
今回、藤丸は種子島に伝わったという「火を吹く筒」の噂を耳にします。表向きは無邪気な問いを重ねるだけですが、内心では前世の記憶と目の前の数字(紙の値の上がり方)とを結びつけ始めています。
戦は岩丸、暗躍は駒丸、そして藤丸は「値と物の動き」から国の実情を読み解く――そんな役割分担が、今回もさりげなく描かれています。
次回以降、この「堺」という土地が、藤丸の富国策にどう関わってくるのか、楽しみにしていただければ幸いです。




