甚兵衛の荷
年貢の取りまとめが始まった秋の屋敷に、お咲の父・甚兵衛が半年ぶりに帰ってきます。
行商人が運んでくるのは、荷だけではありません。遠い都の噂も、一緒についてきます。
朝の冷たさが、また一段、深くなっていた。
庭の松の根元に、枯れ葉が分厚く積もっている。藤丸が踏むと、かさりと乾いた音がした。稲の刈り入れは、もう城下のどこでも終わったらしい。岩丸と歩いた田には、刈り株だけが並んでいるはずだった。
屋敷の中の気配も、変わった。
女中たちの足音が、いつもより速い。廊下の奥、父の間に近い一帯に、見慣れぬ男たちの草履が並ぶことが増えた。声をひそめた話の切れ端が、藤丸の耳にも届く。
「今年は、上分はようございました」
「下の郷は、少し悪うございます」
言葉の意味は、わかった。年貢の取りまとめが始まっているのだ。
(総務の年度末みたいなものか)
田村昌也の記憶の底で、そんな感覚が静かに動いた。決算でも棚卸しでもない。だが、一年分の出来を数え上げ、誰かに報告する、その緊張感だけは、よく覚えのあるものだった。
藤丸は、父の間の近くまでは行かなかった。行けば咎められるとわかっていたし、それより、廊下に積まれていく荷の数や、出入りする者の顔つきを見ているだけで、十分だった。
(この数字は、どこまで正確なんだろうな)
歩いて測るのか、目分量か。誰かが口で報告しているだけなら、盛ったり削ったりする余地はいくらでもあるはずだ。総務で数字を扱っていた頃なら、まず疑ってかかるところだった。検数も、棚卸しも、最後は誰かの「正直さ」に頼ることになる。
だが、今の藤丸には、確かめる手立てがなかった。廊下の向こうで交わされる声を、ただ聞いているしかない。
* * *
その日の午後、藤丸はお咲の様子がいつもと違うことに気づいた。
針を持つ手が、何度も止まる。窓の外をちらちらと見る。声をかけられても、一拍遅れて返事をする。
藤丸が縁側から見ていると、お咲はふと顔を上げて、少し恥ずかしそうに笑った。
「……父が、もうじき戻る頃合いなのです」
それだけ言って、また針を取った。だが、手元はまだ落ち着かなかった。
(半年ぶりか)
藤丸は、以前お咲から聞いた話を思い出した。布や紙、時には文を運ぶ行商人。あちこちの国を巡り、戻るたびに遠い土地の話を持ってくる父。
その日の夕方、屋敷の裏門のあたりで、声が上がった。
「甚兵衛が参りました」
お咲が、針を置いて立ち上がった。
* * *
甚兵衛という男は、思っていたより背が低く、肩が丸かった。
大きな荷を背負い、もう一つを手に提げている。裏門のあたりに荷を下ろすと、まず屋敷の女中頭に頭を下げ、それから娘の顔を見て、少しだけ目元を緩めた。お咲は何も言わず、ただ父の傍に寄って、荷の端を持つのを手伝った。
藤丸は、少し離れたところから、それを見ていた。
荷が開かれた。布が何反か。それから、紙の束。お滝が出てきて、紙の厚みを指で確かめ、色を陽に向けて見た。以前、紙商人の店先で見た手つきと同じだった。
「今年のは、よい紙じゃの」
「へえ。伊予の方から回ってきたものでして」
値の話になった。甚兵衛は、紙の厚みと枚数を、慣れた口で並べた。お滝はそれを聞きながら、何度か首を傾げ、少し下げさせて、ようやく頷いた。
藤丸は、その一連のやりとりを、じっと見ていた。
(紙一つにも、産地がある。運ばれてくる道筋がある。値は、その場で決まる)
国分川で見た舟、店先で見た紙商人、そして今、目の前にある紙の束。どれも別の場面だったが、藤丸の頭の中で、それらが一本の線のようにつながっていく感覚があった。
* * *
話がまとまると、甚兵衛は荷を脇に下ろし、ほっとしたように肩の力を抜いた。お滝が下がると、近くにいた年配の女中が、世間話のつもりらしく声をかけた。
「旅の道中、変わったことはなかったかえ」
「ございましたとも」甚兵衛は、声を落とした。「都の方では、近頃、物の値が荒れておるそうで。米が足らぬ国もあるとか。畿内のほうで、よろしくない年が続いておるという噂です」
「土佐は、まだようございましたね」
「へえ。こちらは、まだしも穏やかなものです」
藤丸は、それを聞いていた。
(畿内が悪くて、土佐がまだいい年)
昌也の記憶が、静かに何かを思い出そうとした。天文の大飢饉、という言葉が、頭の隅にあった気がする。確かなことは、わからない。ただ、都のほうで何かが起きているらしいという噂が、こんなふうに、行商人の口を通って、土佐の片隅まで流れてくる。それだけは、確かだった。
(米が足りない国がある。米がある国がある)
言葉にするほどのことでもない。三歳の子どもが思うことでもない。それでも、藤丸の中で、その二つが、静かに並んだ。
多い年の年貢。よその国の不作。紙の値。布の値。
全部、別々の話のはずだった。
だが、どれも「物が、足りる場所から、足りない場所へ動く」という、同じ形をしている気がした。
* * *
甚兵衛が荷をまとめて下がる前、お咲が藤丸のところへ来た。
「藤丸様。父です」
甚兵衛は、娘に促されて、藤丸に向かって深く頭を下げた。
「お初にお目にかかります。お咲がいつも、お世話になっておるそうで」
藤丸は、頷いた。それから、少し迷ってから、聞いた。
「……伊予は、遠いですか」
三歳の問いとしては、おかしくないはずだった。だが藤丸の本当に知りたかったことは、もう少し別のところにあった。
甚兵衛は、少し驚いた顔をしてから、笑った。
「遠うございますよ。山を越え、舟を使い」
「紙は、いつもそこから来るのですか」
「いつも、とは限りませぬ。よい年もあれば、よくない年もある。値も、年によって変わります」
藤丸は、それ以上は聞かなかった。聞きたいことの形が、まだ自分の中でもはっきりしていなかった。
甚兵衛は、それ以上は深く考えなかったらしい。幼い子の無邪気な問いだと思ったのだろう。荷を背負い直し、お咲に何か小声で言って、屋敷を出ていった。
お咲は、その背を見送ってから、藤丸のほうを向いた。
「半年ぶりです。次は、堺まで足を伸ばすと言うておりました」
藤丸は、頷いた。
(堺、か)
その地の名前だけが、静かに、藤丸の胸に残った。
* * *
夜、布団の中で、藤丸は今日見たものを思い出していた。
廊下の奥に積まれていく年貢の荷。紙の厚みを確かめる指。「都のほうでは、物の値が荒れておる」という、誰かの噂を運んできた声。
米の出来、不出来。紙の値。布の値。よその国の話。
これが何なのか、藤丸にはわかっていた。足りる場所から、足りない場所へ物を動かせば、値がつく。前世でいくらでも聞いた理屈だ。難しい話ではない。
だが、知っていることと、できることは違う。誰が、何を、どれだけ、どこへ運んでいるのか。今の藤丸が持っているのは、まだその理屈だけで、地図ではない。
総務の仕事も、最初から屋敷の全体図が見えていたわけではなかった。一つずつ覚えた在りかが、ある日、ふいに地図になる。そういうものだった。
(今は、地図のための欠片を集める時だ)
駒丸が、人の弱みを、静かに懐へ収めていくように。
自分は、物の動きを、一つずつ手元に溜めていく。
同じ「集める」でも、向かう先が違う。それだけは、はっきりしていた。
障子の外で、夜風が低く鳴った。藤丸は、目を閉じた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
のちに藤丸の情報網の要となる行商人・甚兵衛が、今回初めて登場しました。紙の値、よその国の作柄——藤丸が何気なく見聞きしたことの一つ一つが、これからどうつながっていくのか、見守っていただければ幸いです。
次話もよろしくお願いいたします。




