お咲の糸
屋敷の中で、藤丸がまた新しい人と関わります。
今回は、母付きの女中・お咲が登場します。
城下を岩丸と歩いてから、五日が過ぎていた。
朝晩はもう、はっきりと冷えるようになった。庭の松の根元に、枯れ葉が一段と厚く積もっている。藤丸は一人で廊下から庭へ下りては、枯れ葉を踏みながら歩き回っていた。母にも女中にも、最近はあまり咎められなくなった。屋敷の中の道は、もうほとんど覚えてしまった。
(次はどこへ行こうか)
そう思いながら歩いていると、いつもお咲の姿があった。
* * *
お咲は、藤の方付きの女中だった。年は九つか十ほど。藤丸よりはずっと大きいが、屋敷の女中たちの中では、いちばん年若い。久武家に来てまだ半年に満たない。藤丸の身の回りの細かい用も、よく言いつけられていた。
物静かな子だった。声を荒げることがない。何かを問われても、まず一度考えてから答える。その間の取り方が、藤丸には少し気になっていた。
(この子も、考えてから答えるな)
駒丸に似ているとは思わなかった。駒丸の間は、何かを仕舞うための間だ。お咲の間は、違う。何かを確かめるような、慎重さだけがあった。
お咲の父は、行商をしているという。米や塩ではなく、布や紙、時には文を運ぶこともあるらしい。あちこちの国を巡り、半年に一度くらい戻ってくる。戻るたびに、遠い土地の話を持ってきた。お咲はそれを、年上の女中たちに、ぽつりぽつりと話すことがあった。
(行商人、か)
藤丸はそれを聞くたびに、ふと考えることがあった。物だけでなく、話も運ぶ。話は、物よりも軽くて、物よりも値打ちがあることがある。そういう生業の家が、土佐にはいくつもあったはずだ——昌也の記憶の底に、そんな知識がうっすらと眠っていた。確かなことは何もわからない。ただの行商人の娘なのかもしれない。それだけのことかもしれない。
藤丸はそれ以上、深くは考えなかった。今はまだ、わからないことだ。
* * *
その日の午後、母が縁側でお咲に言いつけた。
「藤丸の袖がほつれています。糸巻きを持ってきてください。緋《ひ》色の糸の入った、あの小さいものです」
「はい」
お咲は素直に頷いて、奥へ下がった。
しばらくして、戻ってきた。手が、空だった。
「……見当たりません」
母は少し首を傾げた。
「いつもの場所に、ありませんでしたか」
「はい。確かにあったはずなのですが」
そこへ、女中頭のお滝が通りかかった。年配の、口の早い女だった。話を聞いて、すぐに眉を寄せた。
「お前が、最後に使うたのではないのですか」
「いえ……先日、しまったままで」
「しまったまま、なくなるはずがありません」
お滝の声が、少し強くなった。
「奉公に来てまだ半年。物の扱いに、まだ慣れぬのでしょう。粗末に置いたのを、忘れているだけでは」
お咲は、何も言わなかった。ただ、うつむいた。
言い返さない、と藤丸は思った。三歳の目にも、それがわかった。
* * *
藤丸には、心当たりがあった。
二日前、物置の前で、別の女中が両手に荷を抱えているのを見た。荷を奥へしまおうとしたとき、抱えていた物の一部が滑り落ち、隅に置かれた古い籠の中に紛れ込んだ。女中はそれに気づかず、そのまま戻っていった。落ちた物の中に、緋色の糸が巻かれた小さな道具があったような気がする。
ただ、それが今探されている糸巻きと同じ物かどうか、藤丸には確かめる手立てがなかった。あの時はそこまで気にしていなかった。
言葉にしようとした。
「あの……」
声が、思うように出てこなかった。三歳の口は、まだ言葉を急がせると詰まる。
「藤丸、どうしました」
母が聞いた。藤丸は、口を開いたまま、結局何も言えなかった。
お滝が、なおお咲を責めていた。藤丸は、お咲の袖を、そっと握った。
「ちがう」
それだけ、言った。
お滝は、苦笑した。
「藤丸様がそう仰せでも、物がないのは、ないのです」
藤丸は、何も言えなかった。袖を握る手だけが、離せなかった。
お咲が、少し驚いた顔で藤丸を見た。それから、何も言わずに、ただ小さく頭を下げた。
* * *
声がしたのは、そのときだった。
「探し物か」
駒丸だった。縁側の柱に、いつからいたのか、もたれていた。
「糸巻きであろう。緋色の」
「駒丸様……ご存じで」
お滝が、驚いた顔をした。
「物置の隅、古い籠の中じゃ。二日ほど前、誰かが荷をしまおうとして、こぼしておった。気づかず、そのまま行ったのを、わしは見た」
駒丸は、それだけ言うと、自分では動かず、近くの女中に目をやった。
「見てまいれ」
女中が物置へ走った。しばらくして、戻ってきた。手に、緋色の糸の糸巻きがあった。
「ここに、ございました……」
お滝は、口をつぐんだ。藤の方に向かって、小さく頭を下げた。
「……早合点をいたしました。お騒がせいたしました」
それだけだった。お滝はすぐに、その場を離れていった。
* * *
駒丸は、それきり興味をなくしたように、また庭のほうを見ていた。
藤丸は、その背を見た。
(見ていたのか)
二日前のあの場面を、駒丸も見ていたのだ。藤丸が見ていたのと、同じ場所を。だが駒丸は、すぐには言わなかった。お滝がお咲を責め立てるあいだ、ずっと黙って見ていた。そして、藤丸が袖を握り「ちがう」と言ったあとに、初めて口を開いた。
(あれを、見ていたのか)
藤丸には、それが何を意味するのか、すぐにはわからなかった。ただ、駒丸が動いたのは、糸巻きが見つかってほしかったからではない気がした。藤丸が、どこまでやるのかを、見たかったのかもしれない。
面白がっている。藤丸が知っている、あの目だった。
藤丸は、それ以上は考えなかった。今はそれでいいと思った。
* * *
夕方、母が藤丸の袖を繕い終えた頃、お咲が部屋の隅にいた。
藤丸が傍に寄ると、お咲は手を止めて、藤丸を見た。
「藤丸様」
「……うん」
「さきほどは、ありがとうございました」
藤丸は、首を横に振った。何もしていない、と思っていた。糸巻きを見つけたのは、自分ではない。
だがお咲は、もう一度、頭を下げた。
「皆が、私が粗末にしたと思うておりました。藤丸様だけが、違うと言ってくださいました」
その声に、何かが乗っていた。藤丸には、それがうまく言葉にできなかった。ただ、お咲の目が、さっきまでとは少し違って見えた。
(この子は、奉公に来てまだ半年だ。まだこの屋敷に、頼れる者を見つけられていないのかもしれない)
藤丸は、ふとそう思った。さきほどのお滝の物言いも、慣れぬ新参者だからこその、あの距離感だったのだろう。
お咲が、また針を取った。藤丸の傍らで、静かに繕い物を続けた。
藤丸は、その手元を見ながら、思った。
岩丸が後に死ぬことを、藤丸は知っている。駒丸が後に何をするかも、知っている。元親が、弥三郎が、どう育つかも、知っている。
だが、お咲がこれからどうなるかは、知らない。
(この子は、これからどうなるのだろう)
その答えを、藤丸はまだ持っていなかった。
夕風が、障子の隙間から忍び込んできた。お咲の手元の針が、橙色の灯りを受けて、小さく光った。
* * *
駒丸は、自分の部屋へ戻りながら、薄く笑っていた。
糸巻きのことなど、最初から、たいした話ではなかった。籠の中にあるのを見たとき、すぐに言ってもよかった。だが、言わなかった。
あの幼い弟が、どこまでやるのか。見たかった。
三歳の子が、女中の袖を握り、「ちがう」と言った。それだけのことだ。だが、その一言を口にするまでに、あの子はずいぶん迷っていた。言葉が出ずに、それでも袖だけは離さなかった。
(守ろうとした、ということか)
血のつながらぬ女中一人を、三歳の子が、守ろうとした。
駒丸には、それが少し、おかしかった。同時に、少し、わからなかった。
わからぬものを、もうしばらく、見ていようと思った。
棚に、また一つ、しまった。
今回は、藤丸とお咲、そして駒丸の三人の距離感を描きました。
血のつながらぬ相手をかばう三歳児の姿に、駒丸が何を見たのか。
彼の「棚」に、また一つ何かが仕舞われていきます。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もよろしければお付き合いください。




