岩丸の道
熱から回復した藤丸は、長兄・岩丸に連れられて初めて屋敷の塀の外へ出ます。
城下の景色の中に、藤丸は前世の総務職としての観察癖を重ねていきます。
朝の空気が、少し冷たくなっていた。
熱が引いてから十日あまり。藤丸はもう、屋敷の奥まで一人で歩けるようになっていた。廊下の角を曲がり、知らない部屋の前を通り過ぎ、それでもまだ迷わずに戻ってこられる。母にも女中にも、最近はあまり咎められなくなった。
それでも、塀の外には出たことがなかった。
障子を開けて庭に出るたび、藤丸はその向こうを見た。塀の上に、屋根がいくつか見える。さらに遠くには、緑の濃い山の稜線があった。
(あの向こうに、何があるんだろうな)
三歳の足では遠すぎる。それでも、知りたい気持ちだけは、五十四年分の癖のままだった。田村昌也は、知らない建物に入るたびに、まず全体の配置を覚えようとする男だった。その癖は、三歳の体になっても変わらなかった。
* * *
岩丸が屋敷に戻ってきたのは、昼に近い頃だった。
稽古帰りらしく、額にまだ汗の跡が残っている。藤丸が廊下の隅で塀のほうを見ているのを見つけて、足を止めた。
「何を見ておる」
「……外」
短く答えた。岩丸は少しの間、藤丸の視線を追って、塀の向こうを見た。それから、ふっと笑った。
「見せてやろうか」
藤丸は、岩丸の顔を見上げた。
「父上に、歩いてまいれと言われたのだろう」岩丸は言った。「歩く稽古なら、外のほうがよほどためになる」
それから、母のところへ行って何か言った。藤丸には聞こえなかったが、母はしばらく考えて、頷いた。「日が傾く前に、お戻りください」とだけ言った。
門を出るとき、藤丸は岩丸の手を握った。
大きくて、温かい手だった。
* * *
城下は、藤丸が思っていたよりずっと広かった。
道の両側に、田が広がっている。稲はもう穂を垂れて、刈り入れの近い色になっていた。香長平野と呼ばれるこの土地は、土佐の中でも田の豊かな一角だと、藤丸はいつか読んだ本で知っていた。長宗我部がこの土地に足場を持っているのは、決して小さな意味ではない。
田の脇に、槍を立てかけて働く男たちがいた。
鍬を動かす手を止めて、傍に置いた古い具足にちらりと目をやる。それだけの、何気ない動きだった。戦になれば、その槍を取って出ていくのだろう。今は、ただ畑の主だ。
(兵と農の境目が、ない)
藤丸はそう思った。この土地の力が、こういう男たちの数で測られているのだと、肌でわかった気がした。
道の先に、川が見えた。
「国分川じゃ」岩丸が言った。「昔、この川のそばに、国府があったと聞く」
小舟が一艘、ゆっくりと水面を進んでいた。荷を積んでいる。米だろうか、と藤丸は見当をつけた。年貢か、商いの荷か、藤丸にはまだ判別できなかった。
川沿いの道を、魚を担いだ行商人が歩いていた。浦戸の方から来たのだろう。塩の匂いが、ふと風に混じった。
* * *
道の途中で、岩丸が誰かに呼び止められた。
年の頃、岩丸より少し上か。具足こそ着けていないが、立ち姿に侍らしい張りがある。二言三言、言葉を交わした。本山方面の話らしかった。
「向こうの様子は、まだ変わらぬか」
「うむ。表向きは、何も」
それだけだった。だが藤丸には、その短い会話の重さがわかった。
(表向きは、何も、か)
今はまだ、隣人だ。だが、いずれ。
その男が去ってから、岩丸は何も言わなかった。藤丸も、聞かなかった。
* * *
道の先、小さな店先に、紙を商う者がいた。
束ねられた紙が、台の上に積まれている。決して安いものではないらしい。客は紙の厚みと色を確かめてから、ようやく値を聞いていた。
(紙か)
藤丸は、その光景をしばらく見ていた。米や魚とは違う。紙は誰かが手間をかけて作り、運ばれてきて、ここで初めて値がつく。原価と手間と運び賃の分だけ、値が上がっていく。総務の仕事で、備品の仕入れ値を見比べていた頃の感覚が、ふと戻ってきた。
(そういえば、最後の数年は、紙を使う機会がどんどん減っていたな)
書類はほとんど画面の中で片づくようになっていた。判子も、サインも、画面の中で済む時代だった。紙を一枚使うだけで、誰かに「まだ紙で出すんですか」と言われるような、そういう空気があった。
それが今は、これほど大事に扱われている。客が紙の厚みを確かめる、その手つきの真剣さに、藤丸は妙な感慨を覚えた。
(紙が、こんなに重いものだった時代もあったんだな)
当たり前のことだったが、三歳の目で見ると、それが新鮮だった。米を作る者、運ぶ者、商う者。それぞれの取り分があって、初めて物が動く。戦国時代と聞くと、刀と槍ばかりを思い浮かべていたが、その裏側にはいつも、こういう小さな取引が積み重なっている。
岩丸が「行くぞ」と声をかけるまで、藤丸はその店先を見ていた。
* * *
道の途中、小高いところから、岡豊の城が見えた。
大きくはない。だが、山の上に幾重にも曲輪を構えた、その姿は確かに「家」だった。父が文を読み、間合いを計っているのも、あの城のどこかでのことなのだろう。
「あの城に、いつか上がることになるな」岩丸が言った。声に、特別な力みはなかった。「わしも、お主も。家老の家の者じゃ」
藤丸は、城を見たまま、何も言わなかった。
言葉が、すぐには出てこなかった。家老の家に生まれたことの重さを、三歳の体でどう受け止めればいいのか、藤丸にもまだわからなかった。
岩丸は、藤丸の沈黙を咎めなかった。ただもう一度城のほうを見て、ぽつりと言った。
「重いと思うなら、まだ重いと思っていてよい。そのうち、慣れる」
それだけだった。藤丸には、その一言のほうが、よほど染みた。
* * *
日が傾く前に、屋敷へ戻った。
門をくぐったところで、駒丸が縁側に立っていた。藤丸たちが戻るのを、待っていたかのように。
「どこまで行った」
穏やかな声だった。
「川のあたりまで」岩丸が答えた。
「ほう」駒丸は、藤丸を見た。「楽しかったか」
「はい」
短く答えた。駒丸は、それ以上は聞かなかった。ただ、薄く笑って、また縁側に座り直した。
その背を見ながら、藤丸は思った。
(この兄は、何かを聞き出そうとしたわけではない)
ただ、誰がどこへ行き、何を見て、何を答えたか――それを一つ、自分の中に仕舞っただけだ。あの縁側で見た目と、同じだ。今すぐ何かに使うためではない。ただ、集めておく。いつか、何かの形で並べ替えるときのために。
(この兄の中には、そういう棚が、いくつもあるのだろう)
今日のことも、その棚の一つに、収まったのかもしれない。
* * *
夜、藤丸は布団の中で、今日見たものを一つずつ思い出していた。
穂を垂れた稲。畑の脇の槍。国分川を下る舟。魚を担いだ行商人。「表向きは、何も」という、短い言葉。紙を積んだ店先。そして、山の上に見えた、岡豊の城。
この土地は、まだ大きくない。だが、確かに動いている。米を作り、舟で運び、紙を商い、いつかのために槍を畑の脇に置いている。
その全部の真ん中に、自分の家がある。
(己の足で、歩いてまいれ、か)
今日、自分の足で、その土地の端を少しだけ歩いた。まだ全部はわからない。それでも、塀の外にも、確かに同じ土佐があった。
岩丸の「わしも、お主も」という言葉と、その重さを、もう少しだけ抱えていようと思った。
障子の外で、風が少し鳴った。藤丸は目を閉じた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
塀の外で見た田畑や商人の営みは、藤丸がのちに思い描く「富国」の種にあたります。
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