駒丸の笑み
今は三歳の藤丸。屋敷の中を一人で歩き回るうち、これまで言葉を交わしたことのほとんどなかった次兄・駒丸と、初めて顔を合わせます。
父の間から戻って、幾日かが過ぎた。
熱が引いてからは、もう十日あまりになる。体は、すっかり戻った。立てば足は自分を支え、歩けば思った通りに進む。三歳の体は正直だった。一度覚えてしまえば、あとは速い。
(己の足で歩いてまいれ、か)
父の言葉を、藤丸は時おり思い出した。あれはおそらく、藤丸が考えているよりずっと軽い一言だったのだろう。子に歩く稽古をさせる、ただそれだけのことだ。だが藤丸の中には、妙に長く残った。
だから、歩いた。
母がいないとき、女中の目が届かないとき、藤丸は一人で屋敷の中を歩いた。はじめは自分の寝間の周りだけ。次に、廊下の角まで。今日は、その先まで。
屋敷は、広かった。歩くたびに、知らない場所が現れる。日の差す向き、床のきしむ場所、どこからか流れてくる匂い。藤丸はそれを、一つずつ覚えていった。
(屋敷の絵図を、頭の中に描いているようなものだ)
田村昌也は、長く総務の仕事をしていた。人の出入り、物の在りか、建物の隅々まで把握しておくのが務めだった。どこに何があり、誰がどの道を通るか。先に知っておけば、後がずいぶん楽になる。体に染みついたその癖は、三歳の体になっても抜けなかった。
廊下を、一つ曲がった。
日当たりのいい縁側に出た。庭の端が見える。来たことのない一角だった。
そこに、人がいた。
* * *
少年だった。
縁側に腰を下ろし、片膝を立てて、庭のほうを見ている。背は、岩丸ほど大きくない。だが、岩丸とはどこか違った。岩丸は、ただ座っているだけで、その場所を温める人だった。この少年は――ただ座っているだけで、その場所から音を吸い取っているようだった。
静かすぎる、と藤丸は思った。
十二ほどか。藤丸は見当をつけた。そして、すぐにわかった。
(駒丸だ)
言葉を交わした覚えは、ほとんどない。だが藤丸には、わかった。熱の三日間、戸口から一度だけ覗いて、すぐに消えた気配。岩丸が去ったあとの廊下に、中へは入らぬまま立っていた、名のない気配。あれは、この少年だ。
入ってこない兄。
その兄が、今、目の前にいる。
駒丸は、藤丸に気づいていた。とうに気づいていて、それでも振り向かなかった。藤丸が立ち止まり、どうしたものか決めかねているあいだ、駒丸はただ庭を見ていた。
やがて、ゆっくりと振り向いた。
「迷うたか」
声は、穏やかだった。
意外なほど、穏やかだった。藤丸は、自分が身構えていたことに気づいた。戸口から覗いて消える兄だ。冷たい声を出すものと、どこかで決めてかかっていた。
だが駒丸は、笑っていた。
幼い弟に向ける、優しい兄の顔だった。
「こんな所まで、一人で来たのか」
駒丸は手を伸ばし、藤丸の腕を取った。乱暴ではなかった。むしろ、慣れた手つきだった。縁側の、自分のすぐ隣に座らせる。
藤丸は、座った。
近くで見ると、駒丸の目は、よく動いた。藤丸の足、手、首の据わり方。一つずつ、確かめるように見ている。顔は優しいままで、目だけが、別のことをしていた。
(この目だ)
母とも、父とも違った。母は、おそれるように見た。父は、値踏みするように見た。この兄は――面白がっている。
* * *
「熱は、難儀であったな」
駒丸が言った。父と、同じ言葉だった。だが、続きが違った。
「三日も寝込んでな。皆、案じておったぞ」
藤丸は、小さく頷いた。
駒丸はしばらく庭を見て、それから、何でもないことのように言った。
「熱の間、おかしな言葉を口走っておったそうだな」
藤丸の指が、わずかに動いた。
「女中が言うておった。誰にもわからぬ言葉だったと。――藤丸は、何を言うておったのだ」
穏やかな声だった。咎める響きは、どこにもない。ただ、知りたい、という響きだけが、そこにあった。
藤丸は、答えなかった。
答えられなかった、と言うほうが正しい。何と言えばいい。覚えていない、と返すのが正しい。三歳の子なら、当然そう返す。いや、そもそも問いの意味すらわからぬ顔をするのが、いちばん正しい。
わかっていた。
わかっていて、間が空いた。
ほんの、わずかな間だった。だが、空いた。覚えていない、と首を振るまでの、その一瞬。考えてから動く、その一拍を、駒丸は見ていた。
駒丸は、何も言わなかった。
ただ、笑った。
優しい笑みのままだった。何も変わらなかった。咎めもせず、問い詰めもせず、ただ、薄く笑った。そして、その笑みの奥で、何かを静かに仕舞ったのが、藤丸にはわかった。
(しまった)
藤丸は思った。が、もう遅い。
この兄は、岩丸のように、何も気づかぬままではいてくれない。母のように、おそれて口をつぐみもしない。父のように、値踏みして頷くだけでもない。
この兄は、気づいて、黙る。
いちばん、厄介な質だ。
* * *
「戻ろうか」
駒丸は、立ち上がった。藤丸の手を取って、ゆっくりと歩き出す。歩幅を、藤丸に合わせていた。優しい兄だった。傍から見れば、どこから見ても、優しい兄だった。
廊下を戻りながら、駒丸は鼻歌でも歌うような調子で言った。
「また迷うたら、呼べ。連れて戻ってやる」
藤丸は、頷いた。
向こうから、女中が一人やって来た。駒丸を見て、頭を下げる。駒丸は藤丸の手を、その女中に預けた。
「母上の所まで、連れて行ってやれ」
「は」
それだけ言って、駒丸は来た道を戻っていった。一度も、振り返らなかった。
藤丸は、その背を見送った。
(あの兄は、信用しないでおこう)
そう、決めた。
藤丸は、知っている。この駒丸が、後にどうなるかを。やがて元服して久武親直と名乗り、家督を継ぎ、讒言を重ねて、長宗我部の家を内から傾けていく男。兄・岩丸が死の間際に「あれは取り立てなさるな」と主君に言い残すことになる、その弟。
今はまだ、十二の少年だ。
まだ、何もしていない。腹に、何も抱えてなどいないのかもしれない。ただ、知りたかっただけなのかもしれない。
だが、藤丸は知っている。
知っているからこそ、決めた。この兄の前では、間を空けてはならない。考えてから動いては、ならない。
女中に手を引かれて、藤丸は廊下を戻った。
日が、少し傾きはじめていた。
* * *
駒丸は、自分の部屋へ戻った。
別段、用があったわけではない。あの縁側で庭を眺めていたのも、することがなかったからだ。父は文机の前から動かず、兄の岩丸は剣の稽古に出ている。駒丸はいつも、この家の中で一人、余っていた。
余っているから、よく見ていた。
誰がどの道を通り、誰が誰に頭を下げ、台所で女中たちが何を声をひそめて話しているか。見ているうちに、見えてくるものがある。口に出されぬことのほうが、よほど多くを語る。それを拾い集めるのが、駒丸は嫌いではなかった。
その駒丸が、今日、わからぬものを見た。
藤丸だ。
あの赤子のことなど、これまで気に留めたこともなかった。京から来た母の子。女たちの居間にいる、別腹の弟。自分とは関わりのない子だと、思っていた。
だが、熱を出してから、何かが変わった。
女中たちが噂していた。熱の間、誰にもわからぬ言葉をつぶやいていた、と。はじめは、ただの熱のうわごとだろうと思った。
今日、近くで見て、思い直した。
あの子は、駒丸の問いに、考えてから答えた。
三歳の子は、考えない。問われれば、思ったことがそのまま口から出る。だがあの子は、何と答えるべきかを、確かに一度、選んだ。覚えていない、と首を振る前に、選んだ。
あれは、何だ。
駒丸には、わからなかった。わからぬものを見ると、知りたくなる。ただ、それだけのことだった。今のところは、それだけのことだ。
駒丸は、薄く笑った。
面白いものが、この家の中にいる。
それを、もうしばらく、見ていようと思った。
お読みいただき、ありがとうございました。
久武親直――のちに長宗我部家を内から傾けることになる次兄・駒丸が、ここで初登場しました。優しい兄の顔をしながら、目だけが別のことをしている。藤丸が「信用しないでおこう」と決めた、この兄との距離感が、これからどう変わっていくのか(あるいは変わらないのか)、見守っていただければ幸いです。
次話もよろしくお願いいたします。




