駒丸の笑み
今は三歳の藤丸。屋敷の中を一人で歩き回るうち、これまで言葉を交わしたことのほとんどなかった次兄・駒丸と、初めて顔を合わせます。
蝉の声が、安芸の山道に満ちていた。
甚兵衛は、汗を拭いながら歩いた。岡豊からここまで、もう何度目になるか数えていない道だ。だが今日は、いつもより足が重かった。
(直に言葉をかけてこい、か)
昌源様の指図は、いつも短い。だが今度のは、これまでとは少し違う重みがあった。噂を集めて運ぶだけなら、商人の仕事だ。だが人の本性まで見てこい、というのは、商人の領分を少し越えている。
それでも、断る理由はなかった。久武の家に世話になっている身だ。お咲のことも、家のことも、すべてこの久武家あっての暮らしだった。
寺の山門が、木立の向こうに見えてきた。蝉の声が、ひときわ大きくなった。
* * *
甚兵衛は、安芸の小さな寺の山門をくぐった。手には、いつもの土産——干した小魚を、紙に包んだだけの簡素なものを提げている。住職には、もう何度か顔を合わせている。話を通すには、これで十分だった。
「これはこれは、久武家の甚兵衛殿」
住職は、本堂の脇から声をかけてきた。歳の頃は六十に近いだろうか。声には、商人の出入りを面倒がる気配がなかった。
「今日は、何用で」
「いえ、特には。安芸へ参った折に、ちょっとお寄りしただけのことで」
甚兵衛は、いつもそう言うことにしていた。本当の用は、もう少し別のところにある。
「ああ、それなら、ちょうどいい折に来られた」
住職は、本堂の奥を手で示した。
「佐吉が、蔵の払い物を調べておるところでな。あれの仕事ぶりを、見てやってくれぬか」
甚兵衛は、それに頷いた。住職の方から佐吉の名を出してくれるとは、思っていなかった。
* * *
蔵は、本堂の裏手にあった。小さな建物で、米や乾物、寺の道具がいくつか、棚に並んでいる。
その隅に、佐吉がいた。
十二、三歳ほどの少年だった。背は高くないが、姿勢が崩れていない。膝の前に、木の板を置き、その上に小さな木の珠を並べて、数を数えていた。算盤ではない。土佐ではまだ珍しいその道具を、この子は持っていない。だが、珠の並べ方は、見ていて妙に整っていた。
「佐吉。お客人だ」
住職が声をかけると、佐吉は顔を上げた。
「これは……」
軽く頭を下げる。表情は、動かなかった。
「気にせず、続けてくれ」甚兵衛は言った。「ちょうど、見させてもらいたかったところだ」
佐吉は、少し迷うような間を置いてから、また珠に手を伸ばした。
甚兵衛は、その手元を見ていた。
蔵の品書きを、佐吉は手元の帳面と見比べながら数えている。米の升、乾物の束、油の壺——品ごとに数が違い、単位も違う。普通なら、何度も数え直すところを、佐吉は珠を一段動かすたびに、もう次の品へ目を移していた。
「数が、合わぬところは」
住職が、横から聞いた。
「先月より、干し椎茸が二束、増えております」
佐吉は、即座に答えた。
「それは構わぬ。檀家からの納めじゃ」
「では、帳面に書き入れます」
迷いがなかった。甚兵衛は、内心で唸った。これだけの早さと正確さを、十二、三の童が涼しい顔でやっている。
(噪は、くだらぬ話ではなかったな)
甚兵衛は、ふと言葉を間違えたことに気づき、内心で苦笑した。噪がしいわけではない。噂だ。安芸に来てから、何度も同じ字を間違える。
佐吉は、数え終わった品を帳面に書き入れると、珠を端に寄せて、また顔を上げた。
「何か、お調べになりたいことが」
その問いかけに、迷いはなかった。だが、何かを期待する色も、なかった。
「いや」甚兵衛は、少し笑った。「ただ、お前さんの仕事ぶりを、よそで耳にしたものでな。見に来ただけのことよ」
「左様で」
佐吉は、それだけ言うと、また帳面に目を落とした。話が終わったと思っているらしい。
甚兵衛は、住職にちらりと目をやった。住職は、何も言わずに、本堂のほうへ歩いていった。二人だけにする、という意味だろう。
* * *
「佐吉」
甚兵衛は、蔵の入り口に腰を下ろした。
「お前さんは、ずっとここで、こうして数えて暮らすのか」
佐吉の手が、止まった。
「……それしか、できませぬので」
「できる、できぬの話ではない。聞いておるのは、お前さんがどうしたいか、よ」
佐吉は、しばらく黙っていた。珠を一つ、指先で弾いて、また戻した。
「考えたことが、ありませぬ」
「ないのか」
「考えたところで、変わりませぬから」
声に、湿った色はなかった。ただ、乾いた事実を述べるような言い方だった。
甚兵衛は、少し迷ってから、もう一つ聞いた。
「先だって、他の童に絡まれておったろう。あれを、わしは見ておった。なぜ、言い返さぬのだ」
佐吉の手が、また止まった。
「言い返したところで、何も変わりませぬ。あの者らは、私が算用を覚えたことが、面白くないのです。言葉を返せば、もっと長引くだけのこと」
「腹が立たぬのか」
「腹を立てる暇があれば、帳面を一つ、合わせるほうがよろしい」
それきり、佐吉は黒い珠を一つ、指で弾いた。表情は、変わらなかった。
「父の家が、立場を失ったことも。寺で算用を覚えたことも。私が決めたわけではありませぬ。これからのことも、私が決められるとは、思いませぬ」
甚兵衛は、それ以上、すぐには言葉を継げなかった。
諦めている、というのとも、少し違う気がした。佐吉の顔には、悲しみも、苛立ちも見えない。ただ、何かを早くに、一度しまい込んだ者の顔だった。
「だが」
甚兵衛は、間を置いて、もう一度聞いた。
「望むことが、何もないわけではあるまい」
佐吉は、顔を上げた。
一瞬だけ、何かが揺れたように見えた。すぐに、また元の顔に戻った。
「……ございませぬ。今は」
「今は、か」
「はい。今は」
その「今は」という言葉に、甚兵衛は何かを感じた。それが何かは、まだわからなかった。ただ、まったく何もない、という言い方ではなかった。
佐吉は、それ以上は語らず、また帳面と珠に向き直った。話は、それで終わりだった。
* * *
甚兵衛が久武の屋敷へ戻り、昌源の前に座ったのは、それから数日後のことだった。
「佐吉に、会うてまいりました」
「どうであった」
「算用の腕は、噂以上にございます。蔵の品書きを、ほとんど見ずに数え上げておりました」
昌源は、頷いた。
「人柄は」
甚兵衛は、少し考えてから答えた。
「悲しむでも、腹を立てるでもございませぬ。ただ、何かを早くに、自分でしまい込んだような——そういう顔をしておりました」
「望むことを聞いても、何もないと申しておりました。ただ、『今は』、と」
昌源の目が、わずかに動いた。
「『今は』、か」
「はい」
昌源は、しばらく黙っていた。文机の上の、何も書かれていない紙を、指先でなぞった。
「人は、何も望まぬまま、長くは生きられぬものだ」
そう言って、昌源は甚兵衛を見た。
「もう一度、行ってまいれ。今度は、急がず、世間話だけで構わぬ」
「は」
甚兵衛は、頭を下げた。
部屋を出る間際、ふと振り返ると、昌源はまだ、何も書かれていない紙を見つめていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
久武親直――のちに長宗我部家を内から傾けることになる次兄・駒丸が、ここで初登場しました。優しい兄の顔をしながら、目だけが別のことをしている。藤丸が「信用しないでおこう」と決めた、この兄との距離感が、これからどう変わっていくのか(あるいは変わらないのか)、見守っていただければ幸いです。
次話もよろしくお願いいたします。




