表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
5/6

駒丸の笑み

今は三歳の藤丸。屋敷の中を一人で歩き回るうち、これまで言葉を交わしたことのほとんどなかった次兄・駒丸と、初めて顔を合わせます。

蝉の声が、安芸の山道に満ちていた。


甚兵衛は、汗を拭いながら歩いた。岡豊からここまで、もう何度目になるか数えていない道だ。だが今日は、いつもより足が重かった。


(直に言葉をかけてこい、か)


昌源様の指図は、いつも短い。だが今度のは、これまでとは少し違う重みがあった。噂を集めて運ぶだけなら、商人の仕事だ。だが人の本性まで見てこい、というのは、商人の領分を少し越えている。


それでも、断る理由はなかった。久武の家に世話になっている身だ。お咲のことも、家のことも、すべてこの久武家あっての暮らしだった。


寺の山門が、木立の向こうに見えてきた。蝉の声が、ひときわ大きくなった。


* * *


甚兵衛は、安芸の小さな寺の山門をくぐった。手には、いつもの土産——干した小魚を、紙に包んだだけの簡素なものを提げている。住職には、もう何度か顔を合わせている。話を通すには、これで十分だった。


「これはこれは、久武家の甚兵衛殿」


住職は、本堂の脇から声をかけてきた。歳の頃は六十に近いだろうか。声には、商人の出入りを面倒がる気配がなかった。


「今日は、何用で」


「いえ、特には。安芸へ参った折に、ちょっとお寄りしただけのことで」


甚兵衛は、いつもそう言うことにしていた。本当の用は、もう少し別のところにある。


「ああ、それなら、ちょうどいい折に来られた」


住職は、本堂の奥を手で示した。


「佐吉が、蔵の払いはらいものを調べておるところでな。あれの仕事ぶりを、見てやってくれぬか」


甚兵衛は、それに頷いた。住職の方から佐吉の名を出してくれるとは、思っていなかった。


* * *


蔵は、本堂の裏手にあった。小さな建物で、米や乾物、寺の道具がいくつか、棚に並んでいる。


その隅に、佐吉がいた。


十二、三歳ほどの少年だった。背は高くないが、姿勢が崩れていない。膝の前に、木の板を置き、その上に小さな木のたまを並べて、数を数えていた。算盤そろばんではない。土佐ではまだ珍しいその道具を、この子は持っていない。だが、珠の並べ方は、見ていて妙に整っていた。


「佐吉。お客人だ」


住職が声をかけると、佐吉は顔を上げた。


「これは……」


軽く頭を下げる。表情は、動かなかった。


「気にせず、続けてくれ」甚兵衛は言った。「ちょうど、見させてもらいたかったところだ」


佐吉は、少し迷うようなあいだを置いてから、また珠に手を伸ばした。


甚兵衛は、その手元を見ていた。


蔵の品書きを、佐吉は手元の帳面と見比べながら数えている。米のしょう、乾物のたば、油のつぼ——品ごとに数が違い、単位も違う。普通なら、何度も数え直すところを、佐吉は珠を一段動かすたびに、もう次の品へ目を移していた。


「数が、合わぬところは」


住職が、横から聞いた。


「先月より、干し椎茸しいたけが二束、増えております」


佐吉は、即座に答えた。


「それは構わぬ。檀家だんかからの納めじゃ」


「では、帳面に書き入れます」


迷いがなかった。甚兵衛は、内心でうなった。これだけの早さと正確さを、十二、三のわらべが涼しい顔でやっている。


うわさは、くだらぬ話ではなかったな)


甚兵衛は、ふと言葉を間違えたことに気づき、内心で苦笑した。さわがしいわけではない。うわさだ。安芸に来てから、何度も同じ字を間違える。


佐吉は、数え終わった品を帳面に書き入れると、珠を端に寄せて、また顔を上げた。


「何か、お調べになりたいことが」


その問いかけに、迷いはなかった。だが、何かを期待する色も、なかった。


「いや」甚兵衛は、少し笑った。「ただ、お前さんの仕事ぶりを、よそで耳にしたものでな。見に来ただけのことよ」


「左様で」


佐吉は、それだけ言うと、また帳面に目を落とした。話が終わったと思っているらしい。


甚兵衛は、住職にちらりと目をやった。住職は、何も言わずに、本堂のほうへ歩いていった。二人だけにする、という意味だろう。


* * *


「佐吉」


甚兵衛は、蔵の入り口に腰を下ろした。


「お前さんは、ずっとここで、こうして数えて暮らすのか」


佐吉の手が、止まった。


「……それしか、できませぬので」


「できる、できぬの話ではない。聞いておるのは、お前さんがどうしたいか、よ」


佐吉は、しばらく黙っていた。珠を一つ、指先ではじいて、また戻した。


「考えたことが、ありませぬ」


「ないのか」


「考えたところで、変わりませぬから」


声に、湿った色はなかった。ただ、乾いた事実を述べるような言い方だった。


甚兵衛は、少し迷ってから、もう一つ聞いた。


「先だって、他の童に絡まれておったろう。あれを、わしは見ておった。なぜ、言い返さぬのだ」


佐吉の手が、また止まった。


「言い返したところで、何も変わりませぬ。あの者らは、私が算用を覚えたことが、面白くないのです。言葉を返せば、もっと長引くだけのこと」


「腹が立たぬのか」


「腹を立てる暇があれば、帳面を一つ、合わせるほうがよろしい」


それきり、佐吉は黒い珠を一つ、指で弾いた。表情は、変わらなかった。


「父の家が、立場を失ったことも。寺で算用を覚えたことも。私が決めたわけではありませぬ。これからのことも、私が決められるとは、思いませぬ」


甚兵衛は、それ以上、すぐには言葉を継げなかった。


あきらめている、というのとも、少し違う気がした。佐吉の顔には、悲しみも、苛立ちも見えない。ただ、何かを早くに、一度しまい込んだ者の顔だった。


「だが」


甚兵衛は、間を置いて、もう一度聞いた。


「望むことが、何もないわけではあるまい」


佐吉は、顔を上げた。


一瞬だけ、何かが揺れたように見えた。すぐに、また元の顔に戻った。


「……ございませぬ。今は」


「今は、か」


「はい。今は」


その「今は」という言葉に、甚兵衛は何かを感じた。それが何かは、まだわからなかった。ただ、まったく何もない、という言い方ではなかった。


佐吉は、それ以上は語らず、また帳面と珠に向き直った。話は、それで終わりだった。


* * *


甚兵衛が久武の屋敷へ戻り、昌源の前に座ったのは、それから数日後のことだった。


「佐吉に、会うてまいりました」


「どうであった」


「算用の腕は、噂以上にございます。蔵の品書きを、ほとんど見ずに数え上げておりました」


昌源は、頷いた。


「人柄は」


甚兵衛は、少し考えてから答えた。


「悲しむでも、腹を立てるでもございませぬ。ただ、何かを早くに、自分でしまい込んだような——そういう顔をしておりました」


「望むことを聞いても、何もないと申しておりました。ただ、『今は』、と」


昌源の目が、わずかに動いた。


「『今は』、か」


「はい」


昌源は、しばらく黙っていた。文机の上の、何も書かれていない紙を、指先でなぞった。


「人は、何も望まぬまま、長くは生きられぬものだ」


そう言って、昌源は甚兵衛を見た。


「もう一度、行ってまいれ。今度は、急がず、世間話だけで構わぬ」


「は」


甚兵衛は、頭を下げた。


部屋を出る間際、ふと振り返ると、昌源はまだ、何も書かれていない紙を見つめていた。


お読みいただき、ありがとうございました。


 久武親直――のちに長宗我部家を内から傾けることになる次兄・駒丸が、ここで初登場しました。優しい兄の顔をしながら、目だけが別のことをしている。藤丸が「信用しないでおこう」と決めた、この兄との距離感が、これからどう変わっていくのか(あるいは変わらないのか)、見守っていただければ幸いです。


 次話もよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ