昌源の声
第四話です。
藤丸が初めて父・昌源と向き合う話になります。
熱が引いてから一週間あまり。回復した我が子を一目見ておく――そんな静かな呼び出しのはずが、藤丸にとっては、これからこの家でどう生きていくかを考える、初めての時間になりました。
遠くで、鐘が鳴った。
寺の鐘だ。岡豊の城下のどこかに寺があるのだろう。低く、長く尾を引く音が、朝の空気を渡ってくる。鶏の声とも、日の傾きとも違う。藤丸はその音を、布団の中で聞いていた。
熱が引いてから、七日が過ぎていた。
昨日は縁側まで、今日は廊下の先まで。体が戻ってくるのが、日ごとにわかる。三歳の体は正直だった。立ち上がってみると、足はもう、ちゃんと自分を支えた。
(歩けるな)
そう思ったとき、母が来た。
「藤丸。歩けますか」
藤丸は頷いた。
母は少しの間、藤丸の足元を見ていた。それから、静かに手を差し出した。
「父上が、お呼びです」
* * *
母に手を引かれて、廊下を歩いた。
屋敷は、思っていたより広かった。寝込んでいる間に知っていたのは、自分の寝間だけだった。藤丸には、廊下の長さが新鮮だった。曲がるたびに、知らない部屋が現れる。女中が一人、廊下の隅で頭を下げた。藤丸にではなく、母に向かって。
(そういうものだ、ここでは)
奥へ進むにつれて、空気が変わった。墨の匂いがした。紙の匂いもした。母方の祖父・昌綱が文を書いていたという、あの匂いと、同じなのだろうか。藤丸はそんなことを思った。
障子の前で、母が膝をついた。
「昌源様。藤丸を、連れてまいりました」
中から、声が来た。
「入れ」
短い声だった。
* * *
障子が開いた。
父・昌源は、文机の前に座っていた。
藤丸が父をちゃんと見るのは、これが初めてだった。熱の三日間、枕元に来てくれたのは覚えている。だがあのときは、まともに目が開かなかった。
大きい人ではなかった。肩幅なら、長兄の岩丸のほうがもう広いくらいだ。だが、ただ座っているだけで、部屋の空気が父を中心に回っているように感じた。背がまっすぐだった。年は四十に届かないはずだが、目元には深い線が刻まれていた。
文机の上には、文が広げてあった。何通も。脇に硯。墨はまだ湿っているように見えた。
部屋の隅に、もう一人いた。若い武士だ。片膝をついて、何かの返事を待っている。使者だろう、と藤丸は見当をつけた。
昌源は、藤丸を一目見た。
それから、若い武士に向き直った。
「本山殿への返事は、急くな。三日、寝かせてから出す」
「は」
「急いで出した文は、足元を見られる。向こうもこちらの返事を待っておる。待たせること、それ自体が、こちらの言葉になる」
若い武士は頭を下げ、文を受け取って出ていった。
藤丸は、黙ってそれを聞いていた。
(本山)
その名を、藤丸は知っている。
* * *
本山。長宗我部の、北の隣人。今はまだ、隣人だ。だがいずれ、敵になる。
藤丸の頭の中で、いつか読んだ本の記憶が、静かに開いた。
長宗我部は、一度この岡豊の城を失っている。父祖の代に攻められて落ちた。幼い国親公は一条房家に拾われ、中村で育てられ、後にこの城へ戻された。だから長宗我部にとって一条家は、頭の上がらぬ恩人であり、主筋でもある。
西に一条。北に本山。東に安芸。
土佐には、いくつもの家が並び立っている。長宗我部は、その中でようやく足場を固めなおしている家だ。まだ、突出してはいない。大きな戦をする力もない。だから今は、文を交わし、間合いを計り、敵を作らずに力を蓄える――そういう時なのだ。
父が「三日寝かせる」と言ったのは、そういうことだった。
(この人は、刀ではなく、間合いで戦っている)
藤丸は、父の横顔を見た。
文を読み、相手の出方を計り、言葉ひとつで間合いを取る。父は、そうやってこの家を支えているのだ。藤丸は、父の手元の文を、もう一度見た。墨の匂いの満ちたこの部屋は、どこかで、母方の祖父の話とつながっている気がした。
* * *
昌源が、藤丸に向き直った。
「歩けるようになったか」
「……はい」
「熱は、難儀であったな」
藤丸は頷いた。
父の声は、和らがなかった。三歳の子に向ける声では、なかった。母のような優しさも、岩丸のような無言の温かさもない。ただ、まっすぐだった。一人前の人間に向けるのと、同じ声だった。
藤丸は、その声に、少しだけたじろいだ。
前世でも、今世でも――こんなふうに、子ども扱いをせず、ただまっすぐに向けられた声を、覚えがなかった。会社では「田村さんは几帳面ですね」と笑われた。病院では、誰も来なかった。
昌源は、しばらく藤丸を見ていた。
母とは、見方が違った。母は「何かが違う」と、おそれるように見ていた。父はそうではない。値踏みするような、それでいて冷たくはない目だった。物の良し悪しを見極める職人のような――そういう目で、藤丸を見ていた。
(この目は、人を見慣れた目だ)
家老という仕事は、人を見る仕事でもあるのだろう、と藤丸は思った。
昌源は、何も言わなかった。ただ、ひとつ、小さく頷いた。
何に頷いたのか、藤丸にはわからなかった。
* * *
昌源は、文机の上の文を一通、手に取った。それを見ながら、独り言のように言った。
「お主と同じ年に、御館様にもお子がある」
藤丸の指が、わずかに動いた。
「弥三郎様、と申される。お主とちょうど、同じ年頃よ」
御館様――国親公の、お子。藤丸と、同い年。
その子の名を、藤丸は知っている。今は弥三郎。やがて元服し、別の名で呼ばれることになる、その子のことを。
「色の白い、物静かなお子だそうだ」昌源は続けた。「あまり外で遊ばれぬ。武家の子としては、案じる声もある。あれでは戦場に立てまい、とな」
藤丸は、黙っていた。
姫若子。色白で物静かなその子を、家中の者はそう呼んでいるのだろう。武将には向くまい、と。
だが藤丸は知っている。
その子がいつか初めて戦場に立った日、人が変わったように戦うことを。誰もが目を見張り、その日からその子を、別の名で呼ぶようになることを。今こうして案じられているその子が、いずれ土佐を一つにまとめ、四国に手を伸ばす男になることを。
(あなたが案じているその子は、化けますよ、父上)
そう言えたら、と思った。だが、言えるはずもなかった。三歳の子どもが、知っているはずのないことだ。
藤丸は、ただ膝の上で手を握った。同い年の、まだ顔も知らないその子のことを思った。色白で、物静かで、外で遊ばない子。
(いつか、会うのだろうな)
その予感だけが、静かに胸に落ちた。
* * *
昌源は、文を置いた。
もう用は済んだ、というふうに、立ち上がった。回復した子の顔を、一目見ておく――藤丸を呼んだのは、ただそれだけのことだったのかもしれない。
だが障子に手をかけたところで、昌源はふと止まった。最後に一度、藤丸を振り返った。
「次にこの間へ来るときは」
藤丸は、父を見上げた。
「己の足で、歩いてまいれ」
それだけ言って、父は出ていった。
和らがない声だった。いつもの声だ。だがその一言は、藤丸の中に、温かいものを残した。
* * *
母が藤丸の手を引いて、廊下を戻った。
墨の匂いが、だんだん遠ざかっていった。
藤丸は、歩きながら考えていた。
この家は、いつか傾く。藤丸はそれを知っている。北の本山と、いずれ戦になる。長い戦の果てに、長宗我部は天下に近づき、そして退く。その内側で、実の兄が――駒丸が、何をするのかも、藤丸は知っている。
知っていて、今、この廊下を歩いている。
父は、刀ではなく、文と間合いで戦う人だった。そういう戦い方があるのだと、藤丸は今日、初めて知った。
守りたいものが、初めて形を持って見えた気がした。父のまっすぐな背。母の手。岩丸の温かい手。廊下の隅で頭を下げる女中の暮らし。同い年の、まだ見ぬ色白の子。
全部、まだ、ここにある。
(己の足で、歩いてまいれ、か)
藤丸は、母の手を、そっと握り返した。
まだ、母の手は離せない。だがいつか、自分の足で、あの父の間へ歩いていく日が来る。
その日まで、この温かさを覚えていよう。
遠くで、また鐘が鳴った。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、父・昌源との初対面(と言っていいのか迷うところですが)回でした。母や兄たちとは違う、まっすぐで容赦のない父の声に、藤丸が少し戸惑う様子を書きたいと思っていました。
また、御館様のお子・弥三郎についても触れています。この子が後にどうなっていくのか、藤丸の独白だけで察していただけたら嬉しいです。
次話もよろしければお付き合いください。




