藤の方の目
熱が引いてからしばらく経った藤丸の元に、母・藤の方が静かに近づいてきます。
今回は、藤丸の何気ない振る舞いから、母が何かに気づき始める話です。
朝が来た。
障子の向こうが白んでいる。遠くで鶏が鳴いた。それからしばらくして、また鳴いた。藤丸は天井を見上げたまま、その声を数えるともなく聞いていた。
体が、軽かった。
熱が引いてから五日が経つ。昨日あたりから手足に力が戻ってきた感触がある。三歳の体は正直だった。回復するときも、衰えるときも、現代の体よりずっと素直に変化が出る。
(今日は、外に出られるかもしれない)
そう思ったとき、廊下に足音がした。
軽い足音だった。岩丸ではない。母だ。
障子が静かに開いた。
「起きていましたか」
藤丸は小さく頷いた。
母は部屋に入り、藤丸の傍らに膝をついた。額に手を当てる。少しの間そのままでいて、それから静かに手を引いた。
「熱はありません」
どこか安堵したような、それでいて何かを確かめるような声だった。
* * *
朝の粥を食べ終えた頃、母が縁側に連れ出してくれた。
秋の日差しが、庭に落ちていた。
木々の葉が黄みを帯びている。地面には枯れ葉がいくつか散っていた。風はなかった。ただ、日差しだけが静かにそこにあった。
藤丸は縁側の端に腰を下ろし、庭を見た。
(こんな庭だったのか)
病室からはよく見えなかった。今日初めて、ちゃんと見た気がする。屋敷の中庭は、さほど広くない。手入れされた松が一本、その根元に石が据えてある。それだけだった。飾り気のない庭だと思った。父・昌源らしかった。
母は縁側の柱に背を預けて、藤丸の傍に座っていた。何も言わなかった。日差しの中で、ただそこにいた。
田村昌也として生きた五十四年間に、こういう時間があっただろうか。
縁側で、誰かと並んで、ただ庭を見ている、そういう時間が。
(なかったな)
そう思ったら、胸のどこかが少し痛んだ。
* * *
午の少し前のことだった。
母が、何かを持って部屋に戻ってきた。小さな硯と、短い筆だった。
「少しだけ」
それだけ言って、母は藤丸の前に膝をついた。
「まだ早いのはわかっています。ただ、触れさせてみたくて」
硯に墨を少し溶いた。筆を水で慣らして、穂先を整える。その手つきが、迷いなかった。
母の外祖父・藤原昌綱は、一条殿衆の文官だったと、藤丸は知っている。文書管理を担い、外交の文を起草し、御所の記録を守った人だ。その血が、この手の動きに出ている、と藤丸は思った。
筆を差し出された。
藤丸は受け取った。
三歳の指は、短い。筆の軸が太く感じる。それでも、持てないことはない。穂先を墨に浸す。どのくらいの量が適当か、体がまだ知らないから、少し多くなった。
母が、藤丸の手に自分の手を添えようとした。
そのとき藤丸は、穂先を少し紙から離して、墨の量を確かめるように見た。
多い。もう少し払ったほうがいい。
筆を硯の縁で軽く払った。一度だけ。
母の手が、止まった。
藤丸は気づかないふりをして、紙の上に穂先を下ろした。線を引く。細く、まっすぐに。子どもの手で引いた線としては、奇妙なほど力の抜けた線だった。
しばらく、沈黙があった。
母は何も言わなかった。ただ、藤丸の手元を見ていた。
(見られている)
わかっていた。だが藤丸には、どう繕えばいいかがわからなかった。三歳の子どもが筆を持ったとき、どう振る舞うのが「普通」なのか。現代の記憶には、そういう場面がない。
しばらくして、母が静かに言った。
「上手ですね」
褒めているのではなかった。
何かを確かめているのだった。
藤丸は母の顔を見なかった。紙の上を見たまま、もう一本、線を引いた。
* * *
日が傾いた頃、母が行灯に火を入れに来た。
小さな炎が揺れた。部屋の中に橙の温かみが広がる。外からは夕風が忍び込んでくる。秋の日暮れは早い。
火を入れ終えた母は、立ち上がりかけて、少し間を置いた。それから、またその場に膝を下ろした。
「藤丸」
「……はい」
「お祖父様の話を、したことがありましたか」
藤丸は首を横に振った。
母は少しの間、炎を見ていた。
「藤原昌綱と申します。私の父の、父です。あなたが生まれる前に、亡くなりました」
声は静かだった。嘆くでも懐かしむでもなく、ただ、語る声だった。
「中村御所に仕えた方でした。一条様のお文を書き、遠くの方々とのやりとりを束ねる、そういうお役目でした」
藤丸は黙って聞いた。
一条房家が土佐に根を張り、中村を「土佐の京」と呼ばれるほどに育てていった時代——その御所で外交文書を担う文官がいたとすれば、それは単なる書記ではない。京の本家との橋渡しをし、諸国との通商に関わる文書を管理し、御所の記録を守る。文字を持つ者は、力を持つ。昌也の五十四年の記憶が、静かにそう告げた。
「お祖父様はよく言っておられたそうです」
母が続けた。
「文というものは、残る。人は死んでも、文字は残る。だから、書くことを恐れてはならない、と」
炎が、小さく揺れた。
藤丸は母の横顔を、少しだけ見た。
この人が土佐に来たのは、父・昌源との縁談が整ったからだ。昌源が長宗我部国親の使者として中村御所を訪れ、そこで出会った。母は京の文化を持つ女だ。和歌も書も礼法も、この人から藤丸は受け取ることになる。
だがそれ以上に——母はこの家で、ひとりだ。
親信と親直は別腹だ。藤丸だけが藤の方の子だ。昌源は忙しい。頼れる血縁は、ここにはいない。
(この人は、昌綱の話を誰にしてきたのだろう)
そう思ったら、炎の揺れ方が少し変わって見えた。
「お祖父様は」
藤丸は、ゆっくりと口を開いた。
「どんな方でしたか」
母が、静かに藤丸を見た。
三歳の子どもが、そういう問いを立てることを、どう受け取ったのか。藤丸にはわからなかった。だが母は少しの間そのままでいて、それから小さく息をついた。
「……穏やかな方でした。声を荒げるところを、私は見たことがありません」
「文を、たくさん書きましたか」
「たくさん書きました。夜遅くまで、燈火の前に座っておられました」
藤丸は頷いた。
頷いてから、それが三歳の子どもの動きとして自然かどうか、少し考えた。だが母は何も言わなかった。ただ、炎を見ていた。
しばらく、二人で炎を見た。
それだけだった。
だがそれだけのことが、藤丸には十分だった。母がここで何かを語りたかったのか、それとも自分の中で何かを確かめたかったのか、今の藤丸には判然としない。ただ、この人が昌綱の話を、今日ここで選んだことは、確かだった。
* * *
藤丸が眠りについてから、藤の方は部屋を出なかった。
行灯の前に座って、小さな炎を見ていた。
子どもの寝息が、静かに続いている。
(何かが、違う)
それだけは、はっきりしていた。熱の前と、後で、この子は違う。何が違うのか、言葉にできない。声が変わったわけではない。顔が変わったわけでもない。
声をかけると、少し間を置いてから返事をする。その間が、子どものものではない。何かを選んでいるような、そういう間だ。
筆の穂先を確かめたあの動作が、頭から離れなかった。三歳の子どもがすることではなかった。教えた覚えもなかった。それなのに、迷いなく、ただ一度だけ、硯の縁で払った。
(熱のせいか)
そう思おうとして、思えなかった。
熱で人が変わるということは、ある。だが、ああいう形で変わることが、あるだろうか。
藤の方は、炎を見たまま、昌綱のことを思った。
父から聞いた話だった。昌綱はよく言ったという。文字を持つ者は、見えないものを見ることができる、と。遠くの人の心も、過ぎた時のことも、文字があれば届く。だから文官というのは、刀を持たずとも、力を持てる、と。
(この子も、そういう子になるのかもしれない)
そう思って、それから少し首を振った。
まだ三歳だ。
ただ、熱が怖かった。熱の三日間、この子は知らない言葉をつぶやいていた。何を言っているのか、誰にもわからなかった。藤の方にも、わからなかった。
ただ一度だけ、聞き取れた言葉があった。
「さむい」
それだけだった。それだけなら普通だ。
だが言い方が、違った。
母に甘える声ではなかった。誰かに告げるでもなく、ただ、事実を確かめるように、静かにそう言った。幼子が言う声ではなかった——と後から思った。
(何を、考えているのだろう)
藤の方は、眠る藤丸の顔を見た。
子どもの寝顔だった。小さな口が少し開いている。まつ毛が長い。昌源に似ている。
愛しかった。
それだけは、何も変わらなかった。
炎が、小さく揺れた。藤の方はそれを見ながら、もう少しだけそこにいた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
筆を持つ藤丸の何気ない所作から、母・藤の方は何かが違うと気づき始めます。けれどそれを問い詰めることはせず、ただ静かに見守ることを選びました。
次話では、父・昌源との初めての対面が描かれます。
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