表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
3/6

藤の方の目

熱が引いてからしばらく経った藤丸の元に、母・藤の方が静かに近づいてきます。

今回は、藤丸の何気ない振る舞いから、母が何かに気づき始める話です。

朝が来た。


 障子の向こうが白んでいる。遠くで鶏が鳴いた。それからしばらくして、また鳴いた。藤丸は天井を見上げたまま、その声を数えるともなく聞いていた。


 体が、軽かった。


 熱が引いてから五日が経つ。昨日あたりから手足に力が戻ってきた感触がある。三歳の体は正直だった。回復するときも、衰えるときも、現代の体よりずっと素直に変化が出る。


 (今日は、外に出られるかもしれない)


 そう思ったとき、廊下に足音がした。


 軽い足音だった。岩丸ではない。母だ。


 障子が静かに開いた。


「起きていましたか」


 藤丸は小さく頷いた。


 母は部屋に入り、藤丸の傍らに膝をついた。額に手を当てる。少しの間そのままでいて、それから静かに手を引いた。


「熱はありません」


 どこか安堵したような、それでいて何かを確かめるような声だった。


* * *


 朝の粥を食べ終えた頃、母が縁側に連れ出してくれた。


 秋の日差しが、庭に落ちていた。


 木々の葉が黄みを帯びている。地面には枯れ葉がいくつか散っていた。風はなかった。ただ、日差しだけが静かにそこにあった。


 藤丸は縁側の端に腰を下ろし、庭を見た。


 (こんな庭だったのか)


 病室からはよく見えなかった。今日初めて、ちゃんと見た気がする。屋敷の中庭は、さほど広くない。手入れされた松が一本、その根元に石が据えてある。それだけだった。飾り気のない庭だと思った。父・昌源らしかった。


 母は縁側の柱に背を預けて、藤丸の傍に座っていた。何も言わなかった。日差しの中で、ただそこにいた。


 田村昌也として生きた五十四年間に、こういう時間があっただろうか。


 縁側で、誰かと並んで、ただ庭を見ている、そういう時間が。


 (なかったな)


 そう思ったら、胸のどこかが少し痛んだ。


* * *


 (ひる)の少し前のことだった。


 母が、何かを持って部屋に戻ってきた。小さな(すずり)と、短い筆だった。


「少しだけ」


 それだけ言って、母は藤丸の前に膝をついた。


「まだ早いのはわかっています。ただ、触れさせてみたくて」


 硯に墨を少し溶いた。筆を水で慣らして、穂先(ほさき)を整える。その手つきが、迷いなかった。


 母の外祖父・藤原昌綱は、一条殿衆の文官だったと、藤丸は知っている。文書管理を担い、外交の文を起草し、御所の記録を守った人だ。その血が、この手の動きに出ている、と藤丸は思った。


 筆を差し出された。


 藤丸は受け取った。


 三歳の指は、短い。筆の軸が太く感じる。それでも、持てないことはない。穂先を墨に浸す。どのくらいの量が適当か、体がまだ知らないから、少し多くなった。


 母が、藤丸の手に自分の手を添えようとした。


 そのとき藤丸は、穂先を少し紙から離して、墨の量を確かめるように見た。


 多い。もう少し払ったほうがいい。


 筆を硯の縁で軽く払った。一度だけ。


 母の手が、止まった。


 藤丸は気づかないふりをして、紙の上に穂先を下ろした。線を引く。細く、まっすぐに。子どもの手で引いた線としては、奇妙なほど力の抜けた線だった。


 しばらく、沈黙があった。


 母は何も言わなかった。ただ、藤丸の手元を見ていた。


 (見られている)


 わかっていた。だが藤丸には、どう繕えばいいかがわからなかった。三歳の子どもが筆を持ったとき、どう振る舞うのが「普通」なのか。現代の記憶には、そういう場面がない。


 しばらくして、母が静かに言った。


「上手ですね」


 褒めているのではなかった。


 何かを確かめているのだった。


 藤丸は母の顔を見なかった。紙の上を見たまま、もう一本、線を引いた。


* * *


 日が傾いた頃、母が行灯に火を入れに来た。


 小さな炎が揺れた。部屋の中に橙の温かみが広がる。外からは夕風が忍び込んでくる。秋の日暮れは早い。


 火を入れ終えた母は、立ち上がりかけて、少し間を置いた。それから、またその場に膝を下ろした。


「藤丸」


「……はい」


「お祖父様の話を、したことがありましたか」


 藤丸は首を横に振った。


 母は少しの間、炎を見ていた。


「藤原昌綱と申します。私の父の、父です。あなたが生まれる前に、亡くなりました」


 声は静かだった。嘆くでも懐かしむでもなく、ただ、語る声だった。


「中村御所に仕えた方でした。一条様のお文を書き、遠くの方々とのやりとりを束ねる、そういうお役目でした」


 藤丸は黙って聞いた。


 一条房家が土佐に根を張り、中村を「土佐の京」と呼ばれるほどに育てていった時代——その御所で外交文書を担う文官がいたとすれば、それは単なる書記ではない。京の本家との橋渡しをし、諸国との通商に関わる文書を管理し、御所の記録を守る。文字を持つ者は、力を持つ。昌也の五十四年の記憶が、静かにそう告げた。


「お祖父様はよく言っておられたそうです」


 母が続けた。


「文というものは、残る。人は死んでも、文字は残る。だから、書くことを恐れてはならない、と」


 炎が、小さく揺れた。


 藤丸は母の横顔を、少しだけ見た。


 この人が土佐に来たのは、父・昌源との縁談が整ったからだ。昌源が長宗我部国親の使者として中村御所を訪れ、そこで出会った。母は京の文化を持つ女だ。和歌も書も礼法も、この人から藤丸は受け取ることになる。


 だがそれ以上に——母はこの家で、ひとりだ。


 親信と親直は別腹だ。藤丸だけが藤の方の子だ。昌源は忙しい。頼れる血縁は、ここにはいない。


 (この人は、昌綱の話を誰にしてきたのだろう)


 そう思ったら、炎の揺れ方が少し変わって見えた。


「お祖父様は」


 藤丸は、ゆっくりと口を開いた。


「どんな方でしたか」


 母が、静かに藤丸を見た。


 三歳の子どもが、そういう問いを立てることを、どう受け取ったのか。藤丸にはわからなかった。だが母は少しの間そのままでいて、それから小さく息をついた。


「……穏やかな方でした。声を荒げるところを、私は見たことがありません」


「文を、たくさん書きましたか」


「たくさん書きました。夜遅くまで、燈火の前に座っておられました」


 藤丸は頷いた。


 頷いてから、それが三歳の子どもの動きとして自然かどうか、少し考えた。だが母は何も言わなかった。ただ、炎を見ていた。


 しばらく、二人で炎を見た。


 それだけだった。


 だがそれだけのことが、藤丸には十分だった。母がここで何かを語りたかったのか、それとも自分の中で何かを確かめたかったのか、今の藤丸には判然としない。ただ、この人が昌綱の話を、今日ここで選んだことは、確かだった。


* * *


 藤丸が眠りについてから、藤の方は部屋を出なかった。


 行灯の前に座って、小さな炎を見ていた。


 子どもの寝息が、静かに続いている。


 (何かが、違う)


 それだけは、はっきりしていた。熱の前と、後で、この子は違う。何が違うのか、言葉にできない。声が変わったわけではない。顔が変わったわけでもない。


 声をかけると、少し間を置いてから返事をする。その間が、子どものものではない。何かを選んでいるような、そういう間だ。


 筆の穂先を確かめたあの動作が、頭から離れなかった。三歳の子どもがすることではなかった。教えた覚えもなかった。それなのに、迷いなく、ただ一度だけ、硯の縁で払った。


 (熱のせいか)


 そう思おうとして、思えなかった。


 熱で人が変わるということは、ある。だが、ああいう形で変わることが、あるだろうか。


 藤の方は、炎を見たまま、昌綱のことを思った。


 父から聞いた話だった。昌綱はよく言ったという。文字を持つ者は、見えないものを見ることができる、と。遠くの人の心も、過ぎた時のことも、文字があれば届く。だから文官というのは、刀を持たずとも、力を持てる、と。


 (この子も、そういう子になるのかもしれない)


 そう思って、それから少し首を振った。


 まだ三歳だ。


 ただ、熱が怖かった。熱の三日間、この子は知らない言葉をつぶやいていた。何を言っているのか、誰にもわからなかった。藤の方にも、わからなかった。


 ただ一度だけ、聞き取れた言葉があった。


 「さむい」


 それだけだった。それだけなら普通だ。


 だが言い方が、違った。


 母に甘える声ではなかった。誰かに告げるでもなく、ただ、事実を確かめるように、静かにそう言った。幼子が言う声ではなかった——と後から思った。


 (何を、考えているのだろう)


 藤の方は、眠る藤丸の顔を見た。


 子どもの寝顔だった。小さな口が少し開いている。まつ毛が長い。昌源に似ている。


 愛しかった。


 それだけは、何も変わらなかった。


 炎が、小さく揺れた。藤の方はそれを見ながら、もう少しだけそこにいた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

筆を持つ藤丸の何気ない所作から、母・藤の方は何かが違うと気づき始めます。けれどそれを問い詰めることはせず、ただ静かに見守ることを選びました。

次話では、父・昌源との初めての対面が描かれます。

よろしければ、感想や評価をいただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ