岩丸の手
第二話をお届けします。
前話で目覚めた藤丸が、初めて長兄・岩丸とふれあう一日です。
短いお話ですが、お楽しみいただければ幸いです。
朝が来た。
障子の向こうが白んでいる。行灯の火はとうに消えて、部屋の中は静かだった。遠くで鶏が鳴いた。それが夜明けの合図だと、藤丸はこの三年でようやく覚えた。時計はない。日の出と鳥の声だけが時刻を告げる世界だ。
(そういうものだ、ここでは)
天井を見上げたまま、藤丸はそう思った。
頭の中は、今日も静かだった。
田村昌也の五十四年と、久武藤丸の三年が、きれいに並んで収まっている。熱が引いてから四日が経つ。混乱は最初の一日だけだった。あとは不思議なほど穏やかで、まるで長い旅から帰ってきた人間が荷ほどきを終えたような、そういう静けさだった。
手を持ち上げてみた。
小さかった。指が短い。皮膚に張りがある。五十四歳の手ではない。あの節くれだった、薬の副作用で乾いた手とは何もかも違う。
(これが三歳か)
感慨ともつかない何かが、胸の中を通り過ぎた。
廊下に足音がした。
* * *
母・藤の方が障子を開けたのは、鶏が鳴いてすぐのことだった。
手に椀を持っている。湯気が薄く立っていた。
「起きていましたか」
藤丸は小さく頷いた。
母は部屋に入り、藤丸の傍らに膝をついた。静かな所作だった。京で育った人間の動き方だと、藤丸は思う。久武家の他の女中たちとは、どこかが違う。
「粥です。少し食べられますか」
椀を差し出された。藤丸は受け取ろうとして、うまくいかなかった。手が小さすぎる。椀が重い。
母は何も言わずに椀を引き戻し、自分で匙を取った。
食べさせてもらいながら、藤丸は妙な気持ちになった。五十四年間、誰かにこうしてもらったことが、あっただろうか。病院でも、最後まで一人だった。点滴の管はあったが、匙を持って隣に座ってくれる人間はいなかった。
粥は粟が混じっていた。米だけではない、少しざらりとした食感だ。それでも温かかった。
三口ほど食べたところで、母が手を止めた。
藤丸の顔を、静かに見ていた。
「藤丸」
「……はい」
「夢を、見ましたか。熱の間」
藤丸は少し間を置いた。
「見ました」
「どんな夢でしたか」
どんな夢か。白い天井。聞いたことのない音。誰も来ない病室。五十四年分の記憶が三秒で流れ込んでくる感覚。
「……遠い場所の夢でした」
それだけ言った。母はしばらく藤丸の目を見ていた。何かを確かめるように。
やがて、また匙を取った。
それ以上、何も聞かなかった。
* * *
岩丸が来たのは、午前のことだった。
足音で分かった。大きくて、でも急いでいない。その足音だけで、藤丸には誰だか分かった。
障子が開いた。
大きかった。
それが、藤丸の最初の印象だった。三歳の目から見る十五の少年というのは、こんなにも大きいのか。顔にはまだ幼さが残っている。だが肩幅はすでに父・昌源に似てきていた。声変わりが終わったばかりらしい、少し低くなりかけた声で言った。
「起きたか」
ただそれだけ言って、岩丸は藤丸の枕元に腰を下ろした。
胡座をかいて、膝に両手を置いて、それだけだった。何かを持ってきたわけでも、何かを言いに来たわけでもなさそうだった。ただ、ここに来た。それだけだった。
藤丸は兄の顔を見た。
(この少年が、後に伊予軍代になる)
いつか本で読んだ言葉が、静かに浮かんだ。
(元親から全幅の信頼を受ける。伊予攻略を一任される。そして——死ぬ)
今、目の前にいる少年が、その人だ。
藤丸はそれを知っている。
岩丸は部屋の中を一度見回してから、また藤丸に目を戻した。
「怖い夢でも見たか」
藤丸は首を横に振った。
「怖くなかった」
「そうか」
岩丸はそれ以上追わなかった。ただ「そうか」と言って、少し間を置いた。
それから、ゆっくりと手を伸ばして、藤丸の頭に乗せた。
大きな手だった。
温かかった。
藤丸は、黙っていた。何も言えなかった。子どもの体が動かなかったのではない。五十四歳の中身が、言葉を持っていなかった。
五十四年間、誰かにこうしてもらったことが、あっただろうか。
(この手が、いつかなくなる)
自分はそれを知っている。
知っていて、今ここで、この手の温かさを感じている。
それがどういうことなのか、藤丸にはまだうまく言葉にできなかった。ただ、目の奥が少し熱くなった。三歳の体は正直だった。
岩丸は気づいていたかもしれない。それでも何も言わなかった。ただ手を置いたまま、しばらくそこにいた。
やがて立ち上がった。
「無理をするな」
それだけ言って、部屋を出た。
* * *
足音が廊下を遠ざかっていく。
しばらくして、別の気配がした。
足音ではない。ただ、誰かがそこにいる、という気配だ。障子の向こう、廊下のあたりで、何かが止まっている。
藤丸は動かなかった。
気配は少しの間そこにあって、それから静かに消えた。
(駒丸か)
確かめるすべはない。だが藤丸には、なんとなく分かった。
岩丸は中に入ってきた。駒丸は入らなかった。その違いが何を意味するのか、今の藤丸には断言できない。ただ、その違いを、藤丸は黙って胸の中に収めた。
* * *
日が傾いた。
秋の日暮れは早い。午後になったと思ったら、もう障子が橙に染まっていた。
母が行灯に火を入れに来た。小さな炎が揺れて、部屋の中が温かみを帯びた。外からは夕風が忍び込んでくる。ほんの少し、肌寒い。
電灯のない夜というのは、こんなにも暗い。そのぶん、小さな炎がこんなにも近く感じる。田村昌也として生きた五十四年間で、炎をこれほど近くに感じたことはなかった、と藤丸は思った。
母は火を入れると、藤丸の夜具を少し直して、部屋を出ていった。
一人になった。
藤丸は天井を見上げた。揺れる炎の影が、天井に小さく踊っている。
今日一日のことを、静かに思った。
粥の温かさ。母が何も聞かずに匙を持ち直した、あの静けさ。岩丸の手の重さ。廊下に消えた、名前のない気配。
これからやるべきことは、山ほどある。
元親はまだ生まれたばかりだ。国親公が土佐をまとめていく過程を、藤丸はこの目で見ることになる。岩丸がいつか伊予へ向かい、そして戻らないことも知っている。駒丸がどう動くかも、おおよそ知っている。秀吉が四国に来ることも。
知っている。全部。
だが今夜は、それだけでいい。
岩丸の手が温かかった。それだけを、今日は覚えていよう。
夕風が、また障子の隙間から忍び込んできた。行灯の炎が、小さく揺れた。
藤丸はゆっくりと目を閉じた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
次話では、母・藤の方とのやり取りを通じて、藤丸の中に流れ込んだ「もう一つの人生」の気配が、少しずつ周囲に伝わっていきます。
よろしければ、感想や評価をいただけると嬉しいです。




