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目覚め

戦国時代の土佐を舞台にした、転生ものです。

主人公は、現代で総務の仕事をしていた五十四歳の男性。

亡くなったあと、長宗我部家の家老の家——久武家の三男として生まれ変わります。


戦うことよりも、知恵と段取りで、家族とこの国を守っていく物語です。

更新は不定期ですが、気長にお付き合いいただけたら嬉しいです。

 最初に感じたのは、闇だった。


 いや——闇の中に、かすかに滲む何かだった。


 まぶたの裏がうっすらと赤い。温度のある光が、どこかで揺らいでいる。行灯(あんどん)か、夜明けか、判然としない。ただ、明るさと暗さだけがある。


 次に音が来た。


 女の声。低く、疲れ果てて、それでもどこか安堵を含んでいる。何を言っているのかわからない。耳が音を拾っても、言葉として処理できない。


 それから——体が、おかしかった。


 腕を動かそうとした。動いた。だが重心がない。手足の長さの感覚が狂っている。指を握ろうとしたら、ぷにぷにとした何かが丸まった。


 (……何だ、これは)


 ただ、それだけだった。考えをまとめる力は、まだどこにもなかった。


 まぶたが、重かった。開けようとしたが、うまくいかない。ようやく薄く開いても、何も見えなかった。光と闇の境界がぼんやりと滲んでいるだけだ。


 女の声が、何か早口に言っていた。強い声だった。それから、誰かの手が体を持ち上げた。


 冷たい空気に触れた。


 喉の奥から、何かが出た。自分の意思ではなかった。ただ、出た。


 声だった。


 部屋の中の気配が、ふっと変わった。


「——泣いた」


 誰かが、小さく言った。


 それから、声が湿った。


「よかった。本当に……よかった」


 誰かが、小さな体を抱き起こして胸に抱いた。


 温かかった。


 それだけが、わかった。


 泣き続けながら、温かいものに包まれていた。何もわからないまま、ただその温かさに包まれて、眠りに落ちた。


* * *


 それから、三年が過ぎた。


 体は育った。言葉も覚えた。土佐の言葉が少しずつ口に馴染んできた。


 ただ、何かがずっと引っかかっていた。


 夢をよく見た。知らない場所の夢だ。白くて明るい天井。聞いたことのない音。見たことのない光。目が覚めると消えてしまうが、妙にくっきりとした感触だけが残った。


 自分が何者なのか、よくわからなかった。久武藤丸(ひさたけふじまる)という名前はある。父は昌源(まさもと)、母は藤の方(ふじのかた)、長兄は岩丸(いわまる)、次兄は駒丸(こままる)。それはわかっている。


 久武家(ひさたけけ)長宗我部家(ちょうそかべけ)筆頭家老(ひっとうかろう)の家だ。岡豊(おこう)の城下に屋敷を構え、父は主君・国親(くにちか)公のもとで政務を担っている。長兄の岩丸はもう元服が近い年頃で、次兄の駒丸はいつも何かを考えているような目をしていた。母の藤の方だけが、少し違う空気を持っていた。京の言葉が、ときどき混じった。


 だが、それだけではない気がした。もっと別の何かが、どこかに眠っている。


 そんなある夜のことだった。


 熱が出た。


 最初は夕方から体がだるく、母が額に手を当てて顔色を変えた。夜風が冷たかった。夜になると意識がもうろうとしてきた。藤丸はぼんやりとしたまま、布団の中で天井の気配を感じていた。


 母が子守唄を歌っていた。京の唄らしく、聞き慣れない旋律だった。


 そのとき——何かが、来た。


 扉が、内側から破れた。


 病室の蛍光灯。点滴のアラーム。自宅のPCの画面。総務部のデスク。コンビニの弁当。ウォーキングシューズ。図書館の棚に並んだ長宗我部の本。医者の曇った顔。心電図。白い天井。


 五十四年分が、三秒で流れ込んできた。


 小さな脳が悲鳴を上げた。


 藤丸は声を上げることもできず、そのまま意識を失った。


 三日間、高熱が続いた。


 父・昌源が医者を呼んだ。原因がわからなかった。母は一睡もせず枕元についていた。長兄・岩丸が心配そうに覗きに来た。次兄・駒丸は戸口から一度だけ覗いて、すぐにいなくなった。


 うなされながら、知らない言葉をつぶやいていたらしい。後に母から聞かされた。何を言っているのか、誰にもわからなかったという。


 母は意味がわからず、ただ額を拭き続けた。


 三日目の朝、熱が引いた。


 目が覚めたとき、頭の中は不思議なほど静かだった。


 田村昌也(たむらまさや)の五十四年と、久武藤丸の三年が、きれいに並んでいた。混乱はなかった。二つの人生が、一人の人間の中に静かに収まっていた。


 田村昌也は、五十四歳だった。


 中小企業の総務部に二十年以上勤めた、どこにでもいる男だ。独身。一人暮らし。両親はすでに他界し、兄弟もなく、気の置けない友人も、気にかけてくれる親戚も、いなかった。


 天涯孤独というやつだ。


 孤独だからこそ、健康には気を遣った。禁煙、節酒、週三回のウォーキング。食事は野菜から食べる。健康診断は毎年欠かさず受けた。会社の同僚に「田村さんって几帳面ですね」と言われるたびに、苦笑いで返した。


 几帳面でなければ、誰も気にかけてくれないのだ。


 それが趣味の戦国PCゲームをやるときだけ、田村は人が変わった。休日は一日中画面の前に座り、長宗我部家を操って天下に絡もうとしていた。歴史書も読みあさった。図書館で借りた長宗我部関係の本を、病院のベッドの上でも読み続けた。


 病院のベッド。そうだ、最後は病院にいた。


 原因不明の難病だった。最初は倦怠感だけだった。やがて食欲が落ち、体重が減り、検査のたびに医者の顔が曇った。病名は結局はっきりしなかった。指定難病の何かに近いが、既存のどれとも微妙に違う、と言われた。


 一年かけてゆっくり悪化した。


 個室のベッドで天井を見上げながら、田村はぼんやりと思っていた。結局、最後まで一人だな、と。見舞いに来る者はいない。泣いてくれる人もいない。それでも不思議と、恐怖はなかった。難病と闘った一年間で、死というものに少しずつ慣れてしまっていた。


 点滴の音。心電図のかすかなアラーム。


 意識が遠くなりながら、最後に思ったのは——


 (長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)、四国統一したとは言うけど厳密には完全じゃなかったんだよな)


 自宅の部屋で見ていた、道半ばのゲームのことだった。


 藤丸は天井を見上げながら、静かに頭の中を整理した。


 (今がいつなのかはわからない。ただ、元親はまだ生まれたばかりのはずだ。あるいはまだかもしれない。国親公はまだ現役のはず。一条房家(いちじょうふさいえ)も健在か。久武家は筆頭家老。自分の立場は三男で、家督争い(かとくあらそい)とは無縁。長兄の岩丸は将来討死(うちじに)する。次兄の駒丸は……厄介だ)


 窓の外で、鳥が鳴いた。


 母が水を持ってきた。


「藤丸。わかりますか」


「……はい」


 声が出た。子どもの声だった。三歳の声だ。それでも中身は五十四歳だ。


 藤丸は母の顔を見た。


 (この人は、私が何者かを、いつか気づくかもしれない)


 そう思いながら、藤丸は水を一口飲んだ。


 冷たくて、おいしかった。


 ずいぶん久しぶりに、生きている気がした。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

藤丸(昌親)の戦国土佐での人生は、まだ始まったばかりです。


次話では、長兄・岩丸との場面が続きます。

気に入っていただけましたら、ブックマークや感想で教えていただけると、とても励みになります。


それでは、また次話で。

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