一二日
前回、藤丸は東へ送った紙が、思わぬ形で返ってくるのを見ました。
今回は、送らなかった報せの話です。
野分から半月。報せは、届いていました。
藤丸は、山へ行きませんでした。
いつもより少し長い回です。
次郎兵衛が来る、と聞いたのは、朝のうちだった。
「三日のうちには、こちらへ」
甚兵衛は、いつもの柔らかい顔で言った。
「秋のはじめの荷を取りに、と。春のお約束どおりでございます」
「三日か」
藤丸は頷いて、荷の支度を頭の中に並べた。籠の数。人足の手配。日取り。並べるうちに、列のいちばん上が空いていることに気づいた。
肝心の、椎茸である。
報せは、来ていた。野分の明くる日の翌日、平六の使いが下りている。奥の谷の試しの木は三組とも無事。朽ち木の谷が、落ちた土と倒木に埋まった。それだけの短い口上だった。
藤丸は、その日のうちに帖へ書いた。秋。聞。一筋。朽ち木の谷、埋まる。出所、平六。書式は間違えていない。
書いて、それきりだった。
山へ行こうとは思った。思った日のうちに、行かぬ理由が並んだ。道は崩れているだろう。供が要る。人足は畔の直しに出払っていて、田の検分は家中のみなが動いている仕事だ。そのさなかに、三男が二人三人を連れて山へ入りたいと言えば――
言えば、たぶん通った。父は止めなかっただろう。言わなかったのは、通らないと思ったからではない。
だから、待った。道が直れば平六が下りてくる。下りてきたら訊けばよい。
その半月、藤丸は田を歩き、畔を二十三枚検分し、切れた場所を数えて紙に書き、父に出した。よくできた仕事だった。
山へは、一度も行っていない。
「甚兵衛。平六の山から、その後、何か報せは」
「いえ、手前のところへは」
藤丸は立ち上がった。
静かにしていた半月が、いくらになるのかを、まだ数えていなかった。
* * *
平六は、山の口で待っていた。呼びに走らせた者が着いてから、半刻もしないうちに下りてきたことになる。
「藤丸様。お越しになると思うておりました」
いつか来る、と思うていた、という言い方だった。いつ、とは言わなかった。
「遅くなった」
「いえ」
平六はそれきり何も言わず、先に立って歩き出した。
二つ目の沢を越えたあたりで、足が止まった。
道が、ない。
斜面が幅五間ほど、まるごと下へずり落ちている。細い木が、根を上に向けて突き刺さっていた。
「上に回る道はございます。ただ、荷を担いでは通れませぬ」
使いの口上に、道の話はなかった。この男は訊かれたことしか言わぬ。訊く者が下りてこなければ、それきりになる。
「試しの木は」
「無事でございます。落ちた斜面より上手にございましたで、土は届いておりませぬ。三組とも、並びは崩れておりません」
平六の答えは早かった。使いに持たせたのと、一字も違わなかった。
藤丸は、短く息を吐いた。そこが崩れていたら、二年が消えるところだった。
「よく、まっさきに見に行ってくれた」
「並べたものは、並べたままでのうては、意味がございませんで」
平六は、こともなげに言った。この男が言うと、それは教わった言葉ではなく、山の決まりごとに聞こえた。
* * *
上に回る道を辿って、いつもの谷へ下りたところで、藤丸は立ち止まった。
朽ち木の谷である。毎年、秋のはじめの荷のほとんどは、ここから出ていた。人の手を入れたわけではない。古い木が幾本も倒れ伏していて、そこに毎年、椎茸が出る。それだけの谷だった。
その谷が、埋まっていた。
聞いていた。聞いていた通りのものが、目の前にあった。それだけのことで、こうも違う。
落ちてきた土と、折れた枝と、葉のついたままの倒木が重なり、朽ち木の並びを覆っている。どこに何が寝ていたかも、もう分からない。
「掘り出せば、出てまいりますでしょう。ただ、日の当たらぬところに埋もれた木からは、今年の分は望みが薄うございます」
平六が、藤丸の顔を見ずに言った。
「掘るには、どれほどかかる」
「男を四、五人。半月。それも、土が落ち着いてからでございます」
藤丸は、谷を見渡した。
「秋のはじめの荷は、どれほど出る」
平六は、しばらく黙っていた。数えていたのではなく、言い方を選んでいた間だった。
「奥の谷と、東の斜面の分だけでございましたら――去年の、六分がところかと」
六分。
いつもの量、と約束したものが、六分になる。
山を下りながら、藤丸は次郎兵衛の顔を思い浮かべていた。六分は、詫びれば済む。詫びて済まぬのは、半月黙っていたほうだ。あの男は荷の数では動じない。数が遅れて届くことに動じる。
* * *
屋敷に戻って、藤丸はまっすぐ父の間へ行った。
昌源は、文机の前にいた。話を聞き終えるまで、筆を置かなかった。
「六分か」
「はい」
「して、そちはいつ、それを知った」
「今日でございます」
「谷が埋まったと聞いたのは」
「半月前でございます」
昌源の筆が、そこで止まった。その静かさが、どんな叱責よりも重かった。
「見に参らなんだか」
「参りませんでした」
「なぜ」
藤丸は、そこで一度、息を吸った。道が崩れていた、と言うことはできた。人足が出払っていた、とも言えた。どちらも本当のことで、どちらも本当の理由ではなかった。
「……申し出れば、通ったと存じます。申し出ませんでした」
「なにゆえ」
「田の検分のさなかに、私一人が山へ供を連れて参りますのは、目立ちますゆえ」
言ってから、藤丸は少し驚いた。声にすると、ずいぶん小さな理由だった。
昌源は、しばらく黙っていた。
「目立たぬようにしておるのは、悪いことではない。そちが帖を持っておることも、山の話をしておることも、家中の者はさして知らぬ。わしも、そう扱うてきた」
昌源は、筆を置いた。
「だがな。誰の山でもないことにしておけば、誰も見に行かぬ。そちが行かねば、あの谷は半月、誰の目にも入らぬままよ」
藤丸は、答えられなかった。
「値のつくことだとは、承知しておったろう」
「……承知しておりました」
「今年、それを払うたな」
「はい」
「六分は、風が持って行った。そちが持って行かれたのは、そこではない」
昌源は、そこで初めて藤丸の顔を見た。
「三日のうちに、それが何であったかを言いに来る者が参る」
「次郎兵衛殿でございます」
「知らせに走らせるか」
「――間に合いませぬ。安芸までは二日、走らせても行き違いになります」
「ならば」
昌源は、視線を外さなかった。
「顔を合わせた、いちばん最初に言え。腰を下ろす前にな」
* * *
次郎兵衛が裏門に立ったのは、三日目の昼前だった。
日に焼けた顔も、太い腕も、いつもと変わらない。ただ、連れてきた人足が二人多かった。荷を積んで帰るつもりの足である。
「藤丸様。息災か」
「次郎兵衛殿」
藤丸は、框の手前で足を止めた。
「先に、申し上げねばならぬことがございます」
海の男の眉が、わずかに動いた。腰を下ろしかけた体が、そのまま止まった。
「今年の秋のはじめの荷は、いつもの量に届きません。六分ほどでございます」
沈黙が、ひとつ落ちた。傍らで、甚兵衛が息を詰めている。
「六分」
「はい」
「わけは」
「野分でございます。いつも椎茸の出る谷が、落ちた土と倒木で埋まりました。掘り出すには男が四、五人で半月、それも斜面が落ち着いてからでなければ人は入れられませぬ」
「見立ては、誰が」
「山の平六でございます」
次郎兵衛は、藤丸を見ていた。値踏みの目ではない。荷を検める時の、乾いた目だった。
「――お主、それを、いつ知った」
「六分と知りましたのは、三日前でございます。谷が埋まったことは、野分の翌々日に聞いておりました」
訊かれた以上のことを、藤丸は言った。
「いくつ足りぬかは分かりませんでしたが、足りることはないと、その日に分かっておりました。それを走らせておりません。確かな数が出てから、と思うておりました。……遅かったことは、承知しております」
「遅いの」
短かった。
「はい」
「わしはな、藤丸様。六分と聞いても、そう驚かん。海の男よ。風で荷が消えるのは、毎年のことだ」
次郎兵衛は、框に腰を下ろした。
「驚くのは、そっちではない。半月のうち十二日、お主は足りぬと知っておって、わしに黙っておった。その十二日、わしは十の荷を積むつもりで船を空けておった。人足も、この通り二人余分に連れてきた。――消えたのは椎茸ではない。わしの十二日よ」
藤丸は、頭を下げた。
「申し訳ございません」
「謝らんでいい。もう済んだ」
海の男は、帯に挟んだ細縄を抜いて、手の中で結んでは解いた。
「その代わり、次からは分かった日に走らせろ。文でよい。六分になるやもしれぬ、でよい。確かになるのを待つ間に、こっちの船が動いてしまうでな」
「……確かでなくても、でございますか」
「うむ。お主は、確かなことしか言わぬ。それでここまで信を置いてきた。だが、それは商いの話よ」
次郎兵衛は、縄の先で、置かれたままの空の籠を指した。
「荷が減るという報せだけは、生煮えで構わん。早い生煮えのほうが、遅い煮え切りより、ずっと役に立つ」
早いほうが安く済むことは、藤丸も知っていた。知らなかったのは、その高い安いが、どこで数になるかだ。空けた船に銭は乗らず、連れてきた人足は飯を食う。静かにしていた十二日は、向こうの帳では、とうに別の名で立っている。
帖に「聞」と「見」を分けて書くようになってから、確かでないものを人に渡すことを、自分はずっと避けてきた。避けることが正しいと思ってきた。
正しかった。正しいものにも、値がついていただけだ。
「値は、いかがいたしましょう」
「いつもの値だ」
次郎兵衛は、あっさり言った。
「六分を六分の値で買う。それだけよ。足りぬからと安う買い叩けば、来年また風が吹いたとき、お主はわしに黙るようになる。……黙られるのがいちばん高うつくのでな」
藤丸は頷き、もう一つ言うべきことに気づいた。
「次郎兵衛殿。冬の荷のことを、先に申し上げておきます」
「申せ」
「掘り出しが間に合えば、いつも通りに戻せると存じます。ただ、間に合うかどうかは、まだ分かりません」
次郎兵衛の手が、縄の上で止まった。
「――それだ」
海の男は、初めて笑った。
「分からぬまま、先に言うた。それでいい」
* * *
荷の勘定が済むと、次郎兵衛は縄を帯に戻し、居住まいを変えた。
「さて。土産話よ」
「はい」
「畿内が、割れた」
藤丸は、顔を上げた。
「割れた、と申しますと」
「細川の御屋形様と、その家中の三好某よ。夏の頃から、家中で揉めておるとは聞いておったがな。この秋になって、はっきり形になった」
「どのように」
「三好の当主が、御屋形様に迫ったそうだ。一門のうちの誰それを討ってくれ、と。御屋形様は、それを退けた」
海の男は、そこで一度、切った。
「退けられた三好が、そのまま引き下がるかどうか。堺へ通う船仲間は、引き下がるまいと言うておる。三人が三人ともだ。……ただし、そこから先は船乗りの見立てよ」
夏の初め、文吉の店で聞いた話がある。堺帰りの薬種屋の手代が置いていった、湯屋の噂ほどの一行。細川家中で三好の一門が内輪で仲違いをしている――誰と誰が、というところまでは、その手代も知らなかった。
いま聞いた話は、その形の中に収まる。しかも、出所が違う。
(二筋目だ)
しかも、ただ重なっただけではない。夏には誰と誰かも分からなかったものが、秋には、誰が誰の討伐を求め、誰に退けられたかまで名がついている。輪郭が固くなったのではない。中身が入った。
「次郎兵衛殿。その話は、海の男には、どう響くのでしょうか」
「ほう。妙なことを訊く」
次郎兵衛は、少し面白そうな顔をした。
「戦のある土地では、物の値が跳ねる。跳ねると分かっておる者は、先に買う。堺へ通う船が、足りぬようになるやもしれん」
海の男は、腰を上げた。
「誰が勝つかは知らん。値が動くかどうかだけが、商いの話でな」
* * *
その夜、藤丸は文机の前に座り、帖を開いた。
――秋。聞。二筋。細川の家中割れる。三好の当主、一門の一人の討伐を迫り、御屋形様に退けられたと。夏の一筋(文吉の店、堺帰りの手代)は不和の気配のみ、名なし。此度は名の在り処まで。出所は次郎兵衛殿、堺通いの船仲間。
少し考えてから、もう一行を足した。
――畿内が割れれば、堺の物の値が動くと。次郎兵衛殿。
書き終えて、藤丸は頁を戻した。夏の初めの一行がある。近くの小さな名のほうが墨が重い、と、あのとき自分で書いた。
その下に、秋の一行が並んだ。
遠い名は、遠いままだ。それでも、二筋目が並んで、少しだけ形が固くなった。
藤丸は帖を閉じ、次に、まだ何も書いていない新しい紙を一枚、手元に引き寄せた。
書くのは、明日の朝でいい。書く相手も、まだ決まっていない。
ただ、書くべきことは決まっていた。
――足りぬかもしれぬ、と、分かった日に。
作中で「六分」という言い方が出てきます。いつもの十のうち六、という意味です。
中世の日本では、割合を「分」で表す言い方が広く使われていたようです。年貢の減免を「幾分の引き」と記したり、分け前を「何分」と数えたりする例が、各地の文書に見られます。ただし「一分」が十分の一を指すのか百分の一を指すのかは、文書の種類や時代によって揺れがあり、一律にこうだったとは言い切れません。同じ帳面の中でさえ、書き手が別の意味で使っていることがあります。
数そのものより、その数がどの物差しで量られたかのほうが、後の世には分かりにくい――というのは、この物語がずっと扱ってきた話でもあります。
なお、台風のことを「野分」と呼ぶのは平安の頃からの言い方で、この時代にも使われていました。二百十日といった暦の上の目安が農事と結びついて広まるのは、もう少し後のことと言われています。




