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受け取る側

野分から九日目。行商の甚兵衛が、泥だらけの草鞋で戻ってきます。


前回、藤丸は自分の書いた紙が写され、岡豊へ上がっていくのを見送りました。誰が読むかも、読んだ者がどう使うかも分からない。その分からなさが、そのまま怖さでした。


甚兵衛の懐からは、いつものように一通の文が出てきます。書かれたのは、野分の来る前。書いた者は、こちらの畔が切れたことも、稲が倒れたことも、まだ知りません。

 甚兵衛じんべえが久武の屋敷の門をくぐったのは、野分のわきから九日目の昼過ぎだった。


 草鞋わらじが泥を吸って、二回りほど大きく見える。すそは膝の上まで跳ねが上がり、乾いた泥が白く粉を吹いていた。


「遅うなりましてございます」


 開口一番が、それだった。


「川が、いけませなんだ。渡しが二日、止まりましてございます。水が引きましても、船を出す者が首を振りますでな。流れの底が変わっておるかもしれぬと、そう申しまして」


「二日の道が、幾日になりました」


「五日に」


 指を折るでもなく、すぐに答えが出た。この男の商いは、日数が銭に化けるところで立っている。


 おさきが水を運んできて、足元にたらいを置いた。父と娘は二言三言かわしただけだった。甚兵衛は湯を使いに立ち、お咲は盥を下げがてら、藤丸ふじまるのところへ来た。


「藤丸さま。此度こたびは、十二日でございました」


「東回りで、十二日か」


「はい。書付かきつけに、そのように」


 春に七日だった往復が、夏に十日になり、この度は十二日になった。


 藤丸は、その数を二つに割った。十日までの延びは、山田やまだの御領分の改め場で待たされる分だ。そこから先の二日は、水である。同じ「延びた」でも、出所が違う。


 去年の書付なら、十二日という数だけが残っただろう。日数の横に道筋の一列を増やしてもらったおかげで、いま、この数は二つに割れる。


「お咲。此度の分には、水で止まった日も、書き足しておいてくれるか」


「川止めの日数を、でございますか」


「そうだ。改めで待った分と、水で待った分は、別のものだ。混ぜると、どちらも分からなくなる」


 お咲は、いつものように少し考えてから頷いた。


「では、列を、もう一つ」


「増えるな」


「増えますが」お咲は盥を持ち直した。「増えて困ったことは、まだございません」


*  *  *


 文は、湯を使い終えた甚兵衛の懐から出てきた。荷からではなく、懐から。この文だけは、いつもそうだ。


 油紙あぶらがみは、外側が少し波打っていた。指の腹で押すと、湿り気はない。


「濡らしはしませなんだか」


「川止めの間は、宿のはりに吊るしておきましてございます」


 甚兵衛は、なんでもないことのように言った。


「土間に置きますと、下から来ますでな」


 湿りは下から来る。焼き枯らしの魚も、椎茸しいたけのほだ木も、蔵のますも、みな同じところで勝ち負けが分かれる。


「甚兵衛。それは、誰に教わった」


「はて」甚兵衛は首をひねった。「荷が、紙と布でございますでな。湿らせては、売り物になりませぬ」


 四十年、紙と布を濡らさぬように運んできた癖が、そのまま文にも効いている。この男は、文の運び方を誰にも教わらずに済んだ。


「濡らしたことは」


「一度」甚兵衛は、指を一本立てた。「若い時分に、紙を一荷ひとに。それきりでございます」


 しくじりも答えのうちだ。藤丸は、それを口には出さなかった。


*  *  *


 開いたのは、その夜だった。


 急いで読んでも、返事は明日にしか書けない。それに、この文は、明るいうちに読むと、なぜか半分しか入ってこない気がした。


 文机ふづくえあかりを寄せ、油紙を解いた。


 一行目に、目が止まった。


 ――お尋ねの心持ちにございますが、それがし、すでに受け取る側におりましたゆえ、お答えできまする。


 藤丸は、そこで一度、灯りのしんを起こした。


 問うたのは、こちらだ。返事の返らぬ相手に宛てて物を仕舞うのは妙な心持ちだった、あなた様はいかが思われるか、と。妙でございました、と返ってくるものと思っていた。すでに受け取る側におりました、とは、思っていなかった。


 文は続く。


 ――寺のちょうを四年預かりましたうち、前の帳場ちょうばの方の帳を幾たびもさかのぼりましてございます。その帳の隅に、小さな控えが幾つか書いてございました。幾年かに一度、納められたたわらを寺の枡で量り直し、そのかさを控えたものにございます。


 ――誰に頼まれた仕事でもございませぬ。書いたところで、その年の帳には、何の役にも立ちませぬ。あの方の在職のうち、あの控えを読んだ者は、おそらく一人もおりませなんだ。


 ――読んだのは、この春の、それがしにございます。


 藤丸は、文から目を上げた。庭で、虫が鳴いている。野分に叩かれて途切れていた声が、この二、三日で戻ってきていた。


 ――あの控えがございましたゆえ、寺の枡の内でなら量が比べられると分かりましてございます。分かりましたゆえ、あなた様の文に返す答えを、一つ持てましてございます。会うたこともない方が、返事の返らぬ先へ向けて、帳の隅に紙一枚ぶんの物を仕舞うておいてくださった。それを、それがしは受け取っておりました。


 ――仕舞う側は、妙な心持ちにございましょう。なれど、受け取る側は、妙とは思いませぬ。ただ、助かるのでございます。そして、助かったことにも、しばらく気づきませぬ。


 藤丸は、そこまで読んで、文を膝に置いた。


 先日、文吏ぶんりの部屋で見た二枚の紙のことを、考えていた。


 同じ字で、同じ行が、二枚。一枚は父の束に戻り、抜かれて、岡豊おこうへ上がる。


 怖いのは、読まれることではない。読んだ者が、紙だけを見るとは限らないことだ。


 数の並んだ紙は、その数がどこから出たかを訊きたくさせる。訊けば、書いた者に行き着く。行き着いた先にいるのが元服もせぬ子だと知れたとき、読んだ者が何を思うかは、こちらでは決められない。重宝がるかもしれぬ。久武の家はせがれにまでこんな物を書かせているのか、と数え直すかもしれぬ。


 紙は、渡した先で誰の物にでもなる。追えぬのは、書いた者だけだ。分からないことが、あのときは、そのまま怖さだった。


 残しておけば、いつか誰かの役に立つ。それは、はじめから知っている。知っているから、ちょうじ、写しを取り、包みを高い棚へ上げてきた。


 だが、その先を見たことは、一度もなかった。


 控えを書いた者の名を、藤丸は知らない。おそらく佐吉も知らない。その名も知らぬ者が、幾年か前、その年の役には立たぬ数を、帳の隅に書いた。書いたきり、寺を去った。幾年か経って、一人の子がその隅を読み、助かった。助かった子が、いま、こちらへ文を寄越している。


(名も知らぬ者の紙が、名も知らぬ者を、たしかに助けている)


 怖さが消えたわけではない。ただ、怖さの隣に、置ける物が一つできた。


*  *  *


 文は、そこから先が報せだった。


 ――仰せの枡、寺にも一つ、こしらえましてございます。


 藤丸は、膝の上で文を持ち直した。


 ――ただ、こしらえますまでに、一つ、手がかかりましてございます。寺の枡は、それがしの物ではございませぬ。蔵の物を一つ、二度と量らぬ物にしてしまうのは、それがしの一存では決められぬことにございました。


 ――ゆえに、御住職に願い出ましてございます。あなた様より教わりました、と申し添えて。


 藤丸は、そこで、短く息を吐いた。


 削ったのだ。あの一節を。


 父に願い出て、許された。そう書きかけて、朝の目で読み直したときに落とした。家の内で誰が何を決められるかというのは、それだけで一つの絵図になる。文は歩く。歩く物は落ちる。だから畳み込んだ。


 その判断が間違っていたとは、いまも思わない。だが。


(削ったところが、向こうでは、いちばん手のかかるところだった)


 やり方は渡した。物と場所は渡さなかった。渡さなかったもののうちに、渡すべきものが一つ混じっていたのだ。向こうは黙って乗り越え、そのことを、こうして報せてきている。


 ――御住職より、問われましてございます。その枡は、誰にも礼を言われぬぞ、それでもやるか、と。


 ――やります、とお答え申しました。


 簡単に書いてある。だが、この一行の前に、佐吉さきちはしばらく黙ったのではないか、と藤丸は思った。誰にも礼を言われぬと承知で頷くのは、重い。


 いや、と思い直した。重いと決めているのは、こちらだ。四年、寺の帳を預かってきた者には、礼を言われぬ仕事など、はじめから当たり前だったのかもしれない。


*  *  *


 文は、あと数行だった。


 ――古き枡を洗い、日に干し、いまの枡にて三度量り合わせ、三度とも過不足なくございました。布に包み、麻紐あさひもにてくくり、蔵の高き棚に上げましてございます。雨漏りの跡のない側、戸口より遠き側に。


 湿りは下から来る。戸口からも来る。この一行を書いた者は、文には書かれていない理由まで、自分で当てている。


 その次だった。


 ――木札には、かように記しましてございます。


 ――天文十七年夏。寺の枡と量り合わせ済み。量るべからず。擦るべからず。


 藤丸は、その二行を、二度読んだ。


 立ち上がって行灯あんどんを持ち、廊下へ出た。夜の蔵まで行くつもりだった。三歩ほどで、足が止まった。


 行かなくても、分かっている。


 ――天文十七年夏。量るべからず。擦るべからず。


 自分が墨を入れた札の文字は、頭の中にある。


 藤丸は、廊下に立ったまま、灯りの輪の中の板目を見ていた。


 札に何と書いたかは、文に書かなかった。書かないと決めて、決めた通りに削った。それなのに、同じ言葉が向こうの木札に彫られている。


 なぜだろう、と考えた。


 答えは、探すまでもなかった。


 札は、飾りではない。何十年か先に蔵を開けた誰かに、この包みを解くなと伝えるための、それだけの物だ。伝えるべきことは、三つしかない。いつのものか。何と量り合わせたか。使ってはならぬこと。それ以外は、書いても邪魔になるだけだ。


 三つのことを、木札一枚に納めようとすれば、誰が書いても、似た言葉になる。


(言葉を渡したのではないのだ)


 渡したのは、やり方のほうだった。枡を洗い、量り合わせ、包んで、高い所へ上げる。その順番だけを紙に写して送った。順番を受け取った者が、その通りに手を動かすと、最後に木札がる。要ったところで筆を持てば、書くことは決まってしまう。


 やり方を渡せば、言葉は、後からついてくる。


 藤丸は、部屋に戻って座り直した。


 兄の言葉が、返ってきた。


 名は消せる。だが手つきは消えぬ。


 あのときは、怖い話として聞いた。名を消して村へ流したところで、やり方の癖から自分だと割れる。現に兄は割った。


 同じことが、いま、別の顔をして返ってきている。やり方を送っただけで、教えてもいない一行が、二日の道の先で、勝手に立ち上がった。


(兄上の言うたことは、外れていない)


 外れてはいない。ただ、手つきが残るというのは、足がつくということでもあり、送った先で物が育つということでもある。どちらか片方だけを選ぶことは、たぶん、できない。


 ――同じことをすれば、同じ言葉になるものかと、可笑おかしゅうございました。


 文の、最後の一行だった。問いは、なかった。


 読み終えてから、藤丸は、この文のどこにも風の話がないことに気づいた。野分は、これが書かれた後に来たのだ。書いた者は、こちらのあぜが十二枚切れたことも、稲が倒れたことも、まだ知らない。


*  *  *


 翌朝、藤丸は蔵へ行った。


 朝の蔵は暗い。戸を開け放っても、光は土間の途中までしか入らない。踏み台を借りて、高い棚を見上げた。


 布に包まれ、麻紐で括られた包みが、板の上に載っている。夏に上げてから、少しも動いていない。


 これを解く者に、自分は会わない。それは、仕舞ったときから分かっていた。


 考えずに済ませていたのは、その先だ。解いた者は、たぶん、この結び目を誰が結んだかを考えない。考えないまま、助かる。助かったことにも、しばらく気づかない。それでいいのだと、二日の道の先にいる者が、書いてよこした。


 藤丸は、踏み台を下りた。


 先日、文吏の部屋で見た二枚の紙は、片方がもう岡豊のどこかにあるはずだった。読む顔は、やはり分からない。


 分からないままでいい、とまでは、まだ思えなかった。ただ、読む顔が、どこかにあるということだけは、もう疑っていなかった。


作中に「渡しが二日、止まりましてございます」というくだりがあります。


橋の少ない時代、大きな川を越えるには渡し船に頼るほかありませんでした。増水すれば当然、船は出ません。水が引いても船頭が首を振る、という書き方をしましたが、これは流れの底の形が変わっている恐れがあるためです。浅瀬と深みの位置が動いていると、いつもの棹の突き方が通用しません。


近世になると東海道の大井川などで「川留め」の日数が旅の大きな障害として記録に残りますが、戦国期の土佐の渡しがどれだけの日数止まったかを示す記録は、手前の調べた限りでは見当たりませんでした。作中の「二日」は、増水の規模から無理のない範囲で置いた数字です。


もう一つ、文を包んでいる油紙について。紙に油を引いて水を弾かせる工夫は古くからあり、荏胡麻油えごまあぶらを用いたものが使われていたと言われています。桐油を引いた「桐油紙とうゆがみ」が広く出回るのはもう少し後の時代のようです。


なお、甚兵衛が文を土間に置かず梁に吊るしたのは、湿気が下から上がってくるためです。作中で藤丸が椎茸のほだ木や蔵の枡を思い出しているのは、そのためでした。

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