写された紙
前回、藤丸は半日かけて村の畔を数え、その紙を父の束の上に一枚置いてもらいました。
今回は、その紙が写される日の話です。
書いた紙は、書いた者のところに留まってはくれません。写され、束に混じり、どこかへ運ばれていきます。運ばれた先に誰の顔があるのかを、藤丸はまだ考えていませんでした。
朝の霧がまだ庭の低いところに残っているうちに、藤丸は文吏の部屋へ向かった。
部屋というほどのものではない。書院の北側の、日の差さない板の間である。冬は寒かろうと思うが、年配の文吏は、日の差す部屋では墨が乾きすぎて具合が悪いのだと言った。紙にも都合があるらしい。
文吏は、すでに座っていた。膝の前に村々の書き付けの束があり、その一番上に、昨夜藤丸が差し出した紙が載っている。
「おはようございます」
「これは、藤丸さま」
文吏は膝を正した。皺の寄った目元が、少しだけ動く。
「殿さまより、写せと仰せつかっております」
「見ていても、よいか」
「お邪魔にはなりませぬ」
藤丸は、少し離れて座った。
文吏の手は速くなかった。一行を読み、目を紙から離さずに筆を下ろす。書き写すというより、写しながら読んでいるように見えた。落ち口の広い狭い、溝の詰まりの有無。藤丸が半日歩いて並べた行が、別の手で、別の紙の上にもう一度並んでいく。
同じことが書かれているのに、自分の字でないというだけで、他人の考えを読んでいるような気がした。
「二枚、写しまする」
文吏が、顔を上げずに言った。
「二枚」
「一枚は、殿さまの束へ戻します。もう一枚は、こちらの控えに」
藤丸は、文吏の手元の元の紙に目をやった。行の脇に、小さく一行だけ添えてある。一晩、一村、二十三枚のみ。次の野分でも数える――自分に釘を刺すつもりで書いた断りである。
「一つ、頼んでもよいか」
「なんなりと」
「脇の小さい行も、写してほしい。本の行だけでも、用は足りるであろうが」
文吏の筆が、止まった。
「これは、断りにございますな」
「はい」
「断りは、たいてい落ちまする」文吏は、初めて顔を上げた。「急いで写す者は、まず脇を落とします。次に、下へ外した行を落とします。列の揃うておるほうが、写しやすうございますから」
藤丸は、下に外した三行を見た。合わないものを混ぜまいとして外した三行である。写す手から見れば、あれは邪魔な三行だった。
「……では、なおのこと」
「承知しました。控えのほうは、脇も下も、そのまま写しまする」
「戻すほうは」
「戻すほうも、同じに写します。……そのあとどうなるかは、それがしの手を離れますが」
「控えは、どこへ」
「この部屋の箱に。……戻した分がどこへ参りましても、控えは残りますゆえ」
藤丸は、その言い方に引っかかった。
どこへ参りましても。
訊こうとして、口を開きかけたとき、廊下に足音がした。
「精が出るのう」
親直だった。
もう出かける支度をしている。藤丸に目をやって、それから文吏の手元に目を落とし、そのまま近づいてきた。
「これは、誰の字じゃ」
「写しは、それがしにございます」
「そちらではない。下じゃ」
親直は、文吏の脇に置かれた元の紙を指した。文吏が何か言う前に、藤丸が答えた。
「私にございます」
「ほう」
親直は、断りもなく紙を取り上げた。文吏が半分腰を浮かせたが、親直は片手でそれを制し、立ったまま目を走らせた。
二度、走らせた。父と同じだった。
「切れた畔が十二。切れなんだのが十一。……下の三行は」
「合わなかったものにございます」
「合わぬものを、下に外したか」
親直は、その三行のところで指を止めた。父も、同じところで止まった。
兄弟だ、と藤丸は思った。父の子だ。
「藤丸。これは、どこへ行く紙じゃ」
「父上の束に」
「その束は、どこへ行く」
口を開きかけて、止まった。
久武で止まる紙ではない。それは、昨夜、紙を差し出したときから分かっていたはずのことだった。分かっていて、確かめなかった。父が「使える」と言った、あの一言で、足が止まったのだ。
「……存じませぬ」
「存じませぬ、か」
「上がる先があることは、分かっておりました。どこまで上がるかを、訊いておりませぬ」
「訊かなんだのは、なぜじゃ」
藤丸は、答えられなかった。嬉しかったからだ、とは言えなかった。
親直は、紙を文吏の膝の前に戻した。
「村々が申してくる切れた数はな、年貢からいくら引いてくれという願いじゃ。願いは、聞き届ける者のところへ上がる。久武の家で止まる話ではない」
「岡豊へ、上がるのですか」
「上がる。全部ではない。父上が抜き出した分だけがな。……そして、抜き出した分の中に、いま、お前の紙が挟まっておる」
背筋の、どこか一本が、冷たくなった。
遠いところの話だと思っていた。上がると言っても、父の手の先で幾人かが読むだけだと。違う。ここは狭い国だ。狭い国の紙は、驚くほど短い道で、いちばん高いところまで届く。
親直は、しゃがんで、藤丸と目の高さを合わせた。こういうことを、この兄はする。
「お前はこれまで、名を消して物を外へ出しておった。焼き枯らしも、条を分けるやり方も、村へ出るころには誰の知恵か分からんようになっておった。よう出来ておったわ」
褒めているようには聞こえなかった。
「だが、これは逆じゃ。名を書いて、家の外へ上がる束の中へ、自分から入れた」
「名は、書いておりませぬ」
「紙に書かんでも、束の出所は久武じゃ。久武の誰が歩いて数えたのか、訊けば分かる。訊く者は、訊く」
親直は、立ち上がった。
「一つだけ、考えておけ」
藤丸は、兄を見上げた。
「父上がこれを、承知でなさっておられるのか。承知でないのか。――どちらだと思う」
親直は、それだけ言って戸口へ向かった。草鞋の紐を締めながら、思い出したように振り返る。
「そういえば藤丸。近ごろ村では、指を折って物を数える者が増えたそうじゃな」
藤丸は、答えなかった。
兄も、それ以上は言わなかった。言わずに、背を向けた。
足音が遠ざかっていく。藤丸は、その背を見ていた。
この夏、名を伏せて村へ出した知恵を、この兄は手つきだけで見破った。名は消せるが手つきは消えぬ、と言われた。あのときは、消えぬのは自分の手つきのことだと思っていた。
違う。人に渡した手つきも、消えない。
指を折って数える者が村に増えれば、その数え方はいずれ村の外へ出る。出た先で誰かが、こういう数え方をするのはどこの村だと訊く。訊かれた者は、村の名を言う。村の名の先には、この屋敷がある。
配ったものが、道になっていた。道は、こちらへも通じている。
兄が半分しか言わずに出て行ったのは、残りの半分は言うまでもないと思われたからだろう。
文吏は、何も聞かなかったような顔で、筆を動かしていた。二枚目に入っている。
* * *
その日、藤丸は稽古にも身が入らなかった。
親信に「今日は的が遠いのう」と笑われて、初めて自分が的を見ていなかったことに気づいた。
考えていたのは、束のことだった。
自分が書いたのは、なぜ切れたかという話だ。年貢を一升も増やさない紙だと、書いた本人が承知していた。父もそれを承知で受け取った。承知のうえで、束の上に重ねた。
あのとき藤丸は、それを、父が自分の仕事を認めたのだと受け取った。
いまは、違うものが見えている。
束は、動く。村から久武へ、久武から岡豊へ。父が抜き出した分だけが上がると、兄は言った。ならば父は、上げる紙と上げぬ紙を選っている。選っている手の上に、自分の紙を、自分から置いた。
(前の世では、一度どこかに書かれた名は、誰にでも探せた)
誰が探すのか、その仕組みは思い出せない。思い出せないが、探せたことだけは覚えていた。この世の紙は、そこまでは歩かない。歩かないが、歩く先が近いぶん、行った先には必ず、それを読む顔がある。
文は歩く、と兄は前に言った。あれは、人に持たせて送る文の話だと思っていた。
帖から写した紙も、歩くのだった。
* * *
日が落ちてから、藤丸は父の間の前に座った。
「入れ」
昌源は、燭台の下で、また束を前にしていた。昨夜より、幾らか薄くなっている。抜いた分があるのだろう。
「父上。お尋ねしたきことがございます」
「申せ」
「昨日お渡しした紙は、岡豊へ上がりまするか」
昌源の手が、束の上で止まった。
顔は上げなかった。
「上げる」
藤丸は、膝の上で指を握った。
「……父上は、それを承知で、お受け取りになりましたか」
「受け取る前から承知じゃ」
あっさりとしたものだった。
「わしが村々の数を集めておるのを、お前は昨日、廊下から見ておったな。あれは引きの話じゃ。引きの話は、こちらで決められぬ。決めるのは御屋形様のところじゃ。だから上げる」
「私の紙は、引きの役には立ちませぬ」
「立たぬ」昌源は、そこで初めて目を上げた。「立たぬから、上げる」
藤丸は、父の顔を見た。
「村が申してくる数だけを上げれば、それは願いじゃ。願いばかりを上げる家は、願う家として覚えられる。……そこへ、願いではない紙が一枚混じっておるとどうなる」
「……願いを、確かめた紙になりまする」
「うむ」
昌源は、束の中ほどに指を入れ、藤丸の紙の写しを、少しだけ引き出して見せた。文吏の字だった。
「わしが上げるのは、これじゃ。お前の字ではない。文吏の手で写した、久武の帳の一枚じゃ。誰が歩いたかは、書いておらぬ」
藤丸は、その紙を見た。
自分が書いた行が、そこに並んでいる。並んでいるが、自分の字ではない。
「では、私の名は――」
「訊く者は、訊く」
昌源は、紙を戻した。
兄と同じ言葉だった。
「隠しはせぬ。隠せば、隠したことのほうが値になる。訊かれれば申す。三男が村を歩いて数えた、と。それだけじゃ」
「それで、よろしいのですか」
「よくはない」
昌源は、束を揃えるように、両の掌で縁を叩いた。
「お前の名が、家の外の、顔も知らぬ者の耳に入る。それは、良いことばかりではない。……だが藤丸、名を出さずに済ませる道は、一つしかない。誰の役にも立たぬ紙を書いて、自分の箱に仕舞うておくことじゃ」
燭の火が、揺れた。
「お前は、それをせなんだ。役に立たぬと承知の紙を、持ってきた」
「……はい」
「なら、もう、始まっておる」
昌源は、それきり束に目を戻した。
「下がってよい。……ああ、藤丸」
「はい」
「来年も歩くと申したな。歩け。だが、来年は、歩く前にわしに申せ」
藤丸は、頭を下げた。
廊下に出てから、いまのは許しなのか、縄なのかと考えた。
どちらでもある、という気がした。
* * *
自室へ戻る途中、文吏の部屋の前を通った。
灯りが、まだついていた。中を覗くと、文吏は帰り支度をしているところで、板の間の上に、写した二枚が並べて置いてあった。
同じ字で、同じ行が、二枚。
一枚は、明日、父の束に戻り、抜かれて、岡豊へ上がる。誰が読むかは分からない。読んだ者が、それをどう使うかも分からない。
もう一枚は、この部屋の箱に入って、動かない。
藤丸は、しばらくその二枚を見ていた。
同じ紙が、明日から、まったく違う一生を送る。
自分が書いたのは、たった一枚だった。歩き出したのは、自分の手を離れてからだった。
今回は「控え」の話が出てまいりました。
中世の武家や寺社では、文書を出すときに手元へ写しを残す習慣が広く見られたと言われています。正式に相手へ渡した文書を正文、手元に残した写しを案文などと呼び分けた例が知られており、いま各地の古文書として残っているものの中にも、渡したはずの正文ではなく、出した側の家に残った案文のほうだった、という例が少なくありません。
渡した紙は使われて姿を変え、失われもします。残るのは、動かなかったほうの紙です。
ただし、土佐のこの時期の在地の家がどこまで組織立てて控えを取っていたかを示す記録は、私の知る限り見当たりません。この話に出てくる文吏の箱は、そうした一般的な慣行から想像したものとお読みいただければ幸いです。
もう一つ。作中で藤丸が紙の脇に小さく書き添えた「一晩、一村、二十三枚のみ」のような、どこまでの話かという断り書きは、写される過程で最も落ちやすいものだったろうと思います。これは記録に残るというより、記録が残らないことのほうの話ですので、断定はできません。




