切れた畔
野分の四日後です。
前回、太助は「三日、四日で分かります」と言いました。藤丸はその四日を待って、田へ下ります。
そして帰り道に、田とは別のものを数えはじめます。
野分の三日目に、また雨が降った。
半日で上がったが、その半日のあいだ、藤丸は落ち着かなかった。水が引くのを待っているところへ、水を足された恰好である。四日目の朝、空が高く晴れたのを見て、藤丸は父の許しを得て村へ下りた。
道の枝は、あらかた片付いていた。
畔の上に、太助がいた。腰まで泥だった。田の中に入り、倒れた稲を三株ずつまとめて、藁で縛って起こしている。同じことを、若い衆が四人、離れたところでやっていた。
「太助」
「これは、藤丸様」
太助は腰を伸ばし、泥の手を腿で拭った。
「ちょうど、良いところにお出でなさいました。今日で、おおよそ分かりましてございます」
藤丸は、田を見渡した。
左の田は、まだらだった。起こして縛った株が、あちこちに島のように立っている。その間に、伏せたままの稲が残っていた。
「起こしているのは、拾える分か」
「へえ。水が引いて、日の当たったところは、まだ間に合います。穂を持ち上げてやって、乾かせば、実は入ったまま熟れましょう」
「では、伏せたままの分は」
太助は答えず、田の向こう端へ歩いていった。藤丸も畔を伝ってついていった。
田の隅、いちばん低いところに、まだ水が残っていた。泥水は引いたが、地面が濡れて黒い。そこに伏している稲を、太助が一株つまみ上げた。
穂が、白く毛羽立っていた。
「芽が、出ております」
藤丸は、顔を近づけた。粒の先から、細い白いものが、ひげのように伸びている。米になるはずだったものが、勝手に次の稲になろうとしていた。
「これは、もう」
「米にはなりませぬ。搗いても粉のようになりますし、飯に炊いても、粘りが出ませぬ。……食えぬことはございませんが、御年貢には出せません」
「どれほどだ」
太助は、倒れた側の田をひとわたり眺めてから、答えた。
「倒れましたうちの、三分の一ほどかと存じます。低いところに水が残りましたのが、いけませんでした」
藤丸は、帖を開いた。
――四日目。見。左の田、倒伏分のうちおよそ三分の一に穂の芽。残りは起こして縛り、拾えると太助言う。
書きながら、指が少し重かった。三分の一。数にすれば、それだけのことだ。だが、数にする前に、この田を春から見てきている。
* * *
「太助。右の田は、勝ったのか」
右の田は、立っていた。穂先を少し傾けたまま、日を受けている。
太助は、右の田をしばらく見てから、首を横に振った。
「まだ、何とも申せません」
「倒れなかった。芽も出ておらぬ。それでも、まだ言えぬのか」
「言えませんので」
太助は、右の田の縁にしゃがみ、穂を一つ、指の腹でしごいた。
「こちらは、はじめから丈が低うございました。丈が低いのは、そのぶん水を吸わなんだということでもございます。倒れなんだのは有り難いが、実の入りが薄いかもしれません。……刈って、量って、初めて分かります」
「では、左は。三分の一を失うても、残りが重ければ」
「そういうことも、ございます」
太助は立ち上がった。
「藤丸様。倒れた田が負けたと、決まったわけではございません。減ったのは確かでございますが、減ったうえでどちらが多いかは、枡に入れてみねば」
藤丸は、帖に書き足した。
――右の田、無事。ただし丈低きゆえ実の入り薄き恐れ、と太助。勝ち負けは刈りて量るまで分からず。
書き終えて、藤丸は、その一行を少し眺めた。
(四日で分かると思っていた。四日経って分かったのは、まだ分からぬということだけだ)
野分は、田を一枚倒し、そのうちの三分の一を潰した。それだけの力を振るっておきながら、答えだけは置いていかなかった。置いていったのは、秋まで待てということだけである。
* * *
帰り道、藤丸は足を止めた。
少し下手の田で、男衆が集まって、畔を直していた。
切れ口は、思ったより大きかった。畔が幅ひとつぶん、抉られてなくなっている。男衆は上の田から土を掻き寄せ、鍬で叩いて固め、その上に草を敷いていた。
「藤丸様。汚うございます、お足元を」
声をかけてきたのは、村の年寄りだった。藤丸は畔の乾いたところに立ったまま、訊いた。
「これを直すのに、何日かかる」
「この一つで、男が三人、半日ばかりで。……ただ、こういうところが、あちこちにございますので」
「幾つある」
「さて。あちこちで直しておりますが、幾つと数えたことは、ございませんな。……多い年でございます」
藤丸は、視線を上げた。
直している畔の、すぐ隣の田。そこの畔は、切れていなかった。
同じ夜、同じ風、同じ雨だった。水は同じだけ降ったはずだった。
それなのに、こちらは切れ、あちらは切れていない。
* * *
藤丸は、供の若党を呼んだ。
「源五郎。日の暮れるまで、村を歩く。付き合うてくれ」
「へえ。……どちらへ」
「畔を、見て回る」
源五郎は、少し怪訝な顔をしたが、何も訊かずに前に立った。訊けば答える。訊かねば、半日でも黙って歩いている男である。
藤丸が見たのは、二つだけだった。畔が切れているか、いないか。そして、その田の水の落ち口が、どうなっているか。
野分の前、藤丸は村の備えを四つに分けて帖に書いた。一、屋根。二、外の物。三、井戸。四、水の落ち口。誰も教えていないのに、どの家も同じ順で動いていた。書かれていない帖だ、と思った。そのとき、行の脇に書き添えた一行がある。
――この四つのうち、どれが最も効くのかは、村の誰も分けていない。
いま、そのうちの四つ目だけが、田に残って見えている。
歩いた。
切れた畔の田は、落ち口が狭かった。鍬を二度か三度入れただけの、浅い切り込みだ。あるいは、落ち口の先の溝が、草と泥で詰まっていた。掘ってはある。掘ってはあるが、水が抜けていく先までは見ていない。
切れていない畔の田は、落ち口が広かった。鍬の幅で三つ、四つ。しかも、その先の溝が、あらかじめ浚ってある。水が、行くべきところへ行けた田だった。
二つ、三つと数えるうちに、藤丸の足は速くなった。
だが、十を数えたあたりで、合わないものが出た。
落ち口を広く取ってあるのに、畔が切れている田が一枚あった。藤丸は、しばらくその畔の上に立っていた。
「源五郎。この田は、周りより低いか」
源五郎は、田の四方をひとわたり見てから答えた。
「低うございますな。三方から水の来るところでございます」
それだけ言って、また黙った。藤丸は、帖を開いて、その一枚を別の行に書いた。合わないものを、合うものの中に混ぜてはならない。
(この一枚を同じ列に混ぜれば、合っている十枚のほうまで疑わしくなる。外しておけば、合っているものは合っているままだ)
外したものは、もう一つあった。
村のはずれ、道より高いところに、田が二枚あった。畔は切れていない。だが落ち口を見ると、鍬を一度入れただけの、ごく浅いものだった。狭い。狭いのに、切れていない。
「源五郎。ここは、上から水が来ぬな」
「来ませんな。雨の日でも、この二枚は半日で乾きますで」
数の上でなら、この二枚は「落ち口が狭くて切れなかった田」になる。だが、切れなかったのは落ち口のせいではない。初めから、切れようのない田だ。
(さっきの一枚とは、違う。あれは筋の合わぬものだ。これは、そもそも勘定に入らぬものだ)
藤丸は、この二枚も下に別に書いた。
日が傾くころには、田の数は二十三になっていた。
源五郎は、少し離れた畔の端で、黙って待っていた。半日、二十三枚を、この男は一言も問わずに付いて回った。
(この男は、田の見方を知っている)
三方から水が来る、と言い当てたときの早さ。ああいう見方は、歩いているだけでは身につかない。どこかに自分の田を持っている者の目だ。
訊けば、答えるだろう。だが、藤丸は訊かなかった。
誰の田かは、一枚も書いていない。ここで訊けば、二十三枚のうちの一枚に名がつく。名のついた一枚は、あとの二十二枚と同じようには数えられなくなる。
(訊くなら、数え終えてからだ)
藤丸は、その数を並べて眺めた。
切れた畔、十二。うち、落ち口が狭いか、先が詰まっていたもの、十一。残る一つは、低いところに水の集まる田。
切れなかった畔、十一。うち、落ち口を広く取り、溝を浚ってあったもの、九。残る二つは、そもそも高いところにある田で、水が溜まりようがなかった。
効いている。四つ目は、効いている。
だが、と藤丸は思い直した。二十三枚だ。一つの村の、一晩ぶんだ。今年の野分は、南から吹いて東へ回った。次の年も同じ向きとは限らない。雨の量も違う。
(一年で答えの出ないものを、一晩で決めるわけにはいかない)
太助が、二枚の田を二年並べる。平六が、木に傷をつけて三夏待つ。同じことだった。急いで決めれば、決めた分だけ、間違いも一緒に残る。
藤丸は、帖の余白に書いた。
――当て推量。四つ目、効いていると見ゆ。ただし一晩、一村、二十三枚のみ。次の野分でも数える。
* * *
屋敷に戻ると、まだ父の間に灯りがあった。
藤丸は自室で、歩いてきたものを紙一枚に写し直した。田ごとに書けば長くなる。切れた畔の数、切れなかった畔の数、落ち口の広い狭い、溝の詰まりの有無。それだけを、縦に並べた。合わなかった三枚は、下に別に書いた。誰の田かは書かなかった。
書き終えてから、しばらく迷った。
父が集めているのは、切れた数だ。年貢からいくら引くかの話である。自分が持っているのは、なぜ切れたかの話で、それは今年の引きには、一銭の役にも立たない。
それでも、藤丸は紙を持って廊下に出た。
「入れ」
昌源は、書き付けの束を前にしていた。村々から届いた分だろう。藤丸は膝をつき、紙を差し出した。
「今日、村を歩いてまいりました。畔の切れたところと、切れなかったところを、二十三枚ぶん見ております。……父上が集めておられる数の、足しにはなりませぬが」
昌源は、黙って受け取った。
上から下まで、目を走らせる。二度、走らせた。それから、下に別書きした三行のところで、指が止まった。
「これは、なんじゃ」
「合わなかったものにございます。落ち口を広く取ってあるのに切れた田が一枚、高いところにあって初めから切れようのない田が二枚。同じ列に混ぜますと、数が嘘になりますので」
昌源は、その三行を、しばらく見ていた。
「藤丸」
「はい」
「切れた数は、村の者が申してくる。申してくるものを、わしは疑わぬ。疑うても確かめようがないからじゃ」
昌源は、束の中ほどを指で開いた。同じ村の書き付けらしかった。
「――ここには、十二とある」
藤丸は、息を呑んだ。自分が歩いて数えた数と、同じだった。
「合うておるな」
昌源は、藤丸の紙を、束の上に重ねた。
「使える」
それだけだった。今年の引きには使えない紙である。父もそれは承知している。承知したうえで、束の上に置いた。
「明日、文吏に写させよ。一枚では、どこかへ紛れる」
「はい」
「それと、藤丸」
立ちかけた藤丸に、昌源は、束に目を落としたまま言った。
「来年も、歩くのか」
「歩きます。一晩ぶんでは、何も申せませんので」
「うむ」
昌源は、それきり何も言わなかった。藤丸は頭を下げて、部屋を出た。
* * *
廊下は、もう暗かった。
藤丸は自室に戻り、文机の前に座った。今日書いた帖の頁を開く。二十三の田が、切れたものと切れなかったものに分かれて並んでいる。三枚だけ、下に外して書いてある。
この頁は、今年の年貢を一升も増やさない。潰れた三分の一を、一株も戻さない。
それでも、明日の朝、文吏の手で写されて、父の束の中に一枚入る。
村の男衆は、鍬を持ち、屋根に石を置き、落ち口を掘る。順番は、何十年もかけて体に入った。誰が始めたのかは、もう誰も知らない。
その順番の中に、これから一つ、数の裏づけを持った行が混じる。混じったところで、誰もそれを新しいとは思わないだろう。
藤丸は、筆を洗い、帖を閉じた。
今回、倒れた稲の穂から白いひげのようなものが伸びる場面がありました。
刈り取り前の穂が、雨や倒伏で濡れたまま日数が経つと、粒がそのまま発芽してしまうことがあります。現在の農学では「穂発芽」と呼ばれています。こうなった粒は搗いても砕けやすく、炊いても粘りが出ないため、米としての値打ちが大きく落ちます。
ただ、当時これを何と呼んでいたかは、はっきりしません。倒伏や長雨の害についてまとまった記述が見られるのは近世の農書からで、天文年間の土佐に、この現象を指す言葉が残っているわけではありません。作中で太助が病名のような言い方をせず、「芽が、出ております」とだけ言うのは、そのためです。
もう一点。畔が切れることと、その直しは、中世の村では田の持ち主だけの仕事ではなく、村の共同の仕事として扱われることが多かったと言われています。用水や畔をめぐる取り決めや争いの記録は各地に残っていますが、その多くは口頭の慣行で、紙に書かれずに済まされました。「幾つ切れたか」は屋敷へ上がっても、「なぜ切れたか」は誰も書かない――藤丸が今回歩いたのは、そういう隙間です。




