風の決めぬこと
前回、藤丸は野分の夜を屋敷の中で過ごし、田を見に行くことができませんでした。
今回はその翌朝の話です。明けた土地を歩いて、二枚の田がどうなったのかを見に行きます。あわせて、風が倒していったものの中に、損ではないものが混じっていないかどうかも。
明けた朝は、拍子抜けするほど晴れていた。
空は洗ったように青く、風は涼しかった。昨日までのぬるさが、どこにもない。庭に出ると、松の枝が二本折れて白砂の上に落ち、葉が一面に散っていた。
屋敷の中は、朝から慌ただしかった。
父の間の前を通ると、廊下に人が並んでいた。近在の村から来たらしい者が、順に呼ばれては下がっていく。昌源の声が、切れぎれに漏れた。
「――畔の切れた数を、先に申せ。家のことは、そのあとでよい」
藤丸は、足を止めなかった。今日は、あそこに用がない。
(父上は、村ごとの数を集めておられる)
昨夜のうちに何が壊れ、今年の収穫がどれだけ削られるか。それは、年貢の話であり、来年の兵糧の話でもある。いずれ自分が、同じことをする。それは分かっていた。今日でなくてよい、というだけだ。
昨夜、書けなかった一行があった。
* * *
村へ下りる道は、枝と葉で埋まっていた。源五郎が先に立って、それを蹴りのけながら歩いた。三十を幾つか過ぎた、口数の少ない若党である。訊けば答え、訊かねば黙って歩いている。
畔の上に、太助が立っていた。腰に鎌を差し、二枚の田を見下ろしている。藤丸が近づいても、しばらくそちらを向かなかった。
「太助」
「……お早うございます」
藤丸は、畔に並んで立った。
そして、息を呑んだ。
左の田の稲が、倒れていた。
一本や二本ではない。田の半ばから向こうが、まとめて同じ向きに伏している。根元から折れ曲がり、穂の先が泥水に浸かっていた。昨日まで、頭ひとつ高く、深緑に波打っていたあの稲だ。
右の田は、立っていた。
無傷ではない。穂先がいくらか傾き、葉は千切れている。だが、根は起きていた。丈が低かったぶん、風の掴むところが少なかったのだろう。
「太助の言うたとおりに、なったな」
「……当たってしもうては、面白うございませんな」
太助は、笑わなかった。
「言うたのはわしですが、当てにいったわけではございません。ああならんことを、いちばん願うておりました」
藤丸は、倒れた稲を見つめていた。
(青々と茂っていたほうが、良い出来だと思っていた)
思っていた、というより、疑いもしなかった。丈が高く、色が濃く、風に重たげに波打つ田。それを見て「勝ちそうだ」と口に出したのは、ほんのひと月前の自分だ。誰にそう教わったわけでもない。ただ、そういうものだと思っていた。
(――物差しを、持っていたつもりで、持っていなかった)
持っていたのは、絵だった。良い田とはこういう姿だ、という絵。絵は物差しではない。物差しは、枡のほうだ。
「太助。あの倒れた稲は、もう駄目か」
「それが、まだ分かりませんので」
太助は、泥に踏み込んで、倒れた稲を一株、そっと起こした。穂に手をやり、指の腹で軽くしごく。
「実は、入っております。半ばほどですが、入っております。このまま水が引いて、日が当たって、穂が乾けば、拾えるだけは拾えましょう。……ただ、水が残って、穂が浸かったままになりますと」
「腐るか」
「腐ります。それと、倒れたまま日が続くと、穂から芽の出ることがございます。そうなれば、もう米にはなりませぬ」
「では、いつ分かる」
「三日、四日。水の引き具合を見てからでございます」
藤丸は、帖を開いた。
――翌朝。見。左の田、田の半ば以降倒伏。穂、泥水に浸かる。右の田、立つ。穂先傾くのみ。
それから、行の脇に小書きした。
――倒れた稲、実は半ば入る。拾えるか否かは水の引き方次第。答え、三、四日後。
書きながら、藤丸は自分の手つきに気がついた。
昨夜は、この田を案じて眠れなかった。朝になるなり駆けてきて、倒れた稲を見て、息を呑んだ。それだけ慌てておいて、いま帖に書いているのは「答え、三、四日後」の一行だ。
――夜通し胸を騒がせたところで、答えが早く出るわけではない。
風は、勝ち負けを決めなかった。決まるのは、これからの三日か四日である。
* * *
帰りに、平六の山の下を通った。
沢筋の道が、途中でふさがっていた。杉が一本、根ごと倒れて、道の上に横たわっている。その向こうから、平六がのっそりと現れた。
「藤丸様。すまんことです、じきに退けますで」
「ほだ木は」
「あれは、無事でございます。日陰の深いほうへ寄せておりましたのが、こたびは効きました。表におったら、この倒れた枝の下敷きです」
平六は、倒れた杉に片足を掛けた。
「それより、こいつです。今年は、ずいぶん倒れました。あちこちで」
藤丸は、その白い根の裂け口を見た。
「平六殿。倒れた木は、どうする」
「薪にする者もおりますし、そのまま朽ちるに任せる者もおります」
二つきりか、と藤丸は思った。
焼くか、放るか。どちらも、倒れた木を片づけるものとして見ている。減った分をどう始末するかの話であって、増やす話ではない。
朝から見てきたのは、みな損だった。畔が切れ、稲が伏し、道がふさがった。損は、その日のうちに目に映る。だが、いま道に転がっているこの木は、来年の春に伏せ込めば、再来年の秋に出る。損に見えるものと元手に見えるものが、同じ一本なのだ。違うのは、いつの話をしているかだけである。
「――来年の伏せ込みに、使えるものはあるか」
平六が、口を半分開けたまま、藤丸を見た。
「……いま、でございますか」
「いま倒れている。来年になって集めようとしても、そのころには誰かが薪にしている」
平六は、しばらく黙っていた。それから、倒れた杉ではなく、その奥の斜面のほうへ顎をしゃくった。
「杉は、椎茸には向きませぬ。ですが、あちらに椎と楢も何本か倒れております。あれなら」
「あとで、見せてくれ」
「へえ」
歩き出してから、平六が後ろで言った。
「野分の明けた朝に、来年の木の話をなさる方は、初めてでございますな」
褒めた声ではなかった。呆れているのに近い。それでよかった、と藤丸は思った。呆れた者は、覚えている。
道を下りながら、藤丸は帖に一行だけ書いた。
――野分、山の木を倒す。倒木のうち椎・楢は、来年の元手になり得るか。
風は、田を一枚倒し、山の木を何本か倒した。同じ一晩の同じ風で、片方は損になり、片方は、まだ何とも言えない。
* * *
山を下りきったところで、道は一度、高みに出た。
ここからは、東の川筋が遠目に見渡せる。藤丸は足を止めた。
ふだん、この時季の川は、白い州ばかりが広く、水はその真ん中を細く流れている。子どもが石を投げて渡れるほどの幅だ。
その州が、消えていた。
茶色の水が、岸から岸まで一面を埋めていた。速い。流れているというより、押し出されているように見えた。時折、黒いものが浮いては沈む。木だった。根のついたままの木が、枝を跳ね上げながら、下流のほうへ運ばれていく。藁束らしいものも、いくつも流れていた。
「毎年のことでございます」
源五郎が、藤丸の隣で言った。咎める風でも、驚く風でもなかった。
「あれは、いつ引く」
「二日か三日で、水は下がります。ですが、下がったあとが厄介で。川筋が変わっておることがございます。去年まで田だったところが、砂になっておったり」
「――田が、砂に」
「へえ。そうなれば、もう戻りませぬ。近くの村では、代が替わるあいだに、田を三度取られた家があると聞きました」
藤丸は、返事をしなかった。
畔は、直せる。村の男衆が鍬を持てば、幾日かで元に戻る。倒れた稲も、水さえ引けば、拾えるだけは拾える。今朝から見てきたものは、どれも、直せる大きさの損だった。
あれは、違った。
川そのものを、どうにかするのだ。岸を固め、水を余らせる先を作り、流れの向きを決めてやる。それが要るということは、目の前の景色が言っている。だが、それを誰が、どれだけの人手と年月をかけてやるのかを考えると、頭の中が、すっと白くなった。
(前の世では、川は、灰色の壁の内側を流れていた)
両岸が固められ、水はそこから出なかった。あれが当たり前だと思って眺めていたが、あの壁は、勝手にできたものではない。誰かが決め、誰かが銭を出し、誰かが何十年もかけて積んだのだ。何人が要って、何年かかったのかは、見当もつかない。見当もつかないということだけが、はっきりと分かった。
畔を直すのに、村の男衆が幾日か。
あれを直すのに、――幾人と、幾年か。
同じ「直す」でも、その間には、数えきれないほどの段がある。段の数さえ分からないうちは、上ろうとしても足がかからない。
「藤丸様。日が傾きます」
「うむ」
藤丸は、もう一度だけ川を見てから、歩き出した。
帖は、開かなかった。
書くことがない、のではない。書けば、それは自分がいつか手をつける事柄の列に、一行として並ぶことになる。今日は、まだ並べたくなかった。
ただ、見た。見たことは、忘れない。
* * *
その夜、藤丸は文机の前に座り、昨夜の頁を開いた。
風の音の絶え間を数えた行が、並んでいる。五十、四十、三十。それから、八十、百。
数えたところで、何一つ変えられなかった。稲は倒れ、木は倒れた。この頁は、何の役にも立っていない。
だが、藤丸は、その頁を破らなかった。
村の者は、屋根に石を置き、水の落ち口を掘る。順番だけを、代々受け渡してきた。何十年ぶんの野分が教えた順番だ。教えた者は、もういない。
(あの順番は、誰かが数えたから残ったのではない)
数えなくても、体が覚えた。体が覚えたものは、そのぶん、間違いも一緒に覚える。混じった間違いを取り除くには、やはり、誰かが数えていなければならない。
今夜のこの頁は、まだ一晩ぶんだ。一晩ぶんでは、何も言えない。
――次に来たら、また数える。
筆を置いて、藤丸は雨戸を細く開けた。
風は、なかった。虫の声が、遠くで戻りはじめている。三日か四日、水が引くのを待つ。それまでは、何も分からない。
分からないまま、藤丸は雨戸を閉めた。
今回は、倒れた稲と倒れた木の話でした。
稲が風で倒れることを倒伏といいますが、厄介なのは倒れたその瞬間よりも、そのあとに続く数日のほうです。穂が水に浸かったまま日が続くと、穂についたままの籾が芽を出してしまうことがあります。今でも穂発芽と呼ばれる現象で、こうなると米としては使えません。太助が「三日、四日」と答えを先送りにしたのは、この間の水の引き具合で結果が変わってしまうからです。
もう一つ、椎茸のほだ木について。原木に使われるのは椎や楢といった広葉樹で、杉や檜のような針葉樹は向かないとされています。ただ、この時代に椎茸をどう育てていたのかを直接示す記録は残っておらず、栽培法をまとめた書物が現れるのは、ずっと後の時代のことです。作中の平六が知っていることは、書物からではなく、山で暮らす者が代々見てきたものの範囲、という想定で書いています。




