先へ渡すもの
前回、藤丸は蔵の棚に、使わぬ枡を一つ封じました。
今回は、そのことを東の寺へ書き送る話です。
天文十七年の夏。返事を書くというのは、書くこととおなじだけ、削ることでもあります。
一行目は、書けていた。
――塞がらぬ間は、物で塞ぐほかございませぬ。ゆえに、これから先の間を、一つだけ、先回りして塞いでまいりました。
蔵を出たときには、この先も、すらすらと続くつもりでいた。使わぬ枡を一つ、いまの枡と量り合わせ、封をして仕舞ったこと。使わぬのは、使えば擦り減るからだということ。書くべきことは、みな手の中にある。
なのに、筆が止まっている。
藤丸は、文机の上の紙を、蝉の声の中で眺めた。
止まっている理由は、考えるまでもなく、分かっていた。この一行目を、佐吉の側から読んでみればいい。
塞がらぬ間は、物で塞ぐほかない。だが、その物は、もうない。昔の俵は、どこにもない。つまりこの答えは、こう言っているのと同じだ――あなた様の間は、塞がりませぬ、と。
嘘は書いていない。先回りして塞いだのも、本当だ。だが、塞いだのは、まだ生まれてもいない誰かの間であって、佐吉の間ではない。問いには答えて、問うた者の手には何も残らない。そういう返事に、なっている。
藤丸は、筆を置いて、蔵で行われた量り合わせを、初めから思い返してみた。文吏が米を摺り切り、予備の枡へ移し、縁の下、指の腹ひとつ分足らず、と読み上げた。布に包み、麻紐で括り、札を結んで、高い棚へ上げた。
あの枡は、誰の思いつきだったか。
自分の、ではない。
佐吉の文が来なければ、枡の代替わりのことなど、文吏に尋ねもしなかった。塞がらぬ間は何で塞げばよいか、と問われなければ、蔵の棚に、あの包みはない。あの枡の出所は、東の寺の、あの問いだ。
(物にも、出所がある)
帖に書く数字と、同じことだった。出所の分かる数字は重い――佐吉なら、そう言うのだろう。ならば、書けばいい。あの枡が、あなた様の問いから生まれたのだと。
筆を取り直し、二行目から先を書いた。
――白状いたしますと、この枡は、それがしの思いつきではございませぬ。あなた様の問いを懐に入れて蔵へ参り、枡の代替わりの話を聞くうちに、手が勝手に動きましてございます。あの枡の出所は、あなた様の問いにございます。
白状いたします、を初めて使ってみた。借り物だが、出所は分かっている。
――さて、肝心のあなた様の間にございますが。昔の俵は、もうどこにもございませぬ。ゆえに、あなた様の間は、この手でも塞がりませぬ。それは、変わりませぬ。
正直に、そう書いた。書いてから、その先を続けた。
――なれど、寺の枡は、いま、ございます。いまの枡と量り合わせた予備を一つ、使わずに封じ、湿りの来ない高い所へ仕舞うておけば、後の世の帳場の方は、昔の嵩の前で、あなた様のように立ち止まらずに済みまする。あなた様の表は、後ろへ向けて入れた紙。この枡は、先へ向けて仕舞う物。後ろの間は諦め、先の間を、いまのうちに塞いでおくのだと存じます。
――ひとつ、申し添えておかねばならぬことがございます。それがしの量り合わせは、合いませなんだ。同じ拵えのはずの二つが、縁の下、指の腹ひとつ分ほど、足りませなんだ。
――もし、あなた様のほうも合わなんだときは、削って合わせようとなさいますな。削れば、削ったほうの嵩が変わりまする。合わぬまま封じ、合わぬだけの嵩を、札の裏に書き添えておかれませ。後の世の方は、その一行さえあれば、数を戻せまする。
ここは削らずに残す、と決めながら書いた。手順のうちで迷いの出るのは、ここだけだ。合わぬ物を前にすれば、人の手は必ず、合わせにかかる。
書き終えて、届く高さのことを考えていた。
(前の世では、国じゅうの量りの大元が、たった一つの物で決まっていた。誰にも使わせず、堅い蔵に仕舞われていた。何をどう決めてそこまで持って行ったのかは、思い出せない。ただ、あれは、一つの家が仕舞える物ではなかった)
こちらが仕舞えたのは、一つの蔵の、一つの枡だ。国どころか、久武の家の内でしか通じない。それでも、通じる範囲の内側では、同じことをしている。
仕舞った誰かの名は残らず、立ち止まらずに済んだことにも、誰も気づかない。先回りとは、そういう仕事らしかった。
文は、思いのほか長くなった。
読み返して、藤丸は、もう一つの仕事が残っていることに気づいた。書いた分だけ、削る仕事だ。
* * *
削る仕事は、翌る日の朝にした。
夜のうちに削ると、削り過ぎる。前の文で、それは身に染みていた。朝の目で読み直すと、残してよいものと、落ちては困るものの境目が、夜より素直に見えた。
落ちては困るものは、二つあった。
一つは、場所だ。蔵のどこの棚に仕舞ったか、札の表に何と記したか。それを知って得をするのは、佐吉ではない。文が誰の手に落ちても、屋敷の蔵の中身と在り処だけは、歩かせない。仕舞った、とだけ書けば、佐吉には足りる。
もう一つは、父の許しのくだりだった。願い出て、許された。それは本当のことだが、書けば、家の内のやり取りが文に乗る。誰が何を決められる家なのか、というのは、それだけで一つの絵図だ。ここも、仕舞った、の中に畳み込んだ。
削り終えた文を、もう一度読んだ。枡を量り合わせ、封じて、湿りの来ない高い所へ仕舞う。合わなんだときは、削らずに書き添える。残っているのは、やり方だけだった。誰が許し、どこに置き、札の表に何と記したかは、どこにもない。それでいて、佐吉が寺で同じことをするのに、欠けているものもない。
(やり方は渡す。物と場所は、渡さない)
帳場の作法と、同じ形をしていた。問われたことには答える。問われていないことは、書かない。麦の量り比べを文に書いたときと、同じ手つきだった。
* * *
清書は、昼までかかった。
最後に、末尾へ一行を足した。書くかどうか、少しだけ迷った一行だった。
――枡を仕舞うた日、それがしは、その枡の解かれる日を思いました。おそらく、それがしの目の黒いうちではございませぬ。あなた様が寺で仕舞われても、同じことと存じます。返事の返らぬ相手に宛てて物を仕舞うのは、妙な心持ちにございました。あなた様は、いかが思われますか。
問いで終える形に、また戻った。前の文は、問いのない文だった。今度の文は、答えの先に、問いが一つ付いた。往復というのは、どうやら、こういう足取りで進むものらしい。
乾いた紙を畳み、油紙に包んだ。下書きは、竈へ持って行き、焚き付けに混ぜた。朝餉の残り火が、削った行ごと呑んで、それきりだった。
* * *
甚兵衛が次の商いで東へ発つのは、三日の後だった。
庭先で荷を検めている丸い背中に、藤丸は包みを差し出した。甚兵衛は手を拭き、両手で受け取って、いつものように懐へ入れた。
「お預かりいたします。……道が、また少し伸びておるやもしれませぬが」
「構いません。急ぐ文ではありませんから」
「急がぬ文、にございますか」
甚兵衛は、懐の上から包みを軽く押さえた。
「長らくお運びしておりますが、急ぐ文は、だいたい軽うございます。急がぬ文ほど、こう、ずしりと参ります。……妙なものにございますな」
急がないから、書くことが増える。増えた分だけ、削っても、重い。藤丸は、そうかもしれません、とだけ答えた。懐の重さの中身が、削られた行の残りだということは、運ぶ者には知らせない話だった。
「では、行って参ります」
甚兵衛は荷を負い、門を出て行った。夏の道の照り返しの中で、丸い影は、いつもと同じ速さで小さくなった。あの足で二日、いや、いまは三日。山田の御領分の改め場で半日待たされ、名と在所を帳面に書かれ、それから安芸の山門をくぐる。
藤丸は、門の内から、それを見送った。
蔵の高い棚では、布に包まれた枡が、今日も何も量らずにいる。量るべからず、擦るべからず。あの枡は、これから先、一寸も動かない。動かないことが、あの枡の仕事だからだ。
それでいて、と藤丸は思った。
枡のやり方だけが紙に写り、油紙にくるまれ、商人の懐で、東へ歩いて行く。三日の後には海沿いの寺に着き、うまくすれば、向こうの蔵の高い棚に、同じ包みがもう一つ増える。
動かさぬはずの枡が、歩き出していた。
今回は、文を書いて、削って、託すだけの話でした。
書くほうより、削るほうが難しい。これはいつの時代も変わらないようです。藤丸が削ったのは二つ、蔵のどこに置いたかと、父に願い出て許されたという経緯でした。前者は物の在り処、後者は家の内で誰が何を決められるかという話で、どちらも文が途中で誰かの手に渡れば、そのまま使える材料になります。
中世の書状は、多くが人の手で運ばれました。運ぶのは商人であったり、僧であったり、旅の途中の知り合いであったりします。封をしても、途中で開かれることはありました。ですから、書き手の側があらかじめ削っておく、という作法が生まれます。
残したのは、やり方だけです。枡を量り合わせ、包んで、高い所へ上げる。そして――合わなかったときは、削って合わせようとしないこと。
ここが今回いちばん書きたかったところでした。合わない物を目の前にすると、人の手は必ず合わせにかかります。ですが基準になるはずの物を削ってしまえば、残す意味そのものが消えてしまう。合わないまま封じて、合わないぶんだけを書き添えておく。あとから遡って数を戻せるのは、そちらのほうです。




