動かぬ枡
前回、お咲の書付から「荷を持って歩けば道は一日ずつ伸びる」という理屈が出ました。
今回はその理屈が、甚兵衛の足で裏書きされるところから始まります。
天文十七年の夏。安芸の寺から、返事が届きます。
甚兵衛が戻ったのは、蝉の声が朝から重くなった日だった。
庭先で旅装を解きながら、甚兵衛は懐から油紙の包みを一つ、取り出した。
「佐吉様よりの、御返事にございます」
「早かったな」
「いえ、それが」
甚兵衛は、少し笑った。
「行きに三日、戻りに三日かかりましてございます。例の改め場で、行きに半日、戻りにまた半日。……お咲の紙の言う通りで、荷を持って歩きますと、道が一日ずつ、伸びまする」
歩いた足が、そのまま数になる。この間、帖に書き付けたばかりの行を、当の足が裏書きして戻ってきた。藤丸は礼を言い、包みを受け取った。指先に、いつもより少し厚い手応えがあった。
* * *
自室に入り、明るいうちに包みを解いた。
文は、二枚あった。一枚目は、時候の礼から始まって、すぐに本題に入っていた。
――あなた様のお尋ねに、お答え申し上げます。当寺の帳は、一冊にございます。帳場も一つ、枡も一つ。よって、帳と帳の間はない――と、お文を読み始めたときは、そう思うておりました。
思うておりました、と来た。藤丸は、行の先を目で追った。
――なれど、読み進むうち、それがしの手が勝手に、膝の脇の表へ伸びましてございます。前の帳場の方の書き方を、それがしの書き方に引き当てるための、あの表にございます。
――寺の帳は一冊にて、場所の継ぎ目はございませぬ。なれど、書く者が替わりまする。前の方が筆を置き、それがしが筆を取る。その代替わりが、間にございました。場所は同じでも、時が分かれておりました。前の方の帳を出て、それがしの帳に入る、その間に、紙はございませんでした。
――春に拵えましたあの表は、その間に入れた、一枚の紙にございました。あなた様が蔵と台所の間に入れなすった紙と、同じ形のものと存じます。そうとは知らず、入れておりました。
藤丸は、そこで一度、文から目を上げた。
蔵と台所の継ぎ目に紙を入れたとき、これは佐吉が代替わりの帳にやったことを、枡でやるだけだと思っていた。手本にしたつもりだった。だが、向こうから見れば、順が逆だったのだ。佐吉は表を、古い帳を読む道具として拵えた。それが間に入れた紙と同じ形をしていたと、こちらの文で初めて知った。
(同じ形の穴に、そうと知らず、同じ形の紙を入れていた)
場所の継ぎ目と、時の継ぎ目。蔵から台所へ渡る米と、前の書き手から次の書き手へ渡る帳。渡るものは違っても、渡り口で数が化けるのは同じで、そこに紙を一枚入れるのも、同じだった。教えた覚えはなく、教わった覚えもない。それなのに、海を隔てて、手だけが同じに動いている。
文は、二枚目に続いていた。筆の運びが、一枚目より、わずかに遅くなっているように見えた。
――なれど、一つ、白状せねばならぬことがございます。
また、白状か。藤丸は、少しだけ口元が緩んだ。この書き手は、都合の悪いことを書くとき、必ずこの言葉を先に立てる。
――あの表にも、埋められぬ間が、一つ残っておりまする。量にございます。前の帳場の書き方は、表で読み替えられまする。なれど、昔の一俵の嵩だけは、いかに紙を重ねても、埋まりませぬ。昔の俵は、もうどこにもないゆえにございます。
――間には、紙で塞がるものと、塞がらぬものがあるように存じます。塞がらぬ間は、何で塞げばよいのか。それがしには、まだ分かりませぬ。あなた様は、いかがお考えなさいますか。
文は、そこで終わっていた。
藤丸は、二枚の紙を膝に置いたまま、しばらく庭の蝉の声を聞いていた。
紙で塞がるものと、塞がらぬもの。書き方の違いは、表で読み替えられた。枡の違いは、量り合わせの紙で読み替えられた。だが、昔の一俵の嵩は、読み替えられない。同じ間なのに、なぜ、あれだけが埋まらないのか。
問いは、受け取った。だが、答えは、まだ手の中にない。
* * *
翌る日、藤丸は蔵の脇の帳場に、文吏を訪ねた。
尋ねたいことは、一つだった。
「蔵方の枡は、いつからあの枡なのですか」
文吏は、藤丸の顔を、少し珍しいものでも見るように見た。
「はて。……わたくしが帳場に入りましたときには、すでにあの枡にございました。その前は、存じませぬ。枡も道具にございますゆえ、縁が欠け、底が擦り減れば、新しいものに替わりまする」
「替わるとき、前の枡と嵩を合わせるのですか」
「合わせまする。前の枡で一杯、新しい枡で一杯、量り比べをいたします。……ただ」
文吏は、そこで少し考えた。
「合わせるのは、その時の前の枡と、でございます。前の前の枡が、どんな嵩であったかは、もう誰も。……擦り減った枡と合わせ、その枡がまた擦り減り、また合わせ。長い年月には、少しずつ、ずれてまいったやもしれませぬな。帳の上では、いつの世も、一枡は一枡にございますが」
帳の上では、一枡は一枡。だが、その一枡の中身は、代替わりのたびに、そっと形を変えてきたかもしれない。誰も欺かず、誰も盗まず、量り比べという正しい手を尽くしてなお、ずれは間を通り抜けてきた。
藤丸は、膝を進めた。
「替わったあとの、古いほうの枡は、どうなりました」
「割って焚き付けにいたします。まだ使えるものは、台所へ下げて、塩や味噌を掬うのに」
文吏は、何を訊かれているのか分からぬ、という顔をした。
「使わぬ道具を、使わぬまま置いておく蔵はございませぬ」
(一つも、残っていないのか)
嵩は、数ではない。数なら紙に書ける。嵩は、枡という物が、その身で覚えている。ならば、覚えている物のほうを一つ、擦り減らさずに残しておけばよい。そこは、考えるまでもないことだった。
考えるまでもないと思っていたから、蔵の枡を毎日見ていながら、残っているかどうかを、一度も訊かなかった。
(佐吉の言う通りだ。昔の嵩は、紙では埋まらない。埋めるための物のほうが、焚き付けになっていた)
昔へは、もう遡れない。それは、分かった。
藤丸は、帳場の板の間で、膝の上の手を見た。
――だが、今は、これから昔になる。
(いま当たり前に使っているこの枡も、年が経てば、昔の枡と呼ばれるようになる)
いつか、この蔵の枡も擦り減り、替わる。替わった枡がまた替わる。そのとき、後の世の帳場の者は、いまの自分と同じ場所に立つ。昔の一枡の嵩が分からぬ、と。そして、その者にとっての昔とは、この夏の、この蔵のことなのだ。
「予備の枡は、ありますか」
「ございます。同じ拵えのものが、二つほど」
「一つ、貸してください。……いえ、一つ、仕舞わせてください」
* * *
父の間で、藤丸は願いを述べた。予備の枡を一つ、いまの蔵方の枡と量り合わせて嵩を確かめたうえで、使わずに封をして、蔵の棚に残しておきたい。使わないのは、使えば擦り減って、嵩が変わるからだ。
昌源は、聞き終えてから、短く問うた。
「それは、当座の手か。仕舞いの手か」
「どちらでも、ございません」
藤丸は、少し考えてから、答えた。
「後の世の誰かの、当座の手にございます。いつか枡を揃え直す日が来たとき、昔の嵩がこれだと言える物が、一つでも残っていれば……その者は、わたしのように、間の前で立ち止まらずに済みます」
昌源は、しばらく黙っていた。それから、ふ、と息を吐いた。
「己の使わぬ道具を、まだ生まれてもおらぬ者のために仕舞うか。……よかろう。文吏に申しつけておく」
* * *
数日ののち、蔵の中で、量り合わせが行われた。
いま使っている蔵方の枡に、米が一杯。摺り切って、予備の枡へ、静かに移す。
移し終えて、二人とも、しばらく黙っていた。
米は、予備の枡の縁まで届かなかった。指の腹ひとつ分ほど、下だった。
「……同じ拵えのはずにございますが」
文吏が、困ったように言った。
「削りの手が、少し違うたのでございましょう。もう一度、量ってみますか」
「いえ」
藤丸は、枡の縁に指を当てた。同じ木で、同じ日に、同じ職人が拵えたはずの二つが、指の腹ひとつ分だけ違っている。
「このまま封じます。合っていないことを、合っていないまま、書いてください」
「……合わぬ物を、残すのでございますか」
「合わせようとすれば、どちらかを削ることになります。削れば、削ったほうの嵩が変わります」
文吏は、しばらく藤丸の手元を見ていた。それから、筆を執った。
予備の枡は、その場で布に包まれ、麻紐で括られた。文吏が木の札に、日付と用を書き付ける。
――天文十七年夏。蔵方の枡と量り合わせ。量るべからず、擦るべからず。
藤丸は、その札を裏返した。
「こちらに、もう一行。……蔵方の枡一杯を移して、縁の下、指の腹ひとつ分足らず、と」
「表には、書きませぬので」
「表は、触るなと伝えるためのものです。裏は、解いた者が読むためのものです」
札を紐に結び、蔵の奥の、湿りの来ない高い棚に上げた。焼き枯らしの魚を吊るす家の話を、藤丸はふと思い出した。仕舞い方の良し悪しは、あれもこれも、湿りで決まる。
「これで、ようございますか」
「はい。……あとは、誰も触らぬことです」
棚の上の包みは、もう何も量らない。何も量らないことで、この夏の一枡の嵩を、覚え続ける。それが解かれるのは、自分の目の黒いうちではないかもしれなかった。それでも、後の世の誰かが枡のずれの前で立ち止まったとき、あの棚に、紙で塞がらぬ間を塞ぐものが一つ、待っている。
蔵の戸を出ると、蝉の声が、また降ってきた。
佐吉への返事の、一行目だけは、もう決まっていた。
――塞がらぬ間は、物で塞ぐほかございませぬ。ゆえに、これから先の間を、一つだけ、先回りして塞いでまいりました。
枡の話が、しばらく続いております。
同じ枡を長く使えば、縁は欠け、底は擦り減ります。替えるときは前の枡と量り合わせる。真面目な手続きです。誰も嘘をついていません。それでも、その手続きを何代も繰り返すうちに、少しずつずれていく。
書き方の違いは、読み替えの紙を一枚挟めば通じます。ですが「一枡がどれほどの嵩か」は、紙に書けません。数は書けても、嵩は書けない。嵩を覚えているのは、枡という物のほうです。
ですから、物を残すしかない。
基準になる物を一つだけ、使わずに封じて残しておく――いまでは当たり前の考え方ですが、これを誰かが思いつき、誰かが実際に棚へ上げるまでには、ずいぶん長い時間がかかりました。
もう一つ、今回は「合わなかった」ままで封じています。同じ日に同じ職人が拵えた枡でも、指の腹ひとつ分は違う。それを削って揃えてしまえば、削ったほうの嵩が変わります。だから合わせない。合っていないことを、合っていないまま書き添えておく。
藤丸が去年たどり着いた「揃えられぬものは、揃ったことにせず書いておく」という作法が、今回は紙ではなく物の側に出ました。
棚に上げた包みは、これから何十年か、何も量りません。何も量らないことが、あの枡の仕事になります。
お読みいただき、ありがとうございました。




