お咲の紙
夏の岡豊、久武の屋敷。稽古場と縁側の一日です。
蝉の声の中で、弦音が鳴った。
矢は的の縁に当たり、弾かれて土に落ちた。当たりはしなかった。だが、届いた。
藤丸は、次の矢を取りながら、その一事を胸の内で確かめた。この間合いは、去年までは矢が届き切らず、手前の土に刺さっていた。今年は、外しても、的まで飛ぶ。袖が短くなったのと、同じことが起きている。伸びたのは、丈だけではないらしい。
「藤丸」
声に振り向くと、親信が立っていた。稽古場の向こうでは、若い衆が槍の素振りを続けている。その指図を一区切りつけて、こちらへ歩いてきたようだった。
「見ておったぞ。届くようになったな」
「届くだけです。当たりませぬ」
「届かねば、当たる当たらぬの話にもならぬ。まず届く。話はそれからよ」
親信は藤丸の弓を取り上げ、弦の張りを指で確かめてから、返してよこした。
「一歩、下がれ」
「は」
「届くようになった間合いで稽古を続けても、腕は今のままじゃ。届くか届かぬかの際まで下がる。稽古は、際でやるものよ」
藤丸は一歩下がり、矢をつがえた。放つ。矢は的の手前に落ちた。二本目も落ちた。三本目が、的の裾をかすった。
「それでよい」
親信は、腕を組んで頷いた。それから、ふと藤丸の袖口に目を留めた。
「その単衣、丈が合うておらぬな」
「体のほうが、勝手に伸びますので」
「よう食うておるか」
「骨ごと、食うております」
親信が、片方の眉を上げた。藤丸は、朝の膳の焼き干しの話をした。指ほどの川魚を頭から囓り、骨ごと噛んで呑むこと。食うた骨が、おのれの骨になるはずだということ。
親信は、声を立てて笑った。
「骨が、骨になるか。聞いたことのない理屈じゃ」
「まことかどうかは、まだ分かりませぬ」
口ではそう言った。骨が何からできるかは、疑っていない。分からないのは、この土地のほうだ。夏の川には小魚がいる。冬はどうか。ひと月のうち、幾日この膳に骨が載るのか。そこが埋まらねば、知っていても、何の役にも立たない。
「いや――笑うたが、あながち外れてもおるまいよ」
親信は笑いを収め、稽古場の若い衆のほうへ顎をやった。
「兵を見ておると、分かる。同じ年格好でも、育った村で体がまるで違う。海際の、魚をよう食う村の者は、骨が太い。山の痩せた村から来た者は、背丈はあっても、具足を着けると息が上がる。……人の体は、食うたものでできておる。それは、わしも戦で覚えた」
「具足とは、そんなに重いものですか」
「持ってみるか」
親信は稽古場の隅から、稽古用の胴を持ってきて、藤丸に渡した。受け取った途端、腕がずしりと沈んだ。両手で抱えて、ようやく支えられる重さだった。
「これに籠手と臑当が付き、槍を持ち、兵糧を背負う。それで一日歩いて、着いた先で槍を合わせる。……体はな、藤丸。武具のうちよ。刀や槍と同じ、日々手入れをするものじゃ」
藤丸は、胴を抱えたまま、その言葉を胸に留めた。
(体は、武具のうち)
ならば、膳も武具のうちだ。焼き干しの一本も、菜の汁も、具足や槍と同じ列に並ぶ。前の世の理屈が、兄の口から、戦場の言葉になって返ってきた。
「兄上は、下田の後も、稽古を緩めませぬな」
胴を返しながら問うと、親信は当たり前のような顔をした。
「戦は、こちらの支度が済むのを待ってはくれぬ。来るときは、向こうの都合で来る。……御館様の御下命が次にいつ下るか、わしは知らぬ。知らぬからこそ、いつ下ってもよいようにしておく。それだけよ」
親信は胴を隅へ戻すと、もう稽古場の中ほどへ歩き出していた。若い衆の一人の槍の穂先が、わずかに下がっているのを、遠目に見つけたらしい。
「穂先を上げよ。疲れは穂先に出るぞ」
その声を背中で聞きながら、藤丸は的の前に戻り、際の間合いから、もう一本、矢をつがえた。
* * *
稽古を終えて屋敷へ戻ると、夕方の縁側に、お咲が座っていた。
膝の上に、紙の束がある。畳んだ紙を開いては、指で行を追っている。藤丸が近づくと、お咲は顔を上げ、少し迷うような間を置いてから、口を開いた。
「藤丸様。……一つ、お目にかけたいものがございます。ただの数え違いかもしれませんが」
「見せてくれ」
お咲が差し出した紙には、品の名と日数が、幾列にも並んでいた。紙、乾物、海のもの。それぞれの横に、父の甚兵衛が発ってから戻るまでの日数が、便ごとに書き足されている。去年の夏、藤丸が土の上に木切れで引いてみせた、あの形のままだった。ただし行の数は、一年分、静かに積み上がっていた。
「続けていたのか。ずっと」
「はい。いつか藤丸様がお使いになる日が来たら、すぐお答えできるように、と……申し上げましたので」
お咲は、それだけ言うと、紙の東回りの列を指した。
「ようございますか。父の東への便は、去年まで、行って戻って七日ばかりで揃うております。それが、この春の便から八日、九日とかかるようになりました。そして、この度の便は――十日でございます」
「春から、延び始めた」
「はい。しかも、一度にではのうて、段々にです。春に一段、この度また一段。……荷の量は、いつもと変わりませぬ。父の足が遅うなったとも思えませぬ。数え違いかと、便の日付を三度確かめましたが、違うておりません。ただ、なぜ延びるのかが、わたくしには分かりませぬ」
藤丸は、紙の上の数字を、しばらく見ていた。
(分かる。こちらには、分かる)
帖の山田の筋が、頭の中で開いた。春頃より、番の者が増え、荷改めが念入りになった――それが一段目。帰り道には、名と在所を書き付ける帳面が新しくできていた――それが二段目。お咲の紙の、二つの段は、帖に書いた二つの行と、時期までぴたりと重なっていた。
改め場で待たされるのは、半日にも満たないだろう。だが、道には泊まりの区切りがある。半日遅れれば、その日のうちに次の泊まりへ届かない。泊まりが一つ増え、半日が、一日になる。改めが一つ増えるたび、日数は一日ずつ延びていく。お咲の紙の、段々の延びは、そういうことだ。
「お咲。これは、数え違いではない」
「では……」
「道中に、荷改めの念入りな場所ができているらしい。商人は皆、そこで待たされる。延びた分は、待たされた分だ。父御の身に障りがあるわけではない」
言えるのは、そこまでだった。その改め場がどこの領で、何を警戒してのことか――帖の中身までは、口にしない。お咲も、それ以上は問わなかった。ただ、得心のいった顔で、小さく息をついた。
「待たされた分、でございましたか。……日数だけ見ておりましたら、父が齢を取ったのかと、少し案じておりました」
「足は達者だ。数がそう言っている」
お咲が、ふっと笑った。それから、紙を畳もうとするのへ、藤丸は言い足した。
「頼みを、二つ重ねてもよいか。一つ、この書付は、これからも続けてくれ。二つ、これからは日数の横に、父御がどの道筋を通ったかも、一言書き添えてくれないか。東回りか、ほかの道か。それだけでいい」
「列を、一つ増やすのですね」
「そうだ。日数が延びたとき、どの道で延びたかが分かれば、この紙は、もっとよく物を言う」
お咲は、紙を胸に当てるようにして、頷いた。
「承知いたしました」
* * *
夜、藤丸は文机に向かい、帖の山田の筋を開いた。二行の下に、三行目を書き足す。
――夏。見(お咲の書付)。東回りの便、春より段々に延ぶ。七日が、十日。
書きながら、この一行がどこから来たかを考えた。上の二行も、この三行目も、出どころは同じ甚兵衛の足である。筋としては、新しくない。
だが、上の二行は、甚兵衛の口から出た話だった。口から出た話は、聞くたびに形が変わることがある。話す相手によっても変わる。三行目は、そうではない。歩いた足が、そのまま数になって、紙に載っている。同じ足から出ていても、これは別の量り方だった。だから、脇に「見」と書いた。
そして、行の脇に小さく。
――当て推量。延びは、改めに並ぶ分と、帳面に名を書く分か。半日の待ちが、泊まりを一つ増やす。
筆を置く前に、藤丸は今日一日を思い返した。
稽古場で、兄は言った。体は武具のうち、日々手入れをするものだと。
ならば、この帖もそうだ。一日で太る帖はない。お咲の紙も同じで、使う当てのないまま一年書き継がれて、今日ようやく一行になった。手入れとは、そういうことだろう。刀を研ぐ手も、弓を引く手も、日数を書き留める手も、やっていることは変わらない。
(貸したやり方が、利をつけて戻ってきた)
帖の中身は、今も自分一人のものだ。だが、帖のやり方は、渡した先で勝手に育つ。育ったものは、いつか、こちらの帖を太らせる。
墨が乾くのを待つ間、庭で夏の虫が、短く鳴いた。
お読みいただきありがとうございます。
兄の言う「武具」と、お咲の一枚の紙。どちらも、日々の小さな積み重ねの話でした。
次回もお付き合いいただければ幸いです。




