落ち水の魚
前回は安芸の寺の側の話でしたので、今回は岡豊へ戻ります。天文十七年、夏。
藤丸が太助の田で始めた「二枚並べて、変えるところを一つだけにする」試みは、麦で半分の答えが出たところでした。今年は同じ二枚で稲の番になります。
そしてこの回、藤丸は田とも山とも関わりのなさそうな話を、堀のほとりで聞くことになります。
夏の朝、袖を通した単衣が、去年より短くなっていた。
袖口から手首が覗き、裾を合わせると、膝の下が心もとない。布が縮んだのではない。洗い張りはお咲の仕事で、あの手が布を縮ませるはずがない。伸びたのは、こちらの体のほうだ。
帯の位置も、上がった。去年は帯を締めると腹のあたりで布が余ったのに、今年は余らない。胸の板も、腕も、去年より厚い。
(順調に、育っている)
藤丸は、袖から出た自分の手首を、しばらく眺めた。
前の体は、五十を過ぎていた。坂を上れば息が切れ、膝は雨の前に軋んだ。あの体で過ごした年月の記憶があるだけに、今の体の伸びようは、見ていて飽きない。畔の上を駆けても、息はすぐに戻る。夜はよく眠り、朝は勝手に目が覚める。体が、毎日どこかしら作り替えられているのが、分かる。
朝の膳には、麦の交じった飯と、菜の汁と、川魚の焼き干しが載っていた。指の長さほどの小魚を、藤丸は頭から囓る。骨ごと、噛み砕いて呑む。
(骨は、骨になる。肉は、肉になる)
どれほど効くものかは、知らない。ただ、この家の膳には、川の魚と、時折は山の鳥や兎の汁が載る。それを七年、骨ごと食い続けてきた体が、いま、目に見えて伸びている。効きの程が分からずとも、やっていることを変える気にはなれなかった。
焼き干しを二本たいらげて、藤丸は立ち上がった。今日は、太助の田へ行く日だった。一昨日、まとまった雨が降った。雨のあとの二枚の田は、見ておかなければならない。
* * *
畔の上に立つと、二枚の田は、どちらも青かった。
去年の秋から麦で競わせた、あの二枚だ。麦は右の田が五枡勝って、答えの半分が出た。いまは、その次。稲の番である。梅雨明けから伸びた稲は、もう藤丸の腰のあたりまで丈があり、風が渡ると、二枚まとめて一つの波になった。
「藤丸様。雨のあとを、見においでですな」
太助は、畔の際にしゃがんで、田の水面を指した。
「ようございますか。右の田は、もう水がだいぶ落ち着いております。一昨日の雨の分は、あらかた抜けました。左は、ほれ、まだ深い。畔の草の根元を見てくだされ。水の痕が、こう、段になって残っとります」
言われて目を凝らすと、確かに左の田の畔草には、水が引いた高さの痕が、うっすらと横に走っていた。右の田の草には、それがない。雨が抜けるのが早すぎて、痕を残す暇もないのだ。
「麦の年と、同じだな。右は早く引き、左は残る」
「へえ。田の癖は、作物が替わっても変わりません。……ただ、藤丸様」
太助は立ち上がって、腰を伸ばした。
「麦は、濡れを嫌う作物でした。じゃで、水の早う引ける右が勝った。けんど、稲は水が好きな作物です。今年は、あべこべになるやもしれませんぞ。水を長う抱いとる左が、勝つやもしれん」
「太助は、どちらだと見ている」
「さて……」
太助は、日に焼けた首筋を掻いた。
「正直、分かりません。稲は水が好きと言うても、好きなだけ飲ませりゃええというもんでもない。穂の出る前は水が要る。じゃが、いつまでもじくじくと深いままの田は、根腐れを起こすこともある。……左の深さが、稲にとって、ちょうどよい深さか、深すぎるか。そこは、刈って量ってみんことには」
「答えは、刈って、量って、それからか」
「へえ。それだけは、麦も稲も変わりません」
藤丸は帖を開き、書きつけた。
――夏。見。雨後二日、右は水引き、左は畔草に水の痕。太助、左の勝ちもありうると言う。
そして、その行の脇に、小さく書き添えた。
――当て推量。稲は水を好むゆえ左が勝つか。ただし深すぎれば根腐れとも。
筆を仕舞いかけたとき、田の下手のほうから、子どもらの声が上がった。水の音と、笑い声が交じっている。
「ああ、あれは」
太助が、声のほうへ顎をしゃくって、笑った。
「田の落ち水の先の堀で、泥鰌を掬うとるんですわ。夏の堀は水が減って、魚が寄りますでな。……藤丸様も、ご覧になりますか」
* * *
堀は、二枚の田の下手で、田の落ち水を集めて流れていた。夏の日照りで水嵩は膝にも足りず、そのぶん、魚が寄っていた。
子どもらが五、六人、裾をからげて水に入り、笊を沈めては引き上げている。笊の中で、泥鰌が跳ねた。小鮒も交じる。上げるたびに歓声が上がり、岸に置いた桶の中は、もうずいぶん賑やかになっていた。
「夏の泥鰌は、精がつきますでな」
太助が、目を細めた。
「田に水のある間は、魚は田と堀を行き来しております。落ち水の口は、魚の通り道。子らは、それをよう知っとるんですわ」
「獲った魚は、どうする」
「その日の汁にして、食い切ります。どこの家も、たいていは」
太助はそこで、少し言い足した。
「――ただ、川向こうの組には、焼き枯らしにする家がございます。囲炉裏の火で、からからになるまで焼き締めて、吊しておく。そうしておくと、冬の汁の実になります」
「冬まで、持つのか」
「持つ家と、持たぬ家がございましてな」
太助は、首筋を掻いた。
「去年の冬、川向こうで聞いた話ですが。同じように焼き枯らしたつもりでも、正月まできれいに持った家と、梅雨を待たずに黴させた家があったそうで。黴びさせた家は、もうやらん、あれは持たんもんじゃと言うとりました」
「持った家と、駄目だった家。やり方は、どう違う」
「さて……」
太助は、しばらく宙を睨んでから、指を折り始めた。
「持った家は、火を惜しまん家です。芯まで、からからに焼き切る。それと、吊す場所。囲炉裏の上の、煙の当たる高いところに掛けとりました。駄目だった家は――思い出しますに、焼きが浅うて、中に生が残っとったのやもしれません。置き場所も、土間の隅の、籠の中でした」
「土間の隅は、湿るな」
「へえ。梅雨時は、ことに」
藤丸は、すぐには帖を開かなかった。
堀のほうから、水を跳ねる音と歓声が届く。畔の下では、稲が風で一つに揺れている。目の前の田には水が張られ、平六の山の木は雨を待ち、囲炉裏の上では魚が煙に炙られている。どれも、まるで違う場所の話だった。
――違う場所の話では、なかった。
麦は濡れを嫌い、水の早く引ける右の田が勝った。椎茸は、ほどほどの湿りを好むと平六が言った。干した魚は、湿りが敵だ。田でも、山でも、囲炉裏の上でも、同じ一つのものが、勝ち負けを分けている。
藤丸は帖を開いた。
――夏。聞(太助)。焼き枯らし、持つ家は芯まで焼き、煙の当たる高きに吊す。持たぬ家は焼き浅く、湿る隅に置く。
行の脇に、小さく書き添える。
――当て推量。分け目は湿り。焼き切りは、魚の内の湿りを抜くことか。
筆を置きかけたとき、太助が「ああ」と声を上げた。
「一つ、言い忘れておりました。持った家も、一度だけ、駄目にした年があったそうで」
「同じ家がか」
「へえ。同じ囲炉裏で、同じように焼いて、同じところに吊した。それでも、その年だけは正月を待たずに傷んだと。あの家の婆さまも、首をひねっとりました。あの年は、何が違うたのじゃろうと」
藤丸は、開いたままの帖に目を落とした。書き添えたばかりの一行が、すぐそこにある。分け目は湿り。よく揃った、気持ちのよい一行だった。
その下に、もう一行足した。
――ただし、同じにやりて傷みし年あり。訳、分からず。
「太助。ひとつ、頼まれてくれないか」
「へえ」
「持った家のやり方を、いま折った指のとおりに、組の寄り合いで話してもらえないか。この夏の魚で試す家があれば、冬に答えが出る。持てば、雪の日の汁が一椀増える」
「ははあ」
太助は、日焼けした顔をくしゃりと崩した。
「わしが考えた知恵のような顔で、話すわけですな」
「かまわない。もとより、川向こうの家の知恵だ。誰の知恵でも、回れば汁になる」
「承知しました。……ああ、それと、ついでにもう一つ。泥鰌は、獲ってすぐ煮ると泥臭い。きれいな水に一晩泳がせて、腹の泥を吐かせてから使うとうまい――これも、川向こうの婆さまの知恵です。一緒に回しておきましょう」
そのとき、岸のほうから煙が上がった。子どもらが小さな火を焚き、獲れたての泥鰌を串に刺して焼き始めたのだ。一番年かさの子が、焼けた一本を、おずおずと藤丸に差し出した。
「若様も、どうぞ」
藤丸は受け取り、頭から囓った。泥は、少し臭った。それでも、脂の焼けた匂いは悪くない。骨ごと噛み砕いて呑み込み、目を丸くしている子らに言った。
「骨まで食え。骨は、骨になるぞ」
「……骨が、骨に?」
「食うた魚の骨が、おまえの骨になる。どれほど効くものかは知らん。いま、この体で確かめている最中だ。去年より、これだけ伸びた」
短くなった袖口を持ち上げてみせると、子どもらがどっと笑った。まことじゃ、若様の手首が出とる、と誰かが言い、笑い声が堀の水面に散った。
帰り道、藤丸は畔の上でもう一度だけ足を止め、二枚の田を振り返った。青い稲の波の向こうで、子どもらはまだ水の中にいる。桶の中の魚は、今夜の汁になるものと、うまくすれば、冬の汁になるものとに、これから分かれていく。
藤丸は帖を閉じ、紐を結んだ。袖の短い腕に、夏の日が当たっていた。
お読みくださり、ありがとうございます。
作中に出てくる「焼き枯らし」について、少しだけ。
魚を火で焼いてから干し上げる保存法そのものは古く、干物や焼き干しの類は平安の記録にも見えます。ただ、戦国期の土佐の村で、囲炉裏の上に小魚を吊すことが実際どれほど広く行われていたかは、はっきりした記録が残っていません。作中の描写は、後の世まで各地に残った囲炉裏の煙で燻す保存のやり方から、当時もあり得た形として書いたものです。
もう一つ、田の落ち水に魚が寄る話について。水を張った田と、その水を落とす堀とを、小魚が行き来することは各地で知られており、それを掬って食べる暮らしは長く続きました。泥鰌がよく食べられたことで知られるのは江戸期以降の記録ですが、田や堀の小魚が村の膳を支えていたことは、それより前からあったと考えられています。とはいえ、この時代の土佐で誰が何を獲って食べていたかを直に伝える史料は乏しく、そのあたりは想像で補っております。
なお、囲炉裏の煙の当たる高いところに吊すと物が持つ、という知恵は、火の熱と煙と、そして何より乾くことが揃った場所だからこそのものです。太助が指を折って数え上げたことは、理屈の言葉こそありませんが、村の暮らしが長い年月をかけて確かめてきたものだったのだろうと思います。
次回もお付き合いいただければ幸いです。




