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二人の読み手

前回は父・昌源の側の二日間でした。今回は藤丸に戻ります。

時期は、屋敷の帳を検めた日の、少しあとです。

 書くことは、決まっていた。


 佐吉さきちの文にあった、揃えぬことで得をする者はちょうの内におりました、という答え。あれと同じ順で、藤丸ふじまるも手元をあらためた。そして、見つけた。自分の家の帳の内にいたのは、得をする者ではなく、帳と帳の継ぎ目だった――それを、次の文に書く。ただそれだけの、短い用のはずだった。


 だが、筆は一行目から進まなかった。


 ――蔵方くらかたの帳と、台所の覚えを、見比べましたところ。


 そこまで書いて、藤丸は筆を置いた。蔵方、と書いた。台所、と書いた。この先には、五枡ますなかばの話が来る。量り合わせの話が来る。書けば書くほど、それは久武の屋敷の、台所の中身だった。


 前に文を書いたときは、こうではなかった。量り比べの手立ては書くが、何を量ったかは書かない。問われたことに答え、問われていないことは書かない。それで、きれいに分かれた。


 今度は、分かれない。伝えたいこと、そのものが、家の帳の中身なのだ。


 墨が乾いていくのを眺めているのが嫌になって、藤丸は書きかけの紙を手にしたまま、縁側に出た。


 庭に、夏の陽が満ちていた。そして、渡りの廊下の先から、親直ちかなおが歩いてきた。


「――また、安芸か」


 すれ違いざま、兄はそう言った。手の中の紙を見たのではない。顔を見て言ったのだ、と藤丸には分かった。


「はい。……書きあぐねております」


「ほう」


 親直の足が、止まった。書きあぐねる、という言葉が珍しかったらしい。


「見せてみよ」


 差し出すかどうか、迷う間はなかった。手が先に出ていた。親直は書きかけの文を受け取り、立ったまま、目を走らせた。長い文ではない。読み終えるのに、いくらもかからなかった。


 ふ、と短い笑いが漏れた。


「……お主、これを、外に出すつもりか」


「いけませぬか」


「わしが余所よその家の門前でこれを拾うたら、拾い賃に酒手さかてを弾むところよ」


 親直は、紙を返してよこした。


「蔵の帳と台所の覚えが、別にあること。その二つの枡の大きさが、違うこと」


 二つだけ挙げて、兄はそこで口を閉じた。


「……それだけに、ございますか」


「わしが読んだものを、わしが数えて聞かせてやる筋はない。数えるのは、書いた者の役目よ。……言うておくが、二つでは済まぬぞ」


「佐吉は、そのような読み方は――」


「相手の話はしておらぬ」


 声は、静かなままだった。


「文の話をしておる。文は、歩く。人の懐に入り、道を行き、宿に泊まる。歩く物は、落ちる。……書いた者の手を離れた文を、誰が読むかは、書いた者には選べぬ」


 藤丸は、返された紙に目を落とした。蔵方。台所。五枡と半ば。さっきまで、家の中身だと思って眺めていた字が、いまは違うものに見えた。拾った者の目で見れば、これは中身ではない。手掛かりだ。


 親直は、もう歩き出していた。その背中が、去り際に一言だけ残していった。


「書くなとは言わぬ。落ちても痛うない文を書け。それだけよ」


*  *  *


 部屋に戻り、藤丸は書きかけの文を、文机ふづくえの上に広げた。


 読み直す。ただし、今度は自分の目ではない。拾った者の目で、読む。


(蔵方、台所――これは、帳場の名だ。名が分かれば、帳が二冊あると分かる)


 兄が挙げたのは、ここまでだった。二つでは済まぬ、と言われている。藤丸は指を先へ滑らせた。


(五枡と半ば――これは、枡の差だ。差が分かれば、二つの枡の大きさの見当までつく。量り合わせの日取り――これで、米が蔵を出る時季が分かる。……そして、量り合わせをしたということそのものが、屋敷の者がそこに気を配り始めた、ということだ)


 四つ。兄は、二つで足を止めていた。


 分かっていなかったわけではない。書いた物が書いた者の手を離れることも、書いた当人が自分の紙をいちばん粗く読むことも、藤丸はとうに知っている。知っていて、やらなかった。伝えたいことのほうに気を取られて、外から読み返す手間を惜しんだ。惜しんだ結果が、この一枚だ。


 悔やむのは、あとでいい。藤丸は紙を裏返して、削る順を決めにかかった。


 一つずつ、拾われて困るものを、紙の上から取り除いていく。帳場の名を消す。数を消す。日取りを消す。


 削りながら、藤丸は、自分がいま二人を相手にしていることに気づいた。届いてほしい一人と、届いてほしくない一人。同じ一枚の紙を、その二人が読む。届けたいものだけを残し、届いてほしくないほうには何も渡さぬ。削るというのは、その線を引く仕事だった。


 削り終えて、残ったものを見た。


 残ったのは、仕組みだった。


 ――手元の帳を検めましたところ、それがしの家にも、得をする者は、おりませんでした。おりましたのは、帳と帳の継ぎ目にございます。一冊の帳は、その内では狂いませぬ。これは、帳場の古い者に教わりました。狂いますのは、物が一冊を出て、次の一冊に入る、そのあわいにございます。間には、紙がありませぬ。ありませぬゆえ、差が出ても、どの帳にも載りませぬ。誰も盗んでおらず、誰も欺いておらず、それでも数の合わぬ場所が、帳場と帳場の間にはございました。


 ――それがしは、間に、紙を一枚入れました。何をどう入れたかは、書けませぬ。されど、紙が一枚入っただけで、間は、間でなくなりました。


 書きながら、藤丸は少し驚いていた。削ったのに、伝えたいことは、欠けていない。むしろ、帳場の名や数が消えた分だけ、継ぎ目、という言葉が、紙の真ん中に残った。佐吉に渡したかったのは、蔵の中身ではなく、この言葉のほうだったのだ。


 最後に、問いを書いた。


 ――あなた様の帳は、一冊にございますか。分かれておりますか。分かれておりますなら、間は、どうなさっておいでですか。


 書き終えて、読み返して、もう一度、拾った者の目で読んだ。帳場が二つ以上ある家、というところまでは読める。だが、それは家老の屋敷なら当たり前のことで、手掛かりにはならない。落ちても、痛くない。


 それでいて、佐吉が読めば、答え合わせと、次の問いが、ちゃんと入っている。


(一枚の紙に、読み手が二人おる)


 届けたい一人には、継ぎ目という言葉が届く。届いてほしくないもう一人には、何も残らない。同じ字を、二人が違うふうに読む。――そこまで来て、ようやく、外へ出せる紙になる。


*  *  *


 数日ののち、甚兵衛じんべえが安芸へ発つ日が来た。


 門前で、藤丸は畳んだ文を差し出した。甚兵衛は心得た手つきで油紙にくるみ、懐の奥へ納めた。荷は検められても、人の身は検められない。あの作法だった。


 納めてから、甚兵衛はもう一度、懐に手を入れて位置を直した。指が探ったのは、藤丸の文とは別の場所だった。油紙の乾いた音が、二度、した。


「……もう一つ、おありですか」


「はい」


 甚兵衛は、それだけ答えて、手を懐から出した。何が、とも、誰から、とも言わなかった。


「安芸へ、ですか」


「行き先は、同じにございます」


 それきり、甚兵衛は笑って、荷の紐を締め直した。藤丸も、それ以上は訊かなかった。訊いても、この男は答えぬ。答えぬ者に重ねて訊くのは、答えを引き出すためではなく、こちらが落ち着かぬからだ。


「道中、気をつけて」


「はっ。行って参ります」


 荷を負った背中が、道の先に小さくなっていく。誰の文かは分からない。分からないまま、自分の一通が、もう一通と同じ懐で、同じ道を行く。それは、心強いというのとは少し違った。自分の知らぬところで、何かがすでに動いている――そういう気配のする、道の遠ざかり方だった。


 藤丸はそれを見送ってから、屋敷に引き返した。


*  *  *


 部屋には、削る前の下書きが残っていた。


 蔵方、台所、五枡と半ば。拾われて困るものが、全部載ったままの一枚だ。文箱ふばこに仕舞いかけて、藤丸は手を止めた。落ちても痛くない文を書け、と兄は言った。書き上げた文だけの話ではあるまい。書き損じも、紙は紙だ。歩きはしないが、残る。


 藤丸は下書きを持って、台所へ行った。かまどの火が、夕餉ゆうげの支度で赤くおこっていた。女中に断って、紙を火にくべる。蔵方、と書いた字が、端から茶色くなって、めくれて、消えた。


 竈の上の柱には、あの換算の紙が、一枚、貼られたままだった。


 残す紙と、残さぬ紙。書いた文は安芸へ歩き出し、書き損じは、煙になった。


 書いたものを外へ出すとき、何を削るか、という話でした。


削る基準を教えたのが次兄というのが、この兄弟らしいところだと思っています。長兄なら「書くな」と言い、父なら「出所を書け」と言うでしょう。落ちても痛くない文を書け、というのは、落ちることを前提にした人の言い方です。


次は、受け取った側に回ります。

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