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一人の帳場

この話は、父・久武昌源の側から書いております。

時期は、甚兵衛が安芸から戻ったその日の夜から、翌る日の夜まで。前回までの出来事と、日が重なります。

藤丸は、この夜に何が話されたかを知りません。

 商人というものは、良い報せから話す者と、悪い報せから話す者に分かれる。昌源しょうげんの見るところ、甚兵衛じんべえはそのどちらでもない。あの男は、軽い報せから話す。道中の天気、宿の飯、行き合うた顔ぶれ。軽い話で相手の息を測ってから、おもむろに重い荷を下ろす。四十年、荷を担いできた男の、荷の下ろし方だった。


 その甚兵衛が、灯りを一つ残した部屋に座るなり、道中の話をすべて飛ばして切り出した。


「お耳に入れたき儀が、ございます」


 重いほうから来た。昌源は、脇息きょうそくから身を起こした。


「申せ」


安芸あきの御住職より、お尋ねがございました。……お預け先の帳場ちょうばの大きさは、幾人ほどのものか、と」


 昌源は、すぐには答えなかった。甚兵衛も、続きを急がなかった。


「その問いは、佐吉さきちのおる前で出たか」


「いえ。本堂の脇にて、二人きりの折に」


「言い値は、口にしたか」


「一度も。……値の話は、これまでもただの一度も、出ておりませぬ」


 昌源は、小さく頷いた。


「して、お前はどう聞いた」


 甚兵衛は、膝の上で手を重ねたまま、少し考えた。


「これまでの御住職は、手放すか手放さぬか、というもの言いにございました。此度こたびは、預け先、と仰せになった。……手前の耳には、預けることはもう決めておいでで、預け先をあらためておいでのように、聞こえましてございます」


「うむ」


「出過ぎたことを申しました」


「いや。その耳を買うて、お前に頼んでおる」


 昌源はそれだけ言って、しばらく灯りの芯を見ていた。それから、短く締めた。


「ようやった。この儀、しばらくわしが預かる」


「はっ」


 甚兵衛は深く頭を下げ、来たときと同じ静かさで下がっていった。廊下の足音が消えるまで、昌源は動かなかった。


*  *  *


 一人になってから、昌源は灯りの芯を少し立てた。


(帳場の大きさは、幾人か)


 坊主らしい問いだ、と思った。値を言わず、値を測る。こちらの答え方ひとつで、あの寺の言い値は上がりもし、下がりもする。並の答えを返せば、高う買わされる。


 もっとも、と昌源は思い直した。値の話をしているのは、あちらだけだ。


 発端は、こちらだ。親信にも親直にも、武芸と行儀の師がついている。藤丸にだけ、誰もついていない。武の師を付けても、行儀の師を付けても、あの子の伸びていく先には届かぬ――それが分かっていながら、では何の師なら届くのか、昌源にも長らく答えがなかった。算用に明るい子がいると聞いて、人を出して様子を探らせたのは、答えの見当がついたからではない。見当がつかぬまま、手だけ打っておいたのだ。


 それが、どうだ。


 教える者を探しておったら、教え合う者が出てきた。


 文が一往復するたびに、昌源は双方の育ちを見てきた。藤丸は問われて、おのれのちょうの書き方を改めた。佐吉は問われて、読み替えの表とやらをこしらえた。どちらが師で、どちらが弟子か、もう分からぬ。分からぬままで、双方が伸びている。師を一人あてがうより、よほどたちのいい育ち方だった。


 その育ちに、値を付けろと言われている。


 昌源は、脇息に肘を戻した。腹は立たなかった。あの住職とて、寺の蔵をまるごと預けた子の行く先に、値を付けねばならぬ側にいる。値を付けねば、手放す理屈が立たぬのだ。


 答えは、いくつも浮かんだ。浮かぶうちは、どれも書けぬ。


 昌源は筆を執らず、文箱ふばこの蓋にも手を触れなかった。甚兵衛が次に発つまでには、まだ日がある。急いだ側が値を払うということを、昌源は長く帳場で見てきた。


 灯りを落としてから思い出したのは、値のことではなかった。昼間、甚兵衛を取り次いだときの、藤丸の顔だ。何かを考え込んでいる顔をしていた。あれは、当分寝ぬ顔だ。


 ――明日あたり、何か言うてくるやもしれぬ。


*  *  *


 あくる日の夜、昌源は文机ふづくえの前に座って、まだ筆を執らずにいた。


 答えは、昼のうちに出ていた。出したのは、自分ではない。


 朝、藤丸が屋敷の帳を見たいと言い出したとき、昌源は内心、身構えた。帳場の者の粗を見つけて、得意げに突きつけに来るなら、まだ十の子だ。だが藤丸が持って戻ってきたのは、粗ではなく、継ぎ目だった。誰の粗でもないものを見つけ、誰も問い詰めず、ますも替えず、紙を一枚だけ入れた。


(問い詰める相手が、おりませんでした、と来たわ)


 あの答えを聞いたとき、昌源は、顔に出さぬのに少し骨が折れた。粗探しは誰にでもできる。粗がない、と見極めるほうが難しい。それを、あの歳でやった。


 もっとも、褒めてはやらなかった。代わりに、当座の手と仕舞いの手を取り違えるな、とだけ言い渡した。藤丸は、はい、と答えながら、仕舞いの手を諦めた顔をしていなかった。それでいい。諦めた顔をされたら、言うた甲斐がない。


 さて、と昌源は、住職の問いに戻った。


(帳場の大きさは、幾人か)


 答え方は、二つある。


 一つは、大きく見せることだ。筆頭家老の家である。蔵方くらかたの帳場、台所の覚え、年貢の納めの帳付け。関わる者を数え上げれば、十や二十の名は並ぶ。嘘にはならない。家の格を示すには、それで足りる。


 だが、その答えを受け取った住職は、こう読むだろう。佐吉は、その十や二十の末席に据えられるのだ、と。出来上がった帳場の隅で、年かさの文吏ぶんりたちの下について、書き方を直され、口を挟めず、幾年も過ごす。あの住職は、寺の蔵をまるごと一人の子に任せた男だ。帳場の末席がどういう場所か、知らぬはずがない。大きな数は、家の見栄えを上げて、子の行く先の値打ちを下げる。


 もう一つは、ありのままを言うことだ。


 藤丸の帖は、藤丸の帳場は、まだ帳場と呼べるものではない。手伝いの一人もいない。書く者が、一人いるだけだ。年は十。だがその一人が、今日、帳と帳の間の暗がりに、紙を一枚置いた。帳場は、これからその者が作っていく。


 幾人か、と問われれば、答えは一つしかなかった。


(一人、じゃ)


 昌源は、灯りの下で、口の端だけで少し笑った。


 家老の家が、帳場の人数を問われて、一人と答える。並の相手なら、軽んじられたと取るか、貧しい家だと侮るか、どちらかだ。だが、あの寺には通じる。数字を二つだけ書いてよこした子を育てた寺だ。飾らぬ数の重さが分かる者が、あの山門の内には、少なくとも二人いる。


 それに――と、昌源は思った。これは売り込みでもある。出来上がった帳場の末席と、これから出来る帳場の初めと、どちらがあの子の生きる場所か。帳場を預かったことのある者なら、問うまでもない。末席は人を守りはするが、育てはせぬ。初めの一人の脇に座る者は、帳場ができていくのを、初めから見られる。


 昌源は、ようやく筆を執った。


 時候の礼と、変わらぬ文の取り次ぎへの礼を先に置き、肝心の答えは、短くした。


 ――お尋ねの帳場の儀。当家に、帳場と呼ぶべきものは、いまだございませぬ。帳を書く者が、一人おるのみにございます。よわい、十。帳場は、この先、その者が作りまする。よって、幾人かとのお尋ねには、一人、とお答え申すほかございませぬ。


 値のことは、一字も書かなかった。あちらが言い出すまで、こちらからは触れぬ。


 書き終えて、読み返す。飾りがなさすぎるか、とも思ったが、筆は足さなかった。この答えで言い値が下がるなら、それまでの縁だ。飾って釣った子は、飾りの剥げた日に去る。


 文を封じながら、昌源は、これを藤丸に話すかどうかを、もう一度だけ考えた。


 話さぬ、と決めた。


 文の往復は、子らのものだ。あれは、値の付かぬところで育っている。値の話は、大人の仕事だった。二つを混ぜれば、どちらも濁る。藤丸が佐吉の顔を見る日が来るなら、その日までに、値の話は終わっていればいい。親の帳場に載せる行と、子の帖に載せる行は、別でよいのだ。


 封じた文を文箱に納め、昌源は灯りを消した。


 急がぬ。だが、忘れもせぬ。


 一人の帳場に二人目が座る日を、暗がりの中で、昌源は静かに数に入れていた。


値を言わずに値を測る、という探りの受け方の話でした。

昌源が選んだのは、飾らずに答えることです。ただしそれは、正直だから選んだのではなく、そのほうが通ると読んだからでもあります。このあたりの二重さが、この人の面白いところだと思って書きました。


次は、藤丸の側に戻ります。安芸へ出す文を、どこまで書いてよいのか、という話です。

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