帳の継ぎ目
前回、藤丸は「おのれの帳の内を検める」と決めました。今回はその答え合わせです。
蔵の帳と、台所の覚え。庭ひとつ隔てただけの二つの帳場で、同じ米の数が食い違っていました。
朝餉の膳が下げられるのを待って、藤丸は父・昌源の間に願い出た。
「屋敷の帳を、見せていただきとうございます」
昌源は、文机から顔を上げた。
「どの帳じゃ」
「蔵方の帳と、台所の覚えを。……佐吉の文に、揃えぬことで得をする者は、それがしの帳の内におりました、とありました。佐吉は、遠くを探す前に、手元の帳を検めて、それを見つけています。わたしも、同じ順でやってみとうございます」
「ほう。屋敷の帳の内に、得をする者を探すか」
昌源の声に、わずかに笑いの色が混じった。咎める響きではなかったが、藤丸は少し慌てた。
「疑うて探すのでは、ありません。ただ――枡が揃っていないことは、もう知っています。屋敷の枡と、蔵方の枡と、村の枡が、それぞれ違うことも。ですが、揃っていない枡で付けられた帳が、束になったときにどう見えるのか。それを、まだ見たことがありません」
昌源は、しばらく藤丸の顔を見ていた。それから、短く言った。
「よかろう。蔵方には、わしから言うておく。ただし、帳は持ち出すな。写すなら、その場でだけじゃ。……それと、藤丸」
「はい」
「見つけた物が何であれ、帳場の者を、その場で問い詰めるな。問いは、いったんわしのところへ持って来い」
探す前から、見つけたときの作法を言い渡される。藤丸は、その言い方に、父がこの先の何かを見通しているような気配を感じたが、それが何かは分からないまま、頭を下げた。
* * *
蔵方の帳場は、蔵の脇の小さな板の間だった。
北を向いていて、昼でも薄暗い。墨が乾きすぎぬのはこの暗さのおかげだと聞いたことがあるが、字を読むには顔を近づけねばならなかった。壁の一枚向こうから、米と、湿った藁の匂いが染み出してくる。
年配の文吏が一人、几帳面に膝を揃えて待っていた。年貢の納めの季節に、藤丸の写しを検めた、あの男だった。
「殿さまより、承っております。……どうぞ、ごゆるりと」
差し出されたのは、蔵の出し入れの帳だった。藤丸は礼を言って、頁を初めから繰り始めた。
入りの行は、秋に集まっている。村々からの年貢だ。俵で届いた米を、蔵方の枡で量り直して、枡の数で記してある。納めの庭で見た、あの光景が、そのまま行になっていた。
出の行は、年じゅうに散らばっていた。台所へ幾枡。家中への扶持に幾枡。どの行も、量り出すのは蔵方の枡だ。
(入りも出も、この蔵の中では、枡は一つなのか)
それは、少し意外だった。ばらばらの枡で付けられた、読みにくい帳を想像して来たのだ。だが、蔵の帳は、蔵方の枡という一本の物差しで、初めから終わりまで通っていた。入りの俵はばらばらでも、量り直した先は、一つの枡に揃えてある。
「よく、揃っていますね」
思わずそう言うと、文吏は、皺の寄った目元を少しだけ緩めた。
「蔵の内は、一つの枡で回っておりますゆえ。……帳と申すものは、一冊の内では、そう狂わぬものにございます」
一冊の内では。
藤丸は、その言い回しが、妙に耳に残った。ならば、狂うとすれば、どこでなのか。
蔵の帳の「出」の行を、藤丸は指で押さえた。台所へ、幾枡。この米は、蔵を出て、台所に着く。着いた先の台所にも、覚えがあるはずだった。
「台所の覚えと、見比べてもよろしいですか」
文吏は、一瞬、間を置いた。
「……ようございますとも。ただ、若さま」
立ち上がりかけた藤丸に、文吏は、慌てるでもなく言い添えた。
「数は、合いませぬよ」
* * *
台所は、蔵の脇とは何もかもが逆だった。竈の火が入っていて暖かく、湯気と、菜を刻む音がある。覚えは、その隅の棚に置かれていた。
蔵の帳よりずっと薄く、字も柔らかい。台所を束ねる年嵩の女中が、その日の終いに書き付けているのだという。受けた米、遣った米。それだけが、短く並んでいる。
藤丸は、蔵の帳で見てきたばかりの行を、覚えの中に探した。あった。同じ日、同じ米。蔵の帳では、出、五枡。台所の覚えでは、受け、五枡と半ば。
同じ米が、蔵を出て台所に着くまでの間に、半枡近く、増えている。
「……増えるのですか」
「台所の枡が、蔵方の枡より、少うございますでな」
付き添ってきた文吏は、こともなげに言った。
「同じ米でも、小さい枡で量り直せば、数は増えまする。逆に、こぼれや目減りで、実の量は少し減っており申す。数は増え、量は減る。……昔から、そういうものにございますよ」
(帳に並んだ数と、俵の中の米は、別のものだ。数だけを見ていれば、米は増えたように見える)
「その差は、どこに書くのですか」
「どこにも」
文吏は、初めて、少しだけ困ったような顔をした。
「蔵は蔵の帳で合うており、台所は台所の覚えで合うております。差が出るのは、帳と帳の間でございますゆえ。……渡す折に、双方で書き付けを取り交わす。そういうことは、しておりませぬ」
渡す折に、書き付けを取り交わさない。
(蔵にも台所にも、それぞれの帳がある。ないのは、蔵から台所へ米を渡した、その時に書く一行だ)
藤丸は、二冊を並べたまま、しばらく動けなかった。
一冊の内では、帳は狂わない。文吏の言った通りだった。狂うのは、物が一冊の帳を出て、次の一冊に入る、その継ぎ目でだ。枡が替わり、数が化け、こぼれた分は誰の行にも載らない。悪者は、いない。誰も盗んでいない。ただ、継ぎ目の暗がりが、昔からそういうものとして、そこにあるだけだった。
(佐吉の帳の内には、得をする者がいた。わたしの家の帳の内にいたのは――継ぎ目だ)
* * *
父の間で、藤丸は見てきたままを話した。昌源は、黙って聞き終えてから言った。
「して、誰ぞを問い詰めたくなったか」
「いいえ。問い詰める相手が、おりませんでした」
「うむ。それが分かったなら、見た甲斐はあったの」
「ですが、父上」
藤丸は、膝の上で手を揃えた。
「このままにも、したくありません。枡を取り替えることは、わたしにはできません。蔵方にも台所にも、長年の手が枡に馴染んでいます。……ですから、まず、蔵方の枡と台所の枡を、一度だけ量り合わせとうございます。蔵の一枡が、台所の枡でいくつになるか。それを書き付けて、蔵方と台所と、両方の帳場に一つずつ置きます。以後、蔵から米が出るたび、その書き付けで数を読み替えて、双方の帳に同じように付ける。……そうすれば、渡した米が、二つの帳で一つの数になります」
枡は替えない。読み替える。佐吉が代替わりの帳にやったことを、枡にやる。それが、いまの自分の背丈でできる、精一杯だった。
昌源は、少しの間、藤丸を見ていた。
「屋敷の内なら、それで損をする者はおらぬ。……よかろう。文吏に申しつけておく」
部屋を辞す間際、昌源の声が背に届いた。
「藤丸。読み替えは、当座の手じゃ。当座の手と、仕舞いの手を、取り違えるなよ」
「……はい」
仕舞いの手は、枡そのものを揃えることだ。それには、嫌がる者を黙らせる力が要ると、父は言った。いまの自分には、ない。
だが、と藤丸は廊下を歩きながら思った。手の届く広さは、これから広がっていく。広がった分だけ、揃えていけばいい。
* * *
数日ののち、蔵の前で、量り合わせが行われた。
蔵方の枡に、米が一杯。摺り切って、台所の枡へ、静かに移していく。台所の女中と、蔵方の文吏と、藤丸が、それを囲んで見ていた。
一枡と、あと少し。その少しを小さい枡で受けて、文吏が読み上げた。
台所の女中が、腰を伸ばして藤丸を見た。家ごとに枡は違う、と、こともなげに言ってのけたのは、この女中だった。
「では、こちらの覚えの数と、蔵方の数と、どちらが正しいことになりますので」
「どちらも、正しいのです」
藤丸は答えた。
「ただ、こちらの数からそちらの数へ渡る道が、これまでありませんでした。この書き付けが、その道になります」
女中は、しばらく書き付けを見ていた。それから、得心がいったのかどうか分からぬ顔で、小さく頭を下げた。それでも、蔵の帳と自分の覚えを、初めて同じ場所で見比べた顔ではあった。
文吏の筆が、その一行を留めた。たった一行の、短い書き付けだった。
蔵の帳と、台所の覚え。長らく互いを知らずにいた二冊の間に、初めて、一行が渡された。
* * *
書き付けを二つの帳場に置かせて、藤丸は蔵の前を離れた。
蔵と台所は、同じ屋敷の内にある。庭ひとつ隔てただけで、日に幾度も人が行き来する。その二つですら、同じ米を、違う数で持っていた。
ならば、村と村では。国と国では。
(よそと商いをするというのは、その前に、数で通じ合うということだったのだ)
父は、村と村なら揉める、国と国なら――と言って、そこで言葉を切った。切られた先は、遠い国の話ではなかった。屋敷の庭を挟んだ、蔵と台所の間にあった。
今回の話の芯にあるのは、枡が揃っていないという不便さそのものではなく、「同じ物の量が、誰に訊くかで変わってしまう」という状態です。
量が確かでなければ、値も確かになりません。値が確かでなければ、よそと売り買いの約束が結べません。藤丸がいずれ目指す富国は、すべてこの土台の上に乗っています。その土台が、自分の屋敷の中ですでに緩んでいた、という話でした。
なお、枡の不統一が全国的に解消されるのは、はるか後年、太閤検地を待つことになります。この時代、家ごと・村ごとに枡が違うのは、ごく当たり前のことでした。
次回もお付き合いいただけましたら幸いです。




