帳の内
藤丸視点に戻ります。甚兵衛が持ち帰ったものは、文一通だけではありませんでした。
甚兵衛が岡豊へ戻ったのは、夕立の気配が山の端に湧き始めた、夏の昼下がりだった。
「藤丸様。ただいま戻りましてございます」
旅装のまま庭先に膝をつき、甚兵衛は懐から油紙の包みを取り出した。荷からではなく、懐から。この文だけの作法が、往きも帰りも守られている。
「確かに、お預かりしてまいりました」
受け取った包みは、ほのかに温かかった。藤丸はそれを両手で受け、懐へ納めた。すぐにも封を切りたい気持ちはあったが、旅から戻ったばかりの者を前で待たせて読むものではない。
「道中、変わりはありませんでしたか」
「へえ。……それが、少々」
甚兵衛は、旅の埃を払いもせず、道の話を始めた。
山田の御領分の改め場に、見慣れぬ顔の番の者が二人、増えていたこと。荷を検める手つきは慣れていないのに、念だけは入っていたこと。どこへ行く、より先に、どこから来た、と問われたこと。岡豊の名を口にした途端、番の者の目の色が変わったこと。そして帰り道には、通る者の名と在所を書き付ける帳面が、新しくできていたこと。
(どこへ行くかを訊くのは、荷を検めるためだ。どこから来たかを訊くのは、人を選り分けるためだ)
「帳面、ですか」
「へえ。板切れに紙を貼りつけた、粗末なものではございますが。……わしの名と在所も、書き付けられましてございます」
藤丸は、思わず甚兵衛の顔を見た。道に、帳面。その取り合わせが、妙に耳に残った。
「藤丸様。これは、年寄りの当て推量でございますが」
甚兵衛は、少し声を低くした。
「山田様が用心しておられますのは、道の先の安芸様ではのうて……道の後ろの、岡豊ではないかと。どこへ行くより、どこから来たが先に問われる道は、そういう道でございます」
それだけ言うと、甚兵衛はいつもの柔らかい顔に戻った。
「ときに藤丸様。殿様は御在宅にございましょうか。旅装を解きます前に、お耳に入れたき儀が、ひとつございますで」
「父上なら、間においでのはずです」
「では、ご無礼して」
甚兵衛は立ち上がり、旅装のまま、父の間の方へ歩いて行った。何の話かは、言わなかった。藤丸も、問わなかった。商人が主へ直に運ぶ話に、途中で口を挟むものではない。ただ、文でも荷でもない何かがもう一つ、あの懐から出てくるらしいことだけは、分かった。
* * *
夕立がひとしきり降って上がった後、藤丸は文机の前に座り、帖を開いた。
文の封は、まだ切っていない。急いた気持ちのままで読むのは、この文に対して雑な気がした。先に、道の話を帖に納めてしまうことにした。
夏の頁には、山田の行が、先にひとつある。
――夏。見(甚兵衛)。一筋。安芸への道すがら、山田の御領分にて番の者増え、荷改め念入りになる。春頃より。
その下に、新しい行を書き入れた。
――夏。見(甚兵衛)。一筋。同じ改め場に新顔の番の者二人。問いは来し方が先。岡豊の名に目の色変わる。帰路、名と在所を書き付ける帳面あり。
書き終えて、藤丸は筆を止めた。
同じ口からの二度目は、二筋とは言わぬ。父の言葉の通り、筋は一筋のままだ。
(二人が同じことを申せば、二筋。一人が二度申しても、一筋。数えているのは、話の数ではない。口の数だ)
だが、並んだ二つの行を見比べると、下の行の方が、明らかに重い。番の者が増えた、というだけだった話に、目の色と、帳面がついた。筋の数は増えぬのに、墨ばかりが重くなっていく。
甚兵衛の当て推量は、行の中には書かなかった。見たことと、見たことから読んだことは、別のものだ。代わりに、行の脇に、小さく書き添えた。
――甚兵衛の当て推量。山田の用心は、東でなく西。
書き添えてから、しばらくその小さな字を眺めた。当て推量は、当て推量と書いておけば、後で外れても、帖は嘘をつかずに済む。当たっていれば、そのとき初めて、行の中へ書き直せばよい。
障子の外で、雨上がりの庭が、濃い土の匂いを立てていた。
藤丸は帖を閉じ、懐から油紙の包みを取り出した。
* * *
灯りを寄せ、油紙を解くと、見慣れた筆が出てきた。
文は、厚くはなかった。紙は一枚きりで、これまでの往復と変わらない。ただ、余白が少なかった。行と行の間が詰み、字は小さく、それでいて一字も乱れていない。急いで書いた文は、字が走る。これは、走っていない。詰んでいるだけだ。
――お答え、確かに頂戴いたしました。枡を一つ、量る者を一人、摺り切りまで一つ。三つ揃える段取り、帳場の者として、深く恐れ入りましてございます。
礼は、それだけだった。すぐに、次の話が始まっていた。
――ひとつ、白状いたします。教わりました、と出所を添えて書く書き方は、あなた様の文に教わりました。よって、それがしも一つ、出所を添えて書きまする。
――数を違えるな。亡き父より、教わりました。それがしが出所を申せる教えは、生涯にこれ一つきりにございます。されど、この一つが、今も帳場のそれがしを、朝ごとに座らせております。
藤丸は、文を持つ手を、膝に下ろした。
佐吉の父のことは、経緯として聞いている。一条家中の代替わりの波で立場を失い、佐吉が寺に入る前に、亡くなった人。それ以上のことを、藤丸は知らない。佐吉も、書いていない。教えの中身と、出所と、それが今も効いているということ。書いてあるのは、その三つだけだ。
なのに、灯りの下で読むその数行は、文のどこよりも重かった。出所の分かる数字は重い、と佐吉なら言うのだろう。出所の分かる言葉も、同じらしかった。
そして、その次の行を読んで、なぜ佐吉が父の教えを先に置いたのかが分かった。
――揃わぬのではなく、揃えぬのだ、とのお父君の教え、読みましてすぐ、寺の古帳を確かめました。教わったことをそのままにしておくのは、量らぬ枡を蔵に飾るのと同じことと存じましたゆえ。
(確かめに、行ったのか)
教わって、頷いて、終わりにしなかった。読み替えの表で三十七年を遡れる者が、遡って、確かめた。数を違えるな、という一つきりの教えは、こういう形で効くものらしい。藤丸は、その先を少し急いで読んだ。
――古帳に、ございました。昔、寺に納める米は、納める家の枡で量るのが慣いであった由。されど前の帳場の方は、幾年かに一度、寺の枡にて量り直した控えを、帳の隅に残しておられました。読み替えの表にて、その控えの読み方が分かりましてございます。
――寺の枡は一つ。ならば、その枡の内では、量は比べられます。あなた様のお文の通りにございました。比べましたところ、同じ一斗の納めにて、ある家の量り直しだけ、年々薄うございます。
藤丸は、そこで指を止めた。
帳の上では、どの家も一斗と書いてある。書いてある字は同じで、蔵に入った米だけが違う。家の枡で量って納め、寺の枡で量り直したときにだけ、その差は姿を現す。そして量り直しは、幾年かに一度しかない。
――しかも、それが咎められた跡がありませぬ。
跡がない、と佐吉は書いていた。見つからなかった、とは書いていない。控えの数は、幾年かに一度、ちゃんと残っている。残っているものを、誰も読み返さなかったか、読み返して、黙っていたか。どちらであっても、その家は毎年、同じだけ薄い米を納め続けられた。
――揃えぬことで得をする者は、遠くの城下におるものと思うておりました。それがしの帳の内に、おりました。
帳の内に、おりました。
藤丸は、その一行を、二度読んだ。
父の言葉を聞いたとき、藤丸が思い浮かべたのは、蔵方や、商人や、顔の見えない「どこかの誰か」だった。佐吉は違った。教わったその足で、おのれの預かる帳を開き、おのれの帳の中から、得をしていた者を見つけ出してきた。
(遠くの誰かを探すのは、たやすい。見つけたところで、こちらの帳は減らぬ)
言われてみれば、手元から先に検めるのが、帳場の順番だった。言われるまで、藤丸はその順番に気づいていなかった。
文の末尾に、短い一行があった。
――同じところで止まっている、とのお言葉、幾度か読み返しました。止まっている場所を、それがし、嫌いではのうなりました。
それで、文は終わっていた。
問いは、なかった。この往復が始まってから、問いのない文は、初めてだった。だが、読み終えて物足りなさはなかった。答えて、白状して、確かめて、最後に一行。詰んだ余白のどこにも、いい加減な字がない。
この文は、帳のままだ、と藤丸は思った。ただ、一箇所だけ、帳からはみ出した行がある。嫌いではのうなりました、という最後の一行だけは、どの帳にも載せようのない一行だった。
* * *
文を文箱に納めてから、藤丸はもう一度だけ帖を開き、夏の頁に短く書いた。
――夏。文(佐吉)。揃えぬ者、己の帳の内に見出す由。
書きながら、昼間の行が目に入った。道にできた、名と在所の帳面。疑うために書かれる帳。富ませるために書かれる帳。そして、おのれの内の薄い俵を見つけ出す帳。
筆を置いて、藤丸は縁側に出た。
雨上がりの夜気が、庭の土の匂いを運んでくる。遠くの城下でも、東隣の山田でもなく、まず、おのれの帳の内。
次の文に書くことより先に、明日、屋敷の帳のどこを開くかを、藤丸は考え始めていた。
戦国時代、枡の大きさは全国でばらばらでした。領主ごと、村ごと、家ごとに枡が違い、同じ「一斗」でも中身の量が違うことは珍しくありませんでした。年貢や納め物を「納める側の枡」で量るか「受け取る側の枡」で量るかは、それ自体が力関係の問題で、量り方の取り決めをめぐる争いも各地に記録が残っています。枡が全国的に統一へ向かうのは、ずっと後の太閤検地(京枡)を待つことになります。
お読みいただき、ありがとうございました。




